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国家主義と無の思想 ②

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 8日(土)08時09分25秒
編集済
  (前稿の続き)

>そして、ほんらいは「個」の表現であった「文学」までもが、
「国家」という、共生のためには便利なルールの集合体を、
いつのまにやら、超越的な神話の箱物へと変容させ、神権政治化させ、
あれよあれよという間に、小説家たちが動員され、自らも"挺身"するまでに到ったわけであります。


■法華経や日蓮思想が愛国思想に変貌し、国家神道が国粋思想に転換されるのはわりとわかりやすいのですが、
問題は、この仏教や、禅由来の「空」の思想――。

「無」の思想では、戦えない。
戦争は遂行できないはず。
敵も、殺せないはず。
殲滅、できないはず。
(「無」には、無相・無心のニュアンスも含まれる)

……戦えない、はずなのだが、
あの真珠湾奇襲の翌年に開かれた
文学界グループと京都学派の合同の「近代の超克」シンポジウムでは
(『文学界』昭和17年9月・10月の特集記事)
西欧近代の物質主義的世界観に対する東洋思想の優位の象徴として、
「無の思想」「無我の思想」「空の思想」は、語られてしまった。
イロニーというならば、これこそが保田與重郎の言説以上にイロニーではないだろうか。

ヨーロッパの物質主義的世界観とは、
デカルト以来の「我」(仏教的にいえば末那識であり、煩悩そのもの)、
「エゴ」の肯定の思想であり、「有の思想」であり、
「科学技術や機械を生んだ頭脳文明」であると。
しかし、われわれ日本を頂点とする東洋文明は、
そんな野蛮な次元の「力」の文明を超克する精神文明を持った世界の盟主ではないのか、
いざ、植民地の奴隷状況からアジアを解放する救世主たらん…
そのために、総力を挙げて鬼畜米英と、戦う…。

――むろん、われわれの目指すのは、覇道ではなく王道である。
いや、王道よりもさらに崇高なる「皇道」である。
こうなった以上、欧米の野蛮な「覇道」に鉄槌を下し、
アジアと世界に範を垂れるために、あえて戦うのも、やむなし。
しかし、勝利の暁には、忿怒の相を慈悲の相に変えて、
大和民族の魂である「和」の思想を説いてやろう。
そして、この非常時の挙国一致体制に逆らう者は、疑う者は、すべて非国民である、

 ~という大政翼賛思想へと、転換されてしまう。

 戦争はいつもコトバで作られる。

それで勝ちゃいいが、負けてしまう。
勝算があればいいが、ないままで、突っ込んでしまう。
陸軍と海軍はバラバラ。
大本営はウソ八百。
参謀本部は机上の空論。
関東軍は敵前逃亡。
挙句の果てに、広島長崎二発の原爆。


               *


■この辺の日本近代の思想史・精神史十数年間の複雑骨折の構造が、
ワタシには、いまだ、よくわからないわけですね。
本来は、エゴも、国家も、理念的にはディコンストラクションさせて、
その内奥の意識の基層へと導くはずの「空」「無」の思想が、
西欧物質文明への民族的、国家的"優位性"として、奇妙に変換されていく過程……。

>『般若心経』はそういう修養段階の現世的欲望否定のためのお経で、
すべてを否定しつくしたところで、お経の中でも最高峰に位置する『法華経』にいたるわけですが、
この『妙法蓮華経』にもやはり「蓮」の「華」の字が見えることに注目しなければならないと思います。
                                     (大堀氏コメント)

>台風が来ようが、地震津波が押し寄せようが、水爆原爆が破裂しようが、砕けない世界、
天人が常に充満して妙なる音楽を奏でている本当の実在の世界が説かれており、
其の世界の構図が中心にスがあり、そこに大日如来、スメラミコトが座して展開している世界であるということなのであります。
つまり仏教の秘伝的真髄は蓮の花ような中心帰一の真理でありまして、
日本はその国家形態理念において真理を現成しているということだということです。(大堀氏コメント)


■要するに、大堀さんがいいたいのは、
「大日如来(毘盧遮那仏)」→「太陽/宇宙の中心の大生命」→「東大寺/聖武天皇/歴代天皇」
→「天孫降臨/天子/スメラミコト」→「大日如来……天皇……國體……中心帰一の真理……鎮護国家」
という、かなり無理のあるシンクレティズム(神仏習合)というか、
奇妙な本地垂迹説というか、観念連合というか、
そんなところでしょうか。

しかし、こんな路地裏の新興宗教の巫女さんみたいなリクツ(大堀さんに言わせれば秘伝的真髄)で、
当時も今も、もし、時代の強制や思想弾圧がなければ、どれだけの人が、"折伏"されるんだろうか。
法華経のくだりでは、「華」のシンボリズムをしきりに強調されていますが、
文を辿っていくと、どうやら、「蓮」は「菊」との同一視を誘導されているようで、
~いっそ、『妙法菊華経』だったら、ベストだったんでしょうけどね。

             *


■人間個人の精神を、般若の智慧、空の智慧へと導くはずの仏教哲学が、
(あるいはその近代版である西田幾多郎以下の京都の哲学者たちが)
なにゆえに、国家を、「大我」へと意味変換させ、
大乗の慈悲まがいの救世主・盟主思想へとメタモルフォーゼさせていくのか。
それでインテリ層は納得したのかどうか、学徒たちは、死地に赴けたのかどうなのか。
そういった時代思潮の中で、当時の目立った文学運動とおぼしき日本浪漫派や保田與重郎は、
どのような位置と意味を持ったのか。

この辺は、もう少し保田や京都の思想家たちを熟読しないと
見えてこないのだろうとは思います。
「近代の超克」座談会に出席した西谷啓治あたりは、こういった「無」の思想の代表格でしょうか。
ただ、西田幾多郎の弟子の田辺元なんて、三ページも読むと、いかにも退屈で、退屈で……。



群系33
「近代の超克」試論
http://gunnkei.sakura.ne.jp/99_blank171.html#label1
 
 

小説が生まれるとき

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2018年 9月 7日(金)19時27分36秒
   坂井瑞穂氏の「介在者たち」を面白く読んだ。今回、坂井さんは合評会に御出席と伺っていますが、是非いらしていただいて小説についての深い議論をしたいと思っております。
 「介在者たち」は小説が生まれる源泉の混沌が坂井さんの個性と相まって、混乱させられながら楽しみました。「聖なる予言」から「ブリキの太鼓」。多重人格者。蓄積された哲学、精神病理学、政治学、文学が夜空に砕け異様な光をはなっているようです。

 文学もグローバルになって、世界のどこで何人が事を起こそうと驚くことはないのですが、書き手の現在立っているところがあいまいだとリアリテイが感じられないでしょう。
 世界で起きているあらゆる事件の主人公の中にも、「私」は存在するかもしれません。

 ファンタジー冒険小説の分野に飛び出していってください。もう、やってますよね。今回の作品は、その序章かと。
 

国家主義と「無」の思想

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 7日(金)14時27分0秒
編集済
  ■詳しいご説明、ありがとうございます。
下のコメントを読ませていただいたところ、大堀さんの仏教に対するスタンスは
基本的には、天台智顗の五時八教説なんですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9B%B8%E5%88%A4%E9%87%88

>五時
最初に『華厳経』を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な『阿含経』を説いたとする。
人々の理解の割合に応じて、『方等経』、『般若経』を説き、最後の8年間で『法華経』と『涅槃経』を説いたとする。
そして最後に説いた『法華経』が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。


■これは日本の最澄さんの天台宗系、とくに法華経を奉じる宗派、日蓮宗や創価学会、
あるいは他の法華経系の新興宗教がこの説に立って釈尊の教え、仏教全般、仏教思想を見ている。
したがって、当然のことながら、
天台智顗、最澄の教相判釈を継承して、法華経こそが最高の教えということになる。

      ……ただ、法華経を最高の教えとすること、それを理解するということと、
      「南無妙法蓮華経」のお題目を勤行としてひたすらとなえよという日蓮の教えは、
      また別の問題だと思います。


■この解釈には、問題点もあって、個人の信仰としては、「五時八教説」そのままでも
いっこうにかわまないわけなんですが、近代以降の仏教文献学的(日本においては明治以降に輸入)に見ると、
釈迦の入滅後の数世紀を経て、やっと成立しているという法華経(1世紀頃)は、
ダンマパダ、スッタニパータ、アーガマ(阿含経典)、南伝大蔵経などのような
古層の釈迦直説の伝承と対等のリアリティを持つとは、なかなか言い難く、
他の大乗経典同様に、結局のところ、
釈迦以外の後世の熱心な才能ある仏教徒の作者による"創作経典"であり、
仏教系思想ではあっても、仏説ではないということですね。
極端な例えを用いれば、ニーチェの「ツアラトゥストラ、かく語りき」のような。

少なくとも、プラトンが直接の師匠について書いたソクラテスの対話篇や、
孔子の登場する論語のようなリアリティは、ないと。
この場合の「仏」とは、歴史的釈迦牟尼仏、
シャカ族の聖者・賢者のゴターマ・シッダルタ先生個人の教えと、言葉であります。

~もちろん、いやしくも古来から仏典として尊ばれる書を、疑うことをいさぎよしとしない
誠実なる天台智顗先生には、そういう近・現代的な小賢しい"テクスト・クリティーク"的視点は、
ほとんど、なかった。


■法華経がしばしば「薬の効能書きに過ぎない」といわれ、
「薬」そのものは、どこにあるんだと言われ、
歴史的釈尊が、永遠の宇宙的な仏へと変換される「久遠実成仏」以外の思想の部分は、
多宝塔を建てると有難い功徳があるとか、
(「犀の角のようにただ独り歩め」という賢者が、そんなこと勧めるだろうか? などのツッコミあり)
龍の女でも成仏できるとか、できないとか、
聖書の「放蕩息子の帰還」みたいな喩え話とか、
印象的な比喩や寓話があるぐらいで、「仏教文学」「仏教ファンタジー小説」としてしか読めない……
……という悪口もある。

とくに、"この法華経を誹謗すると、怖ろしいことが起る"などの脅し、脅迫のくだり…、
こんな……ジャラジャラと悪趣味な宝石をつけた街の占い婆さんさんみたいな脅しの文句、
あの原始仏典に登場する静謐、かつ柔和な、叡智の人・釈尊の人間像からは、
想像つかない、ありえない、とんでもない、
これって、昔の迷信的なバラモン達がさんざんやった、呪術的脅迫やないか~!! との批判もある。

そして、「久遠仏」の思想も、
結局、お釈迦さまを、
ブラフマン神(もともとはアートマンに通底する宇宙の本質的な意識相。俗にいう梵天)や、
ヴィシュヌ神みたいなものにもどしてしてしまっただけやないか~、
実に、教祖の神格化というのは、教団、組織にとって都合がよく、
宗教史としてはきわめてありがちなパターンだが、
せっかくの人類の教師、覚醒への先達の言葉を、
もとの黙阿弥、まったくのオシャカにしてしまったやないか~……との批判もある。

つまり、「釈迦」を騙って、「如是我聞」を騙って、
後の仏教者、才能とイマジネーションと禅定・冥想体験のある修行者が、
底流として脈々と流れるインド思想、ウパニシャッドや、サーンキャ哲学、
バラモン教や、ヨーガ思想を融合させて作り上げたのが、
大乗仏教や、後の密教思想――。
というのが、南伝のテーラヴァーダといわれる上座部系仏教からのごく一般的な批判ですね。
これを、小乗などといわれて貶められた陣営からの復讐――などというと、
あまりにも世俗的な偏見からの憶測になってしまいますが。


               *

■まあ、それはいいとして、
ここで言いたいのはそんなことではなくて、
わたしの質問をもう一度引用しますと、

>般若心経の教えから、この「日本国の理念的世界を現わすもの」へと落とし込む部分が、
わたしには、よくわかりません。
もう少し詳しくご教示いただければ幸いです。

~ということなんですね。
つまり、般若心経の二百六十余文字には
拈華微笑や金波羅華の話はでてきません。
登場人物(?)も、
観自在菩薩と、釈尊の説法を聴いている舎利子と、説法をしている釈尊のみ。
摩訶迦葉は出てこない。

般若心経全文・現代語訳
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm

なにゆえに大堀さん(もしくは彼に影響を与えた宗教団体、修養団体)は、
あえて法華経、その他の偽経をも応援団的に重ね合わせて、
「日本国の理念的世界を現わすもの」へと、
「般若心経」と「仏教」の"解釈物語"を、わざわざ、再編成しなければならないのか?


むしろ、この種の国家主義にとって都合のいい仏教の"解釈物語"には、
般若心経の「空」思想ではなく、
▽こちらの方の法華経系仏教団体の直截的、間接的影響を感じるわけなのであります。

国柱会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9F%B1%E4%BC%9A

田中智学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8

八紘一宇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E7%B4%A0%E5%B1%B1


■まさに「日本国の理念的世界」(大堀さんコメント)そのものですね。
般若の智慧や、空と縁起の思想、
あるいは唯識哲学などでは、
国家は実体化できない。
天皇も神聖化できない。
命を捨てさせる価値の焦点には、なりえない。
むしろ中観や唯識などの大乗仏教哲学は、そんな国家主義やナショナリズム思想をことごとく破砕し、
非実体化させ、空無化してしまう危険思想だ。

~というわけで、戦前から戦中に起った思想的な現象が、
この"解釈物語"の広宣流布、
法華経思想というよりもむしろ、
蒙古襲来時の国難を救った日蓮、
日本国の守護神として神風という奇跡を起こした「日蓮大聖人」思想のプロパガンダだと思うわけです。

釈迦や仏教というよりも、法華経。
そして、法華経というよりも、むしろ日蓮崇拝、日蓮信仰ですね。
そして、日蓮上人の教えというものは、立正安国論などを紐解くと、
崇高な憂国の心、慈悲の心が強く心を打つと同時に、
それと同時に、
非常に排他的で、攻撃的、断罪的、でもあります。
諄々と喩えを重ねて教え諭していく釈迦牟尼のスタイルとは、対照的。
とくに、法然上人や、浄土門に対しては、クソ味噌。
ある意味では、これが軍人や国粋主義者好み、なのかも知れません。

そして、この思想が、明治以来の国家神道と融合し、
日中・日米の15年戦争、「文明の衝突」時の対抗思想の一つとなり、
あの時代における大いなる乗り物、「大乗の船」となってゆく…。

            海ゆかば 水漬く屍
              山ゆかば 草生す屍
                    大君の 辺にこそ死なめ
                       かへりみはせじ



■まさにこの流れは、次号「群系41号」がフォーカスする時代の混迷、懊悩、逼塞とも、
つながってくるはずです。
そして、ほんらいは「個」の表現であった「文学」までもが、
「国家」という、共生のためには便利なルールの集合体を、
いつのまにやら、超越的な神話の箱物へと変容させ、神権政治化させ、
あれよあれよという間に、小説家たちが動員され、自らも"挺身"するまでに到ったわけであります。


           (続く。この稿、途中)


 

アベに説教

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 6日(木)01時25分42秒
編集済
   釈迦に説法だと思いますが、皮相なわたくしの理解を補っていただきたいと思います。

 「世尊粘下摩訶微笑」(せそんねんげまかみしょう)は禅宗の聖典『無門関』の第六則にあります公案で、『大蔵経』の中には収録されておらず、帝王の読むべき秘蔵の経として『大梵天王問仏決疑経』という特殊なお経にくわしく書かれております。

 世尊、昔霊山会上に在りて、花を拈(ねん)じ衆に示す、是の時衆皆な黙然たり、惟だ尊者のみ、破顔微笑す。
世尊云く、吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相、微妙の法門、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)有り、摩訶迦葉に付嘱す。(『無門関』第六則)

 この「花」というのが、「金波羅華」つまり金色の蓮の花で、蓮の花というのは、

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E8%93%AE%E3%81%AE%E8%8A%B1

真ん中に蜂の巣のようなハチスという中心があって花びらが展開しております。

 宇宙の構造はこの蓮の花のように中心があり、それから展開してまた中心に回帰するという中心帰一の真理の上に成り立っていることをお釈迦様は示されたのであります。

 確かにマクロ的には太陽系の構造でも、太陽という不動の中心の周囲を諸惑星が旋回するという構造になっております。
 またミクロ的には原子核の周囲を電子が旋回するという物質の構造があり、音楽のオーケストラでも指揮者を中心として諸楽器が配置され交響楽が奏されるということになっております。

 『華厳経』には「蓮華蔵世界海」という言葉があって、蓮華のように中心にスを頂く荘厳な相を内に蔵して外に様々な様相を展開するというのが、その意味だと言われます。

 お釈迦様は6年間の苦行の後、尼連禅河の畔の菩提樹の下で悟りを開かれて、それから二七日目に初めて「華厳経」の説法をされたのでありますが、これが何の方便も用いないストレートで生硬なスピーチだったため、聴衆は全員うつろな目をして口を開けるばかりで、理解したのは普賢菩薩だけだったといいます。

なかなか理解する人の少ない深い真理が本当に釈尊の解きたかった教えにあるではないかと思われます。

『華厳経』には「廬舎那仏品(るしゃなぶつほん)」という部分があって、そこには、
「仏子、当に知るべし、此の蓮華蔵世界海の、金剛囲山は蓮華日宝王地に依りて住せり。」と書かれております。
「日宝王地」とはまさに天照大神の子孫を中心にいただいて君臣和合して真理を現成せるところのわが日本国のことを指していると解釈できると思われます。

 ですから奈良時代に聖武天皇が廬舎那大仏建立を発願されたのは、日本の国家形態を讃えているようなこの「廬舎那品」に感動されたからではないかと解釈もできます。

しかし、なかなか理解されないのです。

 それでお釈迦様は『阿含経』のように一般民衆にもわかりやすい修養のお経から説き起こして真理を説こうとされました。

『般若心経』はそういう修養段階の現世的欲望否定のためのお経で、すべてを否定しつくしたところで、お経の中でも最高峰に位置する『法華経』にいたるわけですが、この『妙法蓮華経』にもやはり「蓮」の「華」の字が見えることに注目しなければならないと思います。

『法華経』にはわたくしの好きな

「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此土は安穏にして天人常に充満せり」

の一節があります。

 台風が来ようが、地震津波が押し寄せようが、水爆原爆が破裂しようが、砕けない世界、天人が常に充満して妙なる音楽を奏でている本当の実在の世界が説かれており、其の世界の構図が中心にスがあり、そこに大日如来、スメラミコトが座して展開している世界であるということなのであります。

 つまり仏教の秘伝的真髄は蓮の花ような中心帰一の真理でありまして、日本はその国家形態理念において真理を現成しているということだということです。

 荒唐無稽というか破天荒な解釈で一刀両断切り捨てられるだろうと予想がつくくらいのウルトラ愛国解釈であることは私も認識しております。

>「文学愛好の岩盤支持者」に閲覧者の注意を引き付けておいて、サブリミナル的に「岩盤の3割アベ支持者」のイメージを潜在意識に刷りこませるという姑息な手法は、大堀さんらしくもないと思います。

 そんなつもりは毛頭なかったのでありますが、安倍内閣の支持率の推移が頭の中にあったので、そんな比喩になったのだと思います。
 しかし、アラームが大音声で鳴り響くのなら、サブミナル効果でこの掲示板読者が安倍支持者に知らず知らず変るようなことはないと思います。

 安倍晋三は300万の英霊の加護と期待を得て、返り咲きを果たした日本国にとって必要な首相ですから、三選を果たし、自民党の結党以来の悲願である憲法改正をやりぬくでしょう。

 反アベ、嫌アベの読者の皆さんは、精々掲示板に悪口雑言をぶちまけて、言葉の限りを尽くして呪詛怨念を書き連ね、アベを擁護する大堀を板上で攻撃してウサを晴らしてください。

  https://www.youtube.com/watch?v=czMbzzIe2k0

  https://www.youtube.com/watch?v=93lIAKChaLI
 

第二の『近代文学』誌として

 投稿者:管理人 iPad 2711  投稿日:2018年 9月 5日(水)20時42分44秒
編集済
     9月17日の40号合評会についての出欠と、41号の原稿投稿についての問い合わせを兼ねたメール(一部郵便)の発信が遅れています。(それでもこの板をご覧の一部同人からは早くもご自身の投稿テーマを伝えてこられた方もいます)。早急に通信しますので、いましばらくお待ちください。

   本誌は、全国同人雑誌大賞を授与され、また創刊三〇周年も迎え、いま意気が上がっています。単なる同人誌の枠を超え、全国的にもたいへん珍しい批評系文芸誌として、いわば第二の『近代文学』を目指します。あの戦後、昭和20年暮れ、『新日本文学』の会場で、創刊号が配られた『近代文学』誌は、以降、野間宏や梅崎春生、武田泰淳、安部公房、大岡昇平などの作品を掲載して、戦後文学の創造者となったのでした。
   一同人誌ではなく、また紀要など学会誌でもない、独自な視点と構想を持った、未来を見据えた文学・思想誌とならんことを目指します。皆さまのご協力とご投稿を強くお願いするものです。
※ 取り上げ予定の作家・詩人などについては、ご投稿予定者にExcel添付の予定ですが、あらましは、9月3日掲出の「編集会議ご報告」をご参照下さい。
 

「日本国の理念的世界」とは、何ぞなもし

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 5日(水)20時28分46秒
編集済
  >その真実の価値というのは、釈尊が究極のところで、蓮の花をひねって迦葉菩薩のみ理解して微笑した
(拈華微笑)ところの中心に大日如来が座す金波羅華の世界でそれは日本国の理念的世界を現わすものだと
理解しております。(大堀さん)

■般若心経の教えから、この「日本国の理念的世界を現わすもの」へと落とし込む部分が、
わたしには、よくわかりません。
もう少し詳しくご教示いただければ幸いです。


               *

>選挙の時の浮動票のように、流される人々がいる一方で、岩盤の3割アベ支持者のように時代の風潮が
いかにあろうとも、文学を愛し、文学を大切に考える人々は昔と同じ数くらいはいるように思います。
 危機感をもって「群系」の中で文学を問い直すことと、必ずいる隠れた文学愛好の岩盤支持者のために、
その期待に応えるべく創作や執筆をつづけていくことがわたくしは必要だと考えます。

■文学ネタの中に、貴兄が何食わぬ顔してこっそりと確信犯的に忍び込ませた
「岩盤の3割アベ支持者のように」という喩えの部分で、高音のアラームが鳴りました。
まるで食物の中に、歯のような人体の一部か、昆虫の死骸のような異物が入ってしまったような違和感です。
アベとは、「#ケチって火炎瓶」「#安倍とヤクザと火炎瓶」で
いまTwitterで拡散されている安倍晋三のことですが、
「「文学愛好の岩盤支持者」に閲覧者の注意を引き付けてておいて、
サブリミナル的に「岩盤の3割アベ支持者」のイメージを潜在意識に刷りこませるという姑息な手法は、
大堀さんらしくもないと思います。


-----------------------------------------

いま流行りのTwitterネタですね。

>「#ケチって火炎瓶」
https://twitter.com/search?q=%23%E3%82%B1%E3%83%81%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%81%AB%E7%82%8E%E7%93%B6

>「#安倍とヤクザと火炎瓶」
https://twitter.com/hashtag/%E5%AE%89%E5%80%8D%E3%81%A8%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%81%A8%E7%81%AB%E7%82%8E%E7%93%B6?src=hash
 

次号の第一特集について

 投稿者:管理人 iPad 2711  投稿日:2018年 9月 5日(水)19時57分30秒
編集済
     次号「群系」41号(10月20日締切、12月中旬刊行)の特集Ⅰは、今まで以上に難しい。昭和8年~20年の期間が範囲で、タイトルも《日本近代文学の逼塞ー昭和戦前・戦中の文学》とやっと落ち着いた。今まで《日本近代文学の終焉》だとか、《日本近代文学の崩壊》と仮題していたが、終焉とか崩壊では、何か予定調和的でふさわしくないとの意見があった。苦心?の末、逼塞となったが、この時代の特徴が少しは表象されているだろうか。
    確かにこの時期は〈逼塞〉という語に表れるように、政治社会のめまぐるしい変転とそれを反映するかのように文学も変容甚だしかった。まず昭和8年は、満州国建国に端を発して国際社会の非難が集中し結果日本は国際連盟を脱退した。これが後々の国難に繋がるのであったが、実際唯一の組織的抵抗体であった共産党が多喜二虐殺、佐野・鍋山の転向声明があり、京大滝川事件も起こった。国際的にもナチスが政権を掌握したのもこの年だった。
    文学は、あれだけ威勢があったプロレタリア文学が弾圧と内部からの変質で転向文学となり、昭和12年の日中戦争勃発以降は、いわゆる戦争文学が描かれるようになった。石川達三の「生きてゐる兵隊」を嚆矢として、日比野士郎、上田廣、榊山潤、棟田博らがいわゆる従軍体験、あるいは報道記者として、戦場ルポや戦場小説を書いていった。が何より特筆すべきは火野葦平による「麦と兵隊」の大ヒットだろう。徐州戦を兵士の立場で描いたこの作品は銃後国民に大受けし、映画化もされ、以降いわゆる兵隊三部作と繋がった。
    この戦争文学は、軍部からの要請で現地に飛ばされた作家もいたが(丹羽文雄「海戦」など。マダム物を描いていた丹羽はいわゆる懲らしめで飛ばされた)、自ら進んで現地に行った作家もいた(林芙美子「北岸部隊」など)。しかし、文学者たちが集って中国の戦地に行った(文春が派遣したいわゆる〈ペン部隊〉など)のは、戦後、文学者の戦争責任追及の やり玉に挙げられるものであった。

    この時代の大きな特徴として、思想的な右往左往があったことだろう。左から右まで、転変が激しかった。太宰治を例にとれば、初期には共産党の細胞としてそうした左翼作品を書いていた太宰だが、後には、例の『日本浪漫派』の同人になったりしている。その『日本浪漫派』は、主筆の保田與重郎や、亀井勝一郎などが日本の伝統文化への思い入れから、数多くの日本回帰の作品を書いた。これは大正から昭和初期までの欧化主義への反発でもあって、この欧化から日本への回帰は、その欧化主義の旗手であった小林秀雄さえ、仏文学の紹介から、「無常といふ事」など、日本古典に沈潜した作品を書くようになった。
    そうした中、自らの感受性を中心に文学形成をしていったのが堀辰雄であろう。また、谷崎潤一郎も「細雪」が発禁になりながらも描いていったし、川端康成も「雪国」を何度も改稿している。さらに先に出した太宰治や坂口安吾、石川淳、檀一雄といった作家たちは戦後にその生き方・文学を注目されたように、戦時中からその文学を形成していったものである。

    もう一つ大きな問題としてあったものは、いわゆる〈近代の超克〉の議論であったろう。これは雑誌の掲載としては、それとして結果が出せたものではなかったが、表題のように、欧米を中心とした〈近代〉に対する疑義、反措定として、それなりに意義があったものと思われる。

    この敗戦までのこの国の〈逼塞〉した文学・思想のありようを点検することは、〈近代〉を突き抜けた21世紀の現代の、この無思想・脱文学のゲル化したこの国の状況を考えるのに大いなる示唆をもたらしてくれるのではあるまいか。
 

不滅の文学

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 4日(火)21時16分6秒
編集済
  「文学の危機」について教育的観点も含めて述べさせていただくと、

輸入玩具販売「ボーネルンド」の行った調査によると母親の3人に2人は子供と遊んでいる最中にスマホをいじっているようです。
20歳~30歳の母親1000人から得た回答の中で、65.9%の母親は「よくある」「たまにある」と答え、「全くない」は9.6%にとどまったということです。
 しかし、その65.9%母親のうち約8割はそういうことは「よくない」「あまりよくない」と認識していることもわかっています。

 また毎年行われる全国学力調査(中3と小6対象)と保護者14万人にたいするアンケート調査によって、保護者の年収、学歴など家庭の社会・経済的背景を4階層に分けて平均正答率と比較、分析してわかったことは、
保護者の階層が高くなるほど正答率はやはり高く、特に中3の数Aでは最も高い階層の正答率と低い階層の正答率では25%の開きがあったということです。

しかし、最も低い階層の家庭で育った子でも上位25%内に食い込んだ子たちがいて、そういう子たちの家庭では、
「小さいころ絵本の読み聞かせをした」
「本や新聞を読むように勧めている」
などの質問に「当てはまる」と回答した割合が学力が低迷している子たちの家庭より6~12ポイントくらい高いことが分かったということです。

 信州大学の学長が「スマホ止めますか、信大生やめますか」と学生に迫って話題となりました。
 本も読まず、人と会話もせず、信州の豊かな自然にも背を向けて四六時中スマホをいじっている若者をみれば、老婆心でなくとも言いたくなります。
 文学の危機は教育の危機でもあります。

 もしもスマホが文学の敵であるのなら、産業革命後のラッダイト運動:Luddite movementのようにスマホを片っ端から金づちで叩き壊すとかau、ドコモの会社を襲うことも真剣に考えた方がいいかもしれません。
早稲田通りの古本屋に「テレビは文明の敵だ」と貼り紙がしてあったのを思い出します。

しかしまあ、そんなことは根本的な解決にはなりませんから、少しでも希望的に考えますと、

わたくしの塾の小学生に尋ねますと、実に多くの本を読んでいて、月80冊くらいは裕に読んでいるといいます。
 それは成績のいい子なので全部というわけではありません。

 子役で活躍して偏差値70の慶應中等部に進んだという芦田愛菜さんは、年間300冊の本を読む猛烈な読書家だということです。

 また、若者から圧倒的支持を得ているアーティストの宇多田ヒカルの愛読書は意外にも漱石、鴎外、芥川、エドガー・アラン・ポーなどで自ら「文学は永遠に私の情熱である」と土倉さんのように語っているそうです。

 確かに時代の風潮に流され、低きに流れて行ってしまう一般庶民、子供たちもいるのは事実だと思いますが、大正生まれのわたくしの父など、文学はじめ芸術一般は女のやることと決めつけ読書をしている姿など一度たりとも見たことはなかったですから、昔の人が読書家だったとは必ずしもいえず、また最近の若者が全員活字離れ、文学離れをしていると断言もできません。

 選挙の時の浮動票のように、流される人々がいる一方で、岩盤の3割アベ支持者のように時代の風潮がいかにあろうとも、文学を愛し、文学を大切に考える人々は昔と同じ数くらいはいるように思います。

 危機感をもって「群系」の中で文学を問い直すことと、必ずいる隠れた文学愛好の岩盤支持者のために、その期待に応えるべく創作や執筆をつづけていくことがわたくしは必要だと考えます。

 本日は台風21号直撃のため、仕事が休みになって、だらだらと書きますがお許しください。

草原さんへ

> ■別に人間は、キツ~イ二元論のどちらかを二者択一的に生きなくてもいいんじゃないですか。ラジカルな曖昧性を、戦略的に生きてもいい。イロニーという複眼的思想も、そこから出てくる。あるいは二元論を抱えたまま、そのまま、自爆したりメルトダウンしたりせず、創造的な原子炉に変容させることも、できないわけではない。

 その通りで、大多数の人々は「人生不可解」を抱え込んだまま、曖昧の中で生きているのが実情だと思います。
 不可解に耐えきれず死んでしまうのは、よほどピュアな真面目な人だと思います。
 「不可解」を玉成して真珠のような名作を生み出してしまうベートーヴェンのような人もいます。

 逆に完全理解をしているような人間は人間らしいとはいえず、不自然かもしれません。
 しかし、方向性というか、漠然とでも信ずるものがあって、それを「幻想」といってしまっては、あまりにも頼りないものになるので、信ずるに足る、金剛石かゴールドくらいの硬度と永続性をもったものである必要があると思います。

 物がダメなら幻想、それともホログラムとか言われても、わたくしは物理で0点をとって進級できないといわれ学校から呼び出しを喰った人間ですからムリです。

>奈良の薬師寺。あれ、唯識仏教ですよね。三蔵法師玄奘さんの。
一切は「識」だという「唯識」の世界観も、まずいですかね。

 阿頼耶識と末那識とが現象を作り出すがそれは空である、しかし、空からまた現象が出来上がるというということは理解できます。

 わたくしが写しているのは2000円のお布施の般若心経でありますが、あれはモノや移ろいゆく現象に対する執着を断つためのお経と理解しております。

 物質に対する執着から自由になるとその無の別名である心が作り出したところの諸現象を突き破って真の存在が見えてくるというか感じられてくる、その真実の価値というのは、釈尊が究極のところで、蓮の花をひねって迦葉菩薩のみ理解して微笑した(拈華微笑)ところの中心に大日如来が座す金波羅華の世界でそれは日本国の理念的世界を現わすものだと理解しております。

 で、ありますから、「天敵みたいな異端文献」ということにはなりません。
 心を込めて一字一字刻み付けるようにお写経をして物質に対する執着を弱めて真実の世界を鮮明に見ることを祈っているのであります。

 しかし、

今年も奈良へお写経に出向き、「玄奘三蔵会大祭」という伎楽のイベントに列席して、「万燈供養会」に献灯もしたのでありますが、その時参加者を前に話をしていた管主村上太胤、
このお坊さんは、その十日後、ワイドショーに顔が大映しされ、銀座のホステスと不倫をしていたことが発覚して管主を辞任したことがわかったのであります。

 わたくしのお布施もこのエロ坊主の、銀座のホステスへの貢ぎ物に使用されたことになりますと思うと写経を続ける意欲もなくなります。
今手元に村上管主の筆になる栞があって、それには「心 ひろく ひろく もっと ひろく」と書かれています。
しかし、「心」ではなく「股」だったのではないか、と言いたくなります。

 そういうことですから、これも阿頼耶識、末那識の作り出した幻想なんでしょう。

>~ところで、「教育上よろしくない」というのは、どういう思想を背景とした「教育」でしょうか。

 「君たちのこれまでの努力、青春の汗、友情、それらはすべて幻想だったんです。ご両親の君たちへの愛、学校の先生方の恩、そして何よりも君たちの人生そのものがなんら実体のない幻想なんだということを私の最後の君たちへのメッセージとして贈りたいと思います」
校長先生が卒業式でそんな訓示をしたら、聴衆はたまげるはずです。

 どういう思想も何もなくて、発達段階を考えれば、いくら深淵な哲学であっても非常識ということになります。
 要するに誤解されます。
 般若心経も皮相に受け取ればこの世や人生は空で虚しいもので価値はないという誤解を生むと思います。

>「國體」や「ナショナリズム」や「国家神道」などという概念…、そういった思想的固執、固着…

 こういうのも巨大誤解だと思います。
 心外でありますし。

 

文学は最高の快楽ではないか・・・

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2018年 9月 4日(火)18時58分42秒
   文学が何より好きであってよかったと思う。本好きの母のおかげで本はいつもそばにあった。講談本から世界名作までの乱読時代。小説は私を夢見るひとに育ててくれた。
 明治から昭和初期まで「文学」は教養としての位置をたもっていたとおもう。しかし、私にとっての文学は最大の快楽であったとおもう。音楽、美術、人を楽しませる芸術はあるが、私は何より文学が好き。文学は人を見果てぬ夢にも誘うが堕落の道にも誘惑してくる。人間が滅びぬかぎり永遠にひとが求めるものとして存在してゆくだろう。
 

「文学の危機」にかんするニ三の事柄

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 3日(月)20時45分31秒
編集済
  ■ミもフタもない言い方をすると、「文学の危機」とは、
文芸誌、とくに純文学を標榜する文学系の雑誌が、
     「売・れ・な・い」
ということじゃ、ないでしょうかね。
おそらく、大手出版社の、名だたる文芸誌も、表向きに示されている部数から比べて、
一回りも、二回りも、やせ細った数字が、現実なのではないでしょうか。
これはもう、仮説じゃなくて、事実。
~「俺、今度、編集部の人員カットで、営業の方に回されるらしい」(とある文芸誌編集者の不安)


■もう一つ、
同人誌の主宰者や、編集部員、同人メンバーという、しみったれた視座から見ると、
   「若い子が来てくれない」
ということがあげられる。
つまり、そのジャンルは、絶滅種。
トキ、オオサンショウウオ、カモノハシ……の類。


いまや、同人誌といえば、「漫画・アニメの同人誌」を、意味する時代。
キャツらは、漫画やアニメの二次創作、三次創作によって、生活の資すら、稼いでいるという噂ではないか。
ビッグサイトとかいう御大層な場所で、うん万人も集めるイベントをやらかしているという話ではないか。

「え、同人誌やってるんですか。漫画とか、描かれるんですか?」
「いや、その。あの。ブンガクのほうの…」
「……あ、あ~ぁ(遠い目)。まだ、そんなこと、やってるヒト、いるんですねぇ」

これが、「文学の危機」以外の、一体、何ものであろうか!
~というわけです。


■有名作家や、評論家以外のアヤシイ(自意識だけ文学者)という特殊人種のいう「文学の危機」とは、
じつに、何を隠そう、
「同人誌」の名称を、知らず知らずのうちに、
文学畑から、アニメ畑に奪われてしまったという痛恨事を、意味するわけです。
ノーベル賞も、ウンベルト・エーコも、モンテーニュも、関係ない。
ましてや、ロベスピエールも、フランス革命も、関係ない。
とはいえ、奪還したくとも、できやしない……。
つまりは、
実に、辛気くさい、情けないお話、なんであります。


            *


■それでは、同人誌に近づいてもくれない「若い子」とは、
ぜんたいに、何歳ぐらいの生きもの、クリーチャーを、称するものであろーか。
これは、それぞれの観測者個人の肉体年齢によって測量されるところによる相対的な時間距離であるから、
各人、そうとう、へだたりはあるにせよ、
あるにせよ、
「いま死んだら、夭折」
と、いわれる程度の若さが、
多分、文学的には「若い」と想定される人種、ではなかろうか、と愚考します。
    つまり、「群系」同人メンバーの、ほぼ全員、アウト、ですね。…ハハハ。

~しかし、まあ、そんなことは、どうでもよろしい。
我ながら、くぅだらない。
――いつものことだけど。


              *


■先日、YouTubeで見たけれども、とある山間部の限界集落に、
ニートや、ひきこもりの若者が来ることで、その村が活気づいた…。
というドキュメンタリー動画があった。

そのニートや、ひきこもりの若者は、
べつに「生産性」があるわけでもないし、労働力としても、ほぼ期待できない。
それでも、限界集落としては、その事件が、ひとつのドラマ……なんですね。
カルト宗教の集団が棲みついたわけでもなく、
単に、やる気のない、内気なだけがとりえ(?)の変な若者連が
自給自足生活を始めた、というだけの現象で、村が、ちょっとだけ、元気になった。
化学反応みたいなことが、起った。
――そこが、面白い。

純文学系同人誌の「文学の危機」、およびこの超克とは、
ほとんど、こんな状況に酷似しているのでは、なかろーか、
と、思った次第。
いや、「創造」「表現」「創造と破壊」のほんとうのドラマが始まるのは、それからのこと。
とりあえずは、異物同士をぶつけて、カオス状況を、創ること。
そこから、何かが発生する。


              *

■ついでに言えば、
われわれ「群系」同人は、昨年、
あるヒントを得た。

~とある奇縁により、
四国山中の「秘境」といわれる祖谷の里、
日本人にすら、あまり知られていなかった平家の隠れ里に、
外人観光客が「旅の思い出ノート」かなんかに、英語や中国語で、熱烈な書き込みをしていることを発見して、
驚愕した。

まあ、その地方都市は、同人誌に賞を与えるなぞして、町起こしをするという、
はなはだ、奇特な、風変わりな、地方公共団体では、あるのだが、
何というのか、
たくまざる、村おこし、町おこし……の実例、成功例を、見た感触。
「秘境/平家の隠れ里」という〈物語〉が、
つくられたコンセプトではなく、歴史の紆余曲折によって、おのずと発生したコアを持つ〈物語〉が、
インターナショナルな磁力を持ってしまった、
しかもちゃんと、経済効果まで派生させている、という実例を垣間見た。
     (「物語/幻想/神話」を、わたくしが、決して否定的に見ているわけではないのは、この通り。
       だから要は、「物語-批評」のバランスなんですね。)

これは、いわゆる「電通マーケティング」の通り一遍の手法とは、まったく別の潮流が、
現在、澎湃として自然発生的に、起っているのかも知れない……という印象でありました。

■まあ、結局のところ、
そんで、何が言いたいのかというと、「文学の危機」というのは、
それ自体が重層的構造を持ち、
もっともらしい理念的な層から、
きわめてしみったれた下部構造的な、ウサンクサイ層まで、
いろいろある……ということですね。

 

編集会議、ご報告

 投稿者:管理人 iPad 2354  投稿日:2018年 9月 3日(月)20時25分48秒
編集済
     昨日日曜日、編集会議、五人が新宿のエクセルシオールカフェに集まりました。議題は次の三つでした。
A.  9月17日(月曜・祝)の合評会の段取りにちぃて
B. 次号の「群系」41号(10月20日締切)の特集について
C. 30周年以降の本誌の方向性について

   まず、Aについて
   一時から四時半までの限られた時間なので、手際よく進めたいとして、まず最初は、《創作》から合評しようとなりました。次に《特集Ⅰ》、その次が《自由論考》、最後に《特集Ⅱ》とその他、の順、で進行することになりました。
   基本的には出席者のものを合評しますので、ついては出欠について、執筆者には近日中にメール等で問い合わせすることになりました。出席の方のお名前はこの板で披露しますのでよろしく。もちろん、非執筆の方、外部の方のお出では大歓迎。会場費等はありません。終了後、いつものように懇親会をやります(この時からお出でも歓迎)。
   Bについて
   特集Ⅰの《日本近代文学の逼塞ー昭和戦前・戦中》については、特集の性格を巡って議論のあるところでしたが、基本的に〈昭和8年~20年〉に登場した作家・詩人のグループ分けの中(本板28日投稿参照)から、以下の文学者を扱うことになりました(以下、編集部を含め、同人・あるいは外部の人に投稿依頼をする予定。連絡がいきましたら、よろしくご検討下さい)。
《時代の寵児 》からは、太宰治、坂口安吾、林芙美子、内田百閒、
《プロレタリア文学・転向作家 》からは、小林多喜二、 中野重治、島木健作、佐多稲子、
《大家たち》からは、志賀直哉、永井荷風、島崎藤村、横光利一、川端康成、岡本かの子、
《 詩人 》からは、中原中也、高村光太郎、三好達治、室生犀星、
《批評家・思想家》からは、小林秀雄、保田與重郎、亀井勝一郎、唐木順三、
《戦争文学》からは、どの作家ということはないのですが、総論的にでも取り扱いたいと思っています(後で、藤原ていの「流れる星は生きている」など、取り上げたらどうか、と思いました)。

   執筆予定者のお名前は控えますが、よくこれだけの陣容が揃うものだと、編集部としても感心しています(ま、問題はこれからですね)。

  Cについて
    今回の41号特集の内容如何と思っていましたが、批評家・思想家を含め、これだけ中身がそろえば、本誌の方向性は明るいものだと存じます。
    全国同人誌大賞を受賞し、創刊三十周年を迎えた本誌は、批評を中心にした全国的にも極めて珍しい文芸誌です。この際、この余勢をかって、単なる文芸同人誌の枠を超えて、いわば、第二の『近代文学』を目指して、この批評・思潮を練り出してゆく文芸誌として、江湖に訴え出していこうと存じます。皆さまの熱いご支援、またご協力、お願いいたします。
 

病院での一光景

 投稿者:管理人 iPad 2354  投稿日:2018年 9月 3日(月)16時58分42秒
編集済
     前に入院した時、目にしたことである。点滴棒を手にしながらロビーに行ってみると、前にも見かけた小さな女性がいた。身長140センチくらいだろうか。高齢者ではない、おそらく40代くらいだろう。やはり点滴棒を携えているが、インジェクトの装置が下にあって、全部で四、五本も注入されるようになっている。自分のは生食の袋一つだから、彼女の重症?度が感じられる。どんな病気なのかわからないが、一見そんなにつらそうに見えない。しかし明らかにその矮小な身体から彼女がいかにハンディを持った人生を歩んできたかがわかる。
   同じく、今度は男性だが、こちらも小さく130センチくらいだろうか、後ろから見ると小学生かと思われたが、顔を見ると、大人である。むろん中高年ではなく、せいぜい30歳か、その前だろう。背の低いという人は、当方も含め世にいくらもいるが、ここまで小さいのは、矮人症?なのか。それに伴ってか、病気が随伴しているのかと思われた。
   女子医大だから、色々な病気の人が入院してきている。中には先天性の心臓病か、移植を待っている若者たちがいた。皆屈託無く話し合ったりしているが、やはり身近に補助人工心臓をたずさえている。自分も心臓弁の置換手術のために入院していたのだが、彼らのは直接生き死にに関係している。同じ大部屋にいたが、彼らは彼ら同士話し合うが、ついに当方とは挨拶の一つも交わさないで、終わった。
    現代の医学だから生きながらえているのだろうが、生きること自体が命がけでである。当方のように相応に生きてきて手術というのはまだいい。若い身空で、かなりきつい施術を受けなけれならないのは、宿命か。

    昔、「天刑病」と称された宿痾があった。癩病(レプラ)のことであるが、大正から昭和戦前は彼らは一般世間から隔離されていた。文字通り前世の因縁か天罰の病気とされたのだろう。長島愛生園というのであったか、瀬戸内海の小さな隔離された島、そこで働く女医が綴った「小島の春」(小川正子著)はベストセラーになり、映画化もされた。当職は、荒正人の文章でそのことを知ったのだが、こういう事実に向き合ったのが、『近代文学』の批評家たちであった。
    時代は貧困と戦争の暗い谷間である。世の中には偏見と我が身可愛さの自分主義、また大家族の封建制がのこっていた。自由に生きる、自分のしたいことで暮らしていくなんてことが無理な時代であった。自殺した者も、病死した者も、闇から闇へ処理された。

    こういう問題は本来、政治や行政が手を差し伸べるべき問題である。しかし時代は国家総動員法が敷かれて、まったく個人など振り向かれない時代だ。さて、こういう問題にこそ、文学の出番なのだ。
 

管理人さんの御文に共感します

 投稿者:土屋慶  投稿日:2018年 9月 3日(月)15時17分50秒
編集済
  一連の管理人さんの書き込みには至極共感いたします。貧困問題から始まって、文学の危機に至るまで、ほぼその通りだと思います。しかるに、なんですかねー、文学の危機と言うのは。その点を思考として深めるのが、わたしの残された唯一の宿題なのですが、日々の生活に追われ全く出来ていません。ひとつには文学作品を論ずるより漫画、映像作品、その他のメディア作品を論ずる方が、読者に届き易いということをよく考えます。純文学は読まれていないー別に統計をとったわけではありませんが、おそらくそうだと思います。社会や時代の様々な矛盾、困難を課題やテーマとして背負うジャンルとして、小説(詩は外しておきます)が機能していないのではないか。自分のことを言わせてもらえば、小説を描いたり、小説を論じたりするよりも、直接行動に出た方が有意義なのではないか、ということで今現在は社会活動をしております(おもに教育分野で)。管理人さんのおっしゃるように文学の危機をわたしも<感ずる>のであって、それは時代の空気、感触としてあるような気が。(いみじくも柄谷行人が「近代文学の終わり」を宣言しましたけれども、何度か読み直しているところです)ところで、文学者、のみならずものを考える人間というものは、その営為が個人に始まり個人で終わるわけにはいかないのであって、その思考が時代状況や社会状況とシンクロしていなければなりません。むろん純粋個人的な、特異的な思考がはからずも時代や社会の本質を抉り取って見せるということはありますが、もし文学的営為というものが個人の趣味を徹底させるだけならば、何故文学でなければならないのかがわからなくなる。他にも趣味の対象は様々にある。つまり何故文学が他のジャンルと比較してもかつては特権性を持ちえたのか、が問題なのではないのでしょうか。まとまりの欠けた文章で申し訳ないのですが、管理人さんの一連の御文に触発され、書き込みをさせていただきました。  

<文学の危機>を感じるということ。

 投稿者:管理人 iPad 2354  投稿日:2018年 9月 3日(月)13時50分8秒
編集済
     <文学の危機>について、愚生にお尋ねがありました。坂井さんのご文は、たいへん博覧な知識教養のもとに、むしろ現代は文学の繚乱期にあるというご認識は、現在の文学作品に囲まれてそれに自足できる立場の方のご意見としてなかなかのもので、それはそれで結構かと存じました(当方の『季刊文科74号』の拙文もお読みいただいたようで、恐縮至極です)。
   でも、こういうご文は立派だと感じつつも、愚生としてはやはり違うなと思うものです。そこには何というか、批判精神がない、自分の飽食に満足し、他者や社会についてものを考える視点がうかがわれないのです。この板に投稿者の中でも、自分の好みや視点で投稿されている方もいらっしゃいますが(むろんそれはSNSのありようとして結構なのですが)、当方としてはやはり、政治や社会、歴史の問題について義憤と不満を書いてもらいたい感じです(この際ついでに言いますと、坂井さんのご文は深い教養がむしろ仇ととなって、時に読者に読みにくさを感じさせています。むしろぺダンチズムを感じさせるばかりで、共感を起こしにくいのです)。
   『文芸思潮』誌の五十嵐勉さんと並んで愚生の<文学の危機>意識を問題にされていますが、これは一つ世代の問題になるのでしょうか(坂井さんが、文学の危機が全くわからないというのも、残念ですがわかるような気もします)。期せずして、五十嵐さんとは全くの同世代ですが、われわれ団塊の世代につながるものは、あの学生運動を体験し、その中で友人を喪ったりもしました(その流れで、菊田義孝さん・野口存彌さんと知り合い、群系の会発足につながりました)。小生らには、一つ、あの時代の追憶、鎮魂があるのです。その点で、桐山襲の作品には共感を感じ、やはり同世代の村上春樹の作品との違いをかつて論じてみたりもしました。
   <文学の危機>の一般的通解としては、いみじくも編集部同人・荻野央さんが書いてくれました。今日の情報時代、文学や思想の危機を感じないでいられるのはそれはそれで幸せなことかもしれません(文学享受はデバイスの問題ではないとありましたが、それはそうではないと思います。スマホの手軽さで情報は手軽に得られるようになりましたが、物をじっくり考える教養はだんだんと薄れてきたような感じです)。
    でも毎日美味しいスウィーツを味わっているのが、芸術、とりわけ文学作品の享受でしょうか。文学の詩精神とも仰せでしたが、詩精神はそんなにロマンチックなものでしょうか。朔太郎も中也も、あるいは梶井基次郎にも、何か死をベースにしたニヒリズムがあります。
    私は、いま現在のこの国の政治・社会、マスコミの状況に不満があります。そして、スマホにうつつをぬかしている若者にも不満があります。先に高齢者の貧困の話を書きましたが、いま40代くらいの若者も、こうした貧困の問題が人ごとではないはずです。
    要するに愚生の考える文学は、坂井さんのいうような、豊穣な世界という認識と違います。小生が戦争文学を話題にするのも、そうした延長にあります(最近もNHKのドキュメンタリーで、「ノモンハンー責任の見えない戦い」をみて、改めて当時の報道ルポ、戦記を読み直しましたが、愚かしさがありありで、あんな無責任な国境紛争のため、たいへんな犠牲が払われたのです)。

    昨日、編集会議がもたれて、たいへん有意義な議論がされました。次号の特集、《昭和8年~20年の文学》は、私どもの問題意識が共有されましたが、あの時代を考えることは、人間の生、社会、歴史を考えるためにも、大事なことだと思います。ここのことは、編集会議のご報告も兼ねて、稿を改めて、書いてみようと思います。
(ところで、合評会、創作のところから始めようとなりましたが、坂井さん、今回はご出席のご予定でしたね、いかがでしょうか)
 

文学の危機 (?)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年 9月 3日(月)10時43分1秒
編集済
  ◆わたしは坂井さんと同じく文学に夢中で、読みたい本と読むべき本に溺れそうな毎日を送っているから、少なくとも自分に「於いて」その種の危機感はゼロだ。(肝臓への危機感はあるのですが) 敢えて言うなら、読み終えた後でいかなる理解の結果も残されてなかったり、自分の課題意識とつながっていなかったときに危機感は発生すると言うことかなと思う。つまり時間を損した…。

◆ところで、編集長や五十嵐さんの言う文学の危機とは、まず本が読まれない、そして書籍として体裁を整えた文学が読まれないという現状と、「現代文学」が読まれないという予測(坂井さんの言う仮説)がイコールになっているところが気になるのである。前者は、象徴的に言えば長期的な出版業界の不況であって、スマホ全盛が象徴している社会現象であって、後者はまさに読者のそれぞれにおいて文学が思考の補助材料になっていないというところだろうと思ったりしている。この両者を結びついて考えてしまうことが、叫ばれている「文学の危機」発言につながっているのではないだろうか。でも、わたしが思うにいずれの状況も、文学に溺れそうな人間から見れば「余計なお世話」に見える。文学がそれ自体として消滅するわけがないから。
音楽をみればそれが分かると言うもの。音楽の不滅は、バッハのドレミファソはジョン・レノンのドレミファソと同じで、AKB48のドレミファソと同じということを思えば、音楽の要素としての「音」は不滅であるというところから来ていることだし。

文学の音に相当する要素は言葉であって文字ではない。文字は書かれたもので言葉は意味と価値を持つものだから、文字を言葉として読まなければ時間とお金の無駄遣いということになってしまう。危機とはそうした状況を指しているのならば、ああそうかとうなづいてしまうが、どうもご両所の言う文学の危機とは、書籍・スマホなどリーディングに於けるデバイスの問題にしか過ぎないと思われる。本来(当たり前だが)文学は個人的な営みであるはずだし、だから、文学界全体の組成を担うにしかすぎないデバイス問題を気に掛ける必要はあるのかな、と思ってしまう。

◆30年も前に「文学の衰退」が問題とされた時期があったけれども、結果としてそんなことはなかったし今でもない。危機というよりは消滅しかけている自己との対話じゃないか?。スマホは一部を除いて「情報の一方通行」に過ぎないし、自己対自己の双方向のやり取りは――田村隆一ではないが「豊饒なる沈黙」と言われるように――思考を深めていくことだろうし、それすらゲームと言うならば、高尚だな、ヒヒヒ、と皮肉を言われてもネットゲームの中毒にはならないから逆さまに愉快なことだとわたしは思う。まったく思考を深めるのは至高の娯楽だ!。
(スマホに夢中な人々は「沈黙」をなにか恐怖の時間と感じていて、それは重量を持ち、のしかかる痛みとして感じているのではないかと、街中のストレートネック人間と無会話の恋人たちを見ていてそう思う。肉声としての会話がない。これでは思考そのものの存在、いや感情の熟成までもが見込めない。つまり文学的な人々ではないということになるのか…)

◆また話題がそれてしまったが、出版業界がどうなろうとスマホ・ホーリックになろうと人間全体の退歩・停滞・破滅につながろうと、それらは溺れ寸前の文学状況のわたしとほとんど関係が無い(だからこそ同人誌は場としても対話という形式としても、とても大切なのだと常に思っている※)のでこれ以上の発言はストップせざるを得ない。と言うか、わたしの能力を越える問題で、やれるとしても掲示板では無理なので、いつか「群系」の特集にした方が良いように思けれども、如何?。

※合評会に参加してください!!
 

K.O.論争、ふたたび、ですね。

 投稿者:坂井瑞穂  投稿日:2018年 9月 2日(日)13時33分36秒
  何時もながら考えさせられること、学ぶこと、多いものです。私は草原先輩を凌ぐ秀才ではありませんし、大堀先輩のような確固たる信念も持ち合わせてはおりません。しいていえば日和見というか場当たり的というか。ろくなもんじゃない(ナガブチ)んです。
両先輩の論争というか議論が白熱化してきたところでどうも長いこと理解出来ずにいたものの、忘れかけていた問題を一つ思い出しました。
それは、<文学の危機>とはいったいどのようなものなのか-----
具体的には永野会長が頻繁に意見されていますし、季刊文科74号に投稿された論文でも明確に論説している。群系40号では五十嵐勉氏が挨拶文のなかで類似した発言をしているのです。ではその<文学の危機>とはいったいどのようなものなのか、改めて考えると全く分からないのであります。そして気になるのが永野氏と五十嵐氏以外の方たちからは同様の意見がきかれず、まったくもって不明な点ばかりが浮き彫りになってしまいます。
<危機>といってまっ先に思い浮かぶのがサッカーのジーコ氏がJリーグ発足前の日本のサッカーを見て、<urgente do peligo(壊滅的危機状況)>と表現しました。ジーコ氏は自国のサッカーと比べて余りにも稚拙な日本のサッカーを危機状況と言ったのでしょうが、果たしてこの言葉は正しいものだったのか。例えば普通に成長している3歳や5歳の幼児が大人の力量に達していないことが<危機>なのか、ブラジル代表でも四天王と呼ばれたジーコ氏の理想とするものがあまりに高邁でJリーグがそのレベルに到達していないからそのような発言になったのではないか、そう考えると納得できる部分もあります。
翻って永野氏や五十嵐氏の言う<文学の危機>、これは文学の専門家で数多の文学作品に精通されてきた永野氏や五十嵐氏の理想とするものがあまりに崇高なものとなって、合格基準点が高くなりすぎたための結末といえまいかと思うのです。人間、眼の置き場によって考え方も変わるでしょう。標高9000m、10000mの高みに達してしまうと周りの山など低くて小さく感じるでしょうし、<文学の危機>を執拗に訴えている先生方は、感性として物足りなくなっているのではないか、そのように思われます。その点、私などは文学的には初級か中級程度だし読むものに対しても理想など求めないし、どれもおもしろく、そして膨大なる普遍価値を含有しているとさえ感じ取れるのです。おそらくは永野会長なら読まないであろう大藪春彦や平井和正からも詩的エッセンスを得られる、これは私の、標高1800mレベルの低空飛行がなせる満足感なのだと認識しています。
 もし本当に<文学が危機>にひんしているのなら意見が少数に留まっているのは異常ともいえるし、危機に対してもっと多くの議論がなされるのが成り行きではないだろうか。ともすれば永野会長はチームリーダーの責任感からメンバー激励のために、悠長にしていてはいけません、危機感を持って臨むのです、そう言いたいのではないだろうか、という結論を得たのですが正直なところどのようなものでしょう。
そして<危機>がどのような形でどのような規模のものかも、発言者には責任があります。実は私が好きなカラオケを巡る産業界でも、近頃はレジャーの多様化も相まってカラオケ業界が危機に陥っているとよくいわれます。裏を返せば10年前には12程の業者で競争していたのがDAMとかJOYの2強に決着して、そのせいで余り面白みをなくして客離れをおこしたというのが私の感想なのですが、この業界でシダックスが一社だけスポイルされたようです。
では永野会長の言う<文学の危機>とはカラオケ業界全体が抱えるレベルの危機なのか、それともシダックスがライバル社に買収されて投了、程度のものなのか、ハッキリさせる必要がありますね。
結論---私は<文学の危機>など現実世界で存在しているものではなく、いわゆる仮説の域を出ていないものと考える----
重ねて言うなら現在(長いスパンでみて100数十年単位)、文学は危機どころか最高の繚乱期にあると私はみている。
群系37-40号にて特集した近現代に登場する文学作家群とその評論、国文学だけを対象としてもこれだけ膨大になるのです。外国に眼を移せばノーベル賞だけみてもパブロ=ネルーダ、ファンラモン=ヒメネス、シェイマス=ヒーニー、ヤロスラフ=サイフェルト、怱々たる顔ぶれです。そして特筆すべきはこれらの賢人が書いた良書は全て邦訳され手軽に読むことができるのです。私が<文学の危機>どころか繚乱期だと感じるのはこのあたりを基準としています。
例えば永野会長でしたらどのあたりを<危機>と位置づけているのでしょうか。今揚げた他にもウンベルト=エーコ、ジャンマリ=ギュスタブ=ル=クレジオ、澁澤龍彦、ミロラド=パビッチ、私はもう満腹状態なのですが。

仮に<文学の危機>が本当に迫っていて、映画のディープインパクトのように一刻も速く対抗措置をとらなくてはならないのであれば、私も少しは真面目に考えようと思います。それとも反対側の<反文学>の立場から勢力を失った文学とやらを仕留められる千載一遇の機会と捉えるべきか。
16世紀のフランス文学はある種世界文学史のピークと称されたりもしますが、ピエール=ド=ロンサールは七星詩派として数えられてもいますが実際猫の目のように交替する国王との折り合いがうまくいって出世したようなところがありますし、逆にフランソワ=ラブレーは発禁にしてみろ、くらいの意気込みで著述していたようです。ミシェル=ド=モンテーニュは<随想録>のなかで永野会長がおっしゃる<文学の危機>をにおわせる表現を多く用いていますが(なんと言ってもユマニストですから)時代の成り行きとはいえ、没後だいぶたってから発禁になったりしています。だとすると空前絶後の文学繚乱期といわれた16世紀のフランスにしたところで社会が爛熟していたわけではなく、文学をはぐくむ土壌はきわめて脆弱だったことがわかります。約130年続いた100年戦争がその後100年程で戦災復興するとはお世辞にも思えないし、他にも宗教戦争、農民戦争などの火だねも多く、時代が下っても市民革命や挙げ句の果てにマクシミリアン=ロベスピエールなども登場したりして----
16世紀の最高傑作文学が成立した背景がいかなるものであったかを理解するにつけ、物質のありふれた現在がロンサールやモンテーニュの生きた時代に劣っているはずはなく、今後を含めて<文学の危機>などというのは永野悟氏と五十嵐勉氏の杞憂に終わるというのが不肖坂井の予測ではあるのですが、群系会員のベテラン評論家の皆様はどうお考えなのかアンケートでもやって意見を得てみたいところですね。
 

「人生不可解」というミステリーの面白さ

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 2日(日)08時34分20秒
編集済
  ■「人生不可解」と思う日本人が、いちいち華厳の瀧に飛び込んだら、大変ですね~。
漱石は「人生不可解」の大家だと思いますが、
登場人物には自殺させても、自分は死んではいない。
華厳の瀧のかわりに、
最近は、電車や線路が滝壺になってしまっているようですが。


■別に人間は、キツ~イ二元論のどちらかを
二者択一的に生きなくてもいいんじゃないですか。
ラジカルな曖昧性を、戦略的に生きてもいい。
イロニーという複眼的思想も、そこから出てくる。
あるいは二元論を抱えたまま、そのまま、自爆したりメルトダウンしたりせず、
創造的な原子炉に変容させることも、できないわけではない。

優れた物語や小説といったものが、一種の原子炉のような装置となって、
知らず知らずのうちに、そういった精神的な"電力供給"をしていないとは、言いきれない。

人間は、ローカルな真実、局所的な真理から脱皮して、
より安定した〈我〉、あるいは〈我/世界〉というものを、
何らかの破局から帰還して、再創造する権利がある。
しかし、それはもはや、〈我〉というよりも、
より流動的で、開放的、かつ他者内在的な、〈自-他〉共生的な意識なのかも知れない。

「幻想」が駄目なら、ホログラムでもいいですけどね。
最近は、ニュートン、ガリレオ、
あるいはかつてのマルキシズムが信じていたような
かっちりとした物質らしい物質像が、量子論以降、崩壊してしまったので、
ホログラフィック・ユニバースという世界像もある。
こちらは、意識と情報が主役の宇宙像。


■「幻想」という語彙がまずいというのは、大堀さんの偏見ですよ。
大堀さんが写経に参加されているという奈良の薬師寺。
あれ、唯識仏教ですよね。
三蔵法師玄奘さんの。
一切は「識」だという「唯識」の世界観も、まずいですかね。

写経では、大堀さんは、どんなお経を、一文字一文字、写されているのですか。
色即是空、空即是色の「般若心経」なのでは?
これ、「國體」や「ナショナリズム」や「国家神道」などという概念とは、まったく別次元ではないのですか。
むしろ、そういった思想的固執、固着を、穏やかに融解させるような教えなのでは?
となると、大堀さんの長年のアイデンティティを脅かす、天敵みたいな異端文献を、
毎年毎年、お布施を払って、律儀に書き写していることになる。
もちろん仏教ですから、
慈悲を起点として、救済とか平和祈念とかを持ち出せば、無理やり「国家」に連結させることはできますが。

               *

>ですから移ろいゆく諸現象の中にも消えずに残るものがあって、
わたくしの崩壊してしまうような自己はエゴであるかもしれませんが、
それでも劫火に遭っても消えない真我というものをそれぞれの個人が確固として持って存在しているとわたくしは信じたいです。

■「真我」があるとするならば、信じる信じないというレベルを超えた深層の意識次元だと思います。
それは当然のことながら、「國體」「ナショナリズム」「国家神道」よりも、はるかに深い位相だと思います。

               *



~ところで、「教育上よろしくない」というのは、
どういう思想を背景とした「教育」でしょうか。
戦前の「教育」が、どういうものだったのか、
当時の言論界や知識人の動向が、どういう状況だったのか、
これは管理人さんの先のコメントや、「群系」次号のテーマとも、円環してくると思います。



カプリチオ掲示板
https://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs





 

消えないイリュージョン:eternal illusion

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 2日(日)08時00分49秒
   吉本隆明が出てきて6年前も「共同幻想」を巡ってさんざんオチョくられたことを思い出しましたが、「同じ怪我を二度したり、同じ隘路や、同じ袋小路でループしたりするのは、反対」されるということで、歩み寄って穏やかに答えていただきありがとうございました。

 確かにこの世のものは淀みに浮かぶうたかたのごとくかつ消え、かつ結びて久しくとどまることはなく、諸行無常、色即是空で、移ろい儚くも消えてゆくイリュージョンだと思いますが、「幻想」という言葉で言ってしまうとそれならば何のために生きているのかわからなくなり、そんな夢幻のためになんでこんな苦労しなければならないのかということで厭世的になり「人生不可解」と遺言して華厳の滝に飛び込まなくてはならなくなります。

 「幻想」はまずいのではないかと思います。
 少なくとも教育上はよろしくないと思います。

 「物語」の中でも「竹取物語」「伊勢物語」「源氏物語」など古典は千年の風雪に耐えて、作者の肉体はとうの昔に朽ち果てても厳然として日本人の中に受け継がれ、DNAの中にもそれはきざみこまれているのではないかと思います。

 ですから移ろいゆく諸現象の中にも消えずに残るものがあって、わたくしの崩壊してしまうような自己はエゴであるかもしれませんが、それでも劫火に遭っても消えない真我というものをそれぞれの個人が確固として持って存在しているとわたくしは信じたいです。

 日本の国家の理念も同様で、移ろいゆく国の姿はありますが、中心を貫く不動の一点があって、その形態は万古不易、像が踏んでも壊れないものだとわたくしは信じております。

「文学は不滅である」
 草原先輩はパーティーでやや酩酊状態でありながらも、名演説をされたと思います。
 「結論を出さなくても表現できる自由な場があるのです」
 こういう言葉は幻影ではなく、わたくしの心の中に永遠に刻みつけられて忘れることはないのであります。

https://www.youtube.com/watch?v=N5IAAeo7XmQ
 

いや、「幻想」や「物語」は必要です

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 1日(土)21時10分45秒
編集済
  ■大堀さんのいう通り、「幻想」は必要ですよ。
ただ、私が肯定的な意味をも含めていっている「幻想」を、
大堀さんは、意外にも、ネガティブな意味だけにとらえているらしい。
それは誤解です。

むしろ私が言っている「幻想/物語」は、
かつて普遍的な真理だと思われてきたものが、
経験知や情報が拡大するにつれ、ローカルなものに、部分集合的なものに、相対化されてしまった
という程度の意味合いです。
二階からの鳥瞰図として、一階の部屋のそれぞれの間取りが見えるような光景です。
それぞれの部屋の意味や機能も、ちゃんとあるわけです。
これは、「しょせん、夢まぼろしに過ぎなかった」という全的否定とは違います。


■それまである時代の人間を活かしてきた意味や、価値や、目的や、信念体系が崩壊したとき、
一旦はニヒリズムに陥るかも知れないが、
新たな物語・幻想を作る創造力もあるわけで、
そういう営みというか、ダイナミズムをわれわれは持っているということで、
別にこれは、悪いことではない。
「知」を超える「夢」を持つことは、悪いことだとは思いません。
ただ、しばしばその「夢」や「神話」は制度化され、窮屈なものになることがあり、
抑圧的に機能することさえある。
それと、同じ怪我を二度したり、同じ隘路や、同じ袋小路で、悪しきループを繰り返すことには、
反対だというだけであります。

■新たな、より高次のリアリティが視界に現れたときに、
それまでの価値の源泉が、希薄になったり、崩壊したりするわけで、
だからといって、過去の価値幻想をめぐる"創造と破壊のプロセス"そのものが無意味だとは、
いっておりません。
また、何らかの超自我みたいなものが必要だろうとは思います。

最近は、AIを、
新たな「神」や、超自我に仕立て上げたい連中がいるんじゃないんですか?
大量の人間を、"物件"として、客体として、
効率よく管理したり、鑑定したり、処理したり、破棄したりするのに、便利ですから。

     ~自分達は、その背後のVIP席に陣取って、"AI大明神"の脅威とパワーを言い立てながら、
      ひそかにその推進に伴う権益を、拡大していく。
      新たな「大審問官」物語の発生ですね。


■かつて熱狂していた「ネトウヨ」の世界観は窮屈で嘘がある…ということに気が付いたというのが
下の記事の青年の個人的な体験でしょう。
別に、大堀さんが動揺することでもなんでもない。
もちろん、「ネトウヨ」ではなく、ホンモノの国士である大堀さんは、動揺などしていないでしょうけどね。


                *



>それは単なる幻想ではなく、理念と呼ぶべきもので、
原爆・水爆をもってしても破壊できない、金剛不壊の絶対理念であると
わたくしは人生を賭して信じております。
二十歳からほぼ四十年かけて育んできた信念でありますからこれに懐疑し、
否定するようなことになったらわたくしは崩壊してしまうはずです。(大堀氏)


■崩壊ですか……。
しかし、信仰というのは、そういうもんでしょうね。
転ぶか、殉死するかの、二者択一。
つまり、「懐疑しないように、懐疑しないように」と緊張し続け、歯を食いしばって
信心を固く保持する…というような。
それにしても、金剛不壊って、ずいぶんとまた仏教的な語彙で、物質的硬度も高そうですな。
金剛って、ダイヤモンドのことですもんね。
でも、ダイヤモンドは、壊れますよ。
火には弱いそうだ。


               *


ところで、思想と同化したあげく、懐疑が起ると崩壊してしまうような「私」って、一体、何ですかね?
結局、エゴじゃないんですか、それ。

>共同幻想論、唯幻論を持して、疑似現実の神話を剥がし、物語批判をして、
一体どこに辿りついたのか、どこへ行こうとされるのか、管理人様、草原様にお尋ねしたいです。

■どこにも行きませんよ、たぶん。
空間そのものに、なるんじゃないんですか。
人間という小宇宙の意識が、めでたく、大宇宙とつながってゆくのかも知れません。
「管理人様」のコメントは、私のような文脈で語っているわけではありませんから、
それはまた、別の見解だと思います。

いわば不立文字ですが、イメージとしては↓こんな感じでしょうか。




     【頭山】
~金剛不壊の自我が崩壊するとき~

https://www.youtube.com/watch?v=QRGoZ633FiM
(註:頭山満の話ではありません)


 

大堀は釣り堀の魚には非ず

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 1日(土)11時37分25秒
  非ず  

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