teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. パソコンクラッシュ(>_<)(6)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


あけましておめでとうございます

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2019年 1月 1日(火)23時55分54秒
   わたくしも仕事の帰りの車の中で一部を聞いてました。
 3.11は、自分でも知らなかった未知の自分を表出させ、気づかせてくれた点で文学を変えた、
というようなことを平野啓一郎の前のゲストが高橋源一郎に語っている部分を聞きました。

 平成はきっちりと30年でまとまって、後世から転換点だったと批評される時代になると言われることを考えればしっかり振り返って考え、論じてみるべきだとわたくしも思います。

 「災」などという漢字が選ばれる昨年でしたから、

 今年は明るい、展望の開ける年にしたいという願いをこめまして、

ベタに

「ハレルヤ」

https://www.youtube.com/watch?v=1NNy289k6Oc

 四季「春」

https://www.youtube.com/watch?v=Gwvrg4ym7BU

 定番の「春の海」貼り付けまして新春のご挨拶とさせていただきます。

https://www.youtube.com/watch?v=M0qM5zrWock

       平成31年元旦
 
 

2019年元旦に聞く、「平成文学論」

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2019年 1月 1日(火)19時46分48秒
   今朝、NHK第一放送で高橋源一郎による「平成文学論」が放送された。ゲスト作家は、平野啓一郎、赤坂真理、古川日出夫であった。
 まずは、明けましておめでとうございます。

 テーマ
1、戦後の終わり、成長の終わり。2、ジェンダー、3 3・11と文学だったか?
 ゲスト作家に、この平成30年に書かれた作品で特にあげたいものを聞いている。
 *平野啓一郎(綿矢りさの「インストール」、朝井リョウ「何者」
 平成の30年間もおびただしい文学が生み出されが、どれだけの作品が後世に残されてゆくのか。それでも、作家たちは時代に向き合ってそれぞれ書いている。
 ベルリンの壁が崩れ、冷戦が終わりをつげ、再び世界は各所で戦争、紛争がおこり、世界の終わりも予感させる事態が起きている。文学の衰退がいわれ、言葉が力を持たなくなっているときに文学に関わるものたちは、どう言葉に向かい合ってゆくのか・・・
 放送に耳を傾けながら様々考えた。といっても酒を飲みながらなので軽く楽しみながらの時間ではあった。平成も終わりになるので、これから、多分いくつかの「平成文学論」が書かれることだろう。斎藤美奈子はすでに書き、新書版で出版されている。
 *赤坂真理「箱の中の天皇」ー天皇の女性性ーについて

 ほろ酔いで話がまとまらなくてごめんなさい。

 みなさま、今年もよろしくお願いいたします

 

「作品」化された直観的思索

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年12月30日(日)13時40分27秒
編集済
  「群系」41号
「焼き鳥とホロコースト」――俳句と無意識  井口時男


■井口時男氏の密度高い文章をこんなところで云々するのは、いまさらのような感もありますが、
緊迫感のある短い文の中に「批評とは何か」「俳句とは何か」という問いが凝縮されていて、
短詩型文学としての俳句創作の楽屋裏を、垣間見る思いがいたします。

一つの俳句の逸話から、旧約聖書、ユダヤ問題、芭蕉「おくの細道」、「神」「終末」へと
目まぐるしく展開していく、この「焼き鳥とホロコースト」の文章の面白さ、鋭さ、
自在さ、解析の深さは、一体、何なのだろう。
これは「研究」というものでもないし、勢いに任せた「創作」というものでもない。
しいて言えば、批評文と俳句の創作体験を比較考量したエッセイで、
創作過程の自己分析、自意識の動きの検証であり、インスピレーションと構想力それ自体の吟味、
でしょうか。
しかし、これこそが、ポオ、ボードレール(なんとまた大時代な!)、
あるいは小林秀雄から継承される「批評」、あるいは「批評の批評」
――としか言いえない、自在な"思索のコトバ芸"ではないかと思われます。


~例えば

>「批評文ではそんなことはなかった。批評の「私」は、いわば点検済みの「私」である。
だから、他者が私の批評文に発見する「私」など、あらかじめ「私」自身によって
自覚されている「私」に過ぎない。しかし、俳句ではそうはいかない」

>「批評と俳句の表現性の違いは、どうやら、無意識過程の参与の多寡にあるらしい」

>「あらゆる読みは創造的であり得るし、創造的でなければならない」


               *


■こういった直観的思索の鋭い掘削的一行が、随所にちりばめられていれば、
それが大学の紀要であろうが、学会誌であろうが、評論誌であろうが、
エッセイ、随想であろうが、
あまり関係ないように思います。
というか、こういう発想こそ、「批評」の自在性であり、醍醐味であり、エッセンスではないか。
散文による独自の簡潔な「文学作品」ではないか。
(三島由紀夫はまとまった評論は「小説とは何か」以外、あまり書いていないが、
さりげなく書かれた解説文や鑑賞文の随所に、直観的批評眼から発せられた鋭い一句が散見できる)

むしろ実証的な文学研究の分野は、その二次元的、整合的、平面的な論文空間から、
この種のナマモノとしての鋭角的な直観や、生そのものから抽出された思索は、
排除されがちなのでは――とも思います。
~やはりここでも、
 吉村萬壱氏の「批評が作品になっている」という言葉が連想されます。



 

「会報」編集中です。

 投稿者:管理人 iPad 5632  投稿日:2018年12月30日(日)12時53分37秒
編集済
     あ、名和くん、どうも。確かに根保さんの文章はところどころ意味不明な箇所がありますね。「速読」がお得意で、それで多くの同人誌もお読みになれるのでしょうが、投稿のご文もサッサと書いているのでしょうか。それでも、やっていらっしゃることは、奇特なことで、すごいですが。

                          ◯

   いま、恒例の「群系会報」を編集していますが、執筆者の方で、まだの方は今日明日中に小生にメールでお送りください。なお、会費振込みの方で、メールアドレスの書かれてない方は郵送になりますが、今日は日曜日、郵便局が休みで、重さを測って切手を貼って送るということが出来ません。一月一日に着くようにしたい、というのが出来ない見込みです(三が日のうちですね)。
    
 

学会誌と評論誌

 投稿者:名和哲夫  投稿日:2018年12月30日(日)10時57分58秒
  荻野さんありがとうございます。田中英光(読解)に新たな視点を与えるつもりで書きました。

根保さんの文はよく意味がわからないところがあります。

「群系」は、文芸評論中心の同人雑誌だが、文芸評論というと、どこの大学も学内の紀要といった形で文芸評論をまとめる場があるのは当然だが、大学内の研究者の雑誌を覗けば、在野の文芸評論中心の雑誌に書いている人脈は皆無に近い。その意味では「群系」は評論中心の同人雑誌としては珍しい存在でありながら、大学内の研究者がほとんどいないことでは、かつての若手文芸批評家7人の侍たちを擁した「近代文学」とは雲泥の差である。文芸評論中心の同人雑誌は<珍しい>ということではマスコミから注目されているものの「群系」は全体としてそれだけの存在でしかない。

これは、

「覗けば」を「除けば」の変換ミスと考えて、
文芸評論を学内紀要などの(書けば必ず載せてくれるもの)に発表している程度で,巷(ちまた)の文芸評論誌(そんなものがあるのか、文学界とか群像とかのこと?)に書いている人が(群系には)いないし、大学内の研究者がいないので「群系」は全体としてそれだけの存在でしかない。」ということ?

それとも、「覗けば」のままと考えて、
大学紀要を覗いて(見て)みると、在野の文芸評論誌中心の雑誌(群系のこと?)に書いているような人はいない状況であり、注目されていても群系には大学内の研究者がいないので、それだけの存在でしかないということ

なのでしょうか。多分後者か。さらにはこれが正解?
大学紀要を見てみると在野の評論誌(文学界とか?)に書いているような人はいない。同様に群系にも大学の研究者がいないのでそれだけの存在でしかないということ、かな。

いずれにしても、「文芸評論」を載せる大学紀要というのは基本的に存在しなくて、あるのは「文学批評」とか「解釈」「研究」だと思います。(そもそも文学部というのか全国的に無くなってきている。)ちなみに大学紀要はいわゆる学会誌と比べると一段低いものに思われていてそんな立派なものじゃないと自分も思います。また評論誌と学会誌は役割が違う。学会誌は割とテーマが狭小で学術的といえばそうだけどマニアックか。評論誌は大きなテーマを扱う。文学批評については評価の定まったものを扱うのが原則とされている。そういう点では評論では現代のものを扱うことが出来る。「現代日本と文学」とか「グローバリズムと日本文学」とか。
ただそれもそうだけど、「群系」のように評価の定まったものに新たな視点を与えるということ、これは大事なことかと思います。群系はそうなっていると思うのですが。

「群系」は学会誌と評論誌の中間を行けばいい、と思います。それがそもそもの文学の役割では。


 

荻野先生、本をいっぱい、ありがとうございます。

 投稿者:坂井瑞穂  投稿日:2018年12月30日(日)00時57分9秒
  ちょうど年末の出発の晩でした。どうせなら旅先まで持っていって読みふけろうかとも思いましたが、せっかくの良い本を暴風雪などて水浸しにはできませんから、新年落ち着いたら熟読することにします。風の道、人物研究、波触、このなかで眼をひくのは波触ですね。個人詩集をこのようなかたちでつくりあげる創造力といいますか、究極のロマンチズムの結晶ですね。なにかのかたちでお礼をさしあげられたら、と思うのですが明日から雪山にはいるため緊張していて発想が虚弱になっています。昨年の大晦日は飛騨荘川村の六厩、本州一寒い廃村でテントを張って朝青龍を押し出す番組をみてました。今年はめぼしい番組もなさそうですね。
それでは良い歳を、多幸を祈ります。



 

年末に高橋源一郎の声を聴く

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2018年12月29日(土)16時30分0秒
   荻野さん拙作にご丁寧な批評をいただき感謝です。これで、続きを書く意欲がわいてきました。
 昼間、久米さんの番組に作家の高橋源一郎がゲスト出演していた。「平成30年」の総括のようなテーマで久米さんと楽しそうにはなしていた。ポストモダンの旗手も早67歳。でも、彼は元気です。

 ゼミの学生に朝井リョウ「何者」、村田沙也加「コンビニ人間」を読ませると「切なくて読むのがつらい」という感想がかえってきたそうだ。彼らは親からの仕送りも減って、コンパ(今もこういうのか?)にも出ないでバイト先に駆け付けるとか。

 そんな切ない学生生活を終わって就活。就職戦線は活況をていしているようだが、実情はどうなのか・・・
 我が家のギャング猫がパソコンを襲撃してくるので、これで終わります。

 みなさま、良いお歳をお迎えください。
 

土倉ヒロ子さんの『リハーサル・最後の晩餐』について(第41号②)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年12月29日(土)10時34分38秒
編集済
  実を言うと土倉さんの「散文」なるものは、この板での投稿しか読んだことが無くて、たいていは詩誌「木偶」に載せられた詩である。あとは直接会話……会話は会話なので、忘れてしまいがちになるから、今回の随想は私に取って「ありがたい」作物である。
慢性の睡眠不足によるたったの二時間睡眠! 起きてしまうと眠れない――私も休肝日の翌日は深夜に起きてしまって、そのまま胡坐をかいて読書したりネットサーフィンしたり、その日一日は、とうとうだるく、ぼーっとして何にもしない一日になってしまう。そして注意力散漫が酷くなるから、万事行動に気を付けなくてはならないのだ。
目玉焼きがいつものように作れない。ソラ出た、こういうことになる。デイケアサービス・センターで起こしてしまった肩の脱臼と骨のヒビ入り…起こり得る事故だった。土倉さんはついていない。その意味、不眠症(加齢によるものなのだそうだ)はすべてを不健康に導く悪魔のささやきによるものだ。(ちなみに私は就寝前に導眠剤と睡眠安定剤を、ここ何年飲んでます) 私も骨折とヒビ入りの経験があるので、「やってしまったかな」と思うことはしばしば。経験者でないと分からない直観だ。リハビリの痛みも理解できる。さて、不眠症の人が入院すると辛いのが、夜をどう過ごすのかという問題だ。土倉さんは痛いので妄想が機能しないから「言葉の海へ漕ぎだす」ことにしたと「幕が下りてくる」という詩を書きはじめて、なんと絵柄も着想したという。なんという想像力だろう。妄想はさしたる結果も得ることはないが、詩作は違う。作品を産むのだ。眠れぬ夜に詩念は空間を跋扈して、数十行の作品に不時着する。病室での、文学行為だ。
今の人は(おそらくたいていは)このような状況下では恐怖の念しか持たないだろう。「ワタシは一人、とてつもなく孤独を感じて孤立している、寂しくて死にそう」……それに比べて土倉さんの強靭な思念は、そうした弱々しい今の人の在り様を尻目に詩作に向けられる。私も満員電車に揺られてほとんどの人がスマホでぼんやり精気を吸収されているのを尻目に(土倉さんのように)夢想して時間を送る。この齢では時間は慢性的に不足し、時間はとてつもなく貴重なものという態度の表れである。
私は土倉さんよりも齢下だけど、同じように私の周辺では確実に死者が増えてきて、そのつど自分は「ゾーン」に入っているなと実感する。「幕が下りてきた」はそのような、或る意味限界状況をサラリと描いている詩だが、最後の行が格別いい。もう会うことの難しい女友だちと空想の中でフレンチを共にする。「ああ 美味しいワインが恋しい」と主人公は願い「彼女は最後の晩餐に/豪華フランス料理に/一本の赤ワインを空けたいと言った/死を賭けるか 赤ワインに」と結んでいる。
詩作を終え、死者なのかそうでないのか、友人たちが訪れて皆で血のような赤ワインを飲んで、そして肉体を切り苛むという生の擬態が紛れこみ、つまり生死の混淆のなかで”最後の”(?)晩餐会の予行演習をしようと、主人公の、ベッドの上の空想の翅が愈々はばたく様が見える。そして終戦の日に何処に皆いたのかと言葉が飛び出て、戦争の思い出が現れ、とたんに術後の痛みが起って痛たたっと喚いて覚醒する。「ナースコール」を連呼する生きている主人公が、まさに痛々しい実在として現れる。
この軽快なテンポは、土倉さんの「磊落な」精神の上でしか築けない。「戸籍は時には爆発する」、と別の詩でも書かれているように、土倉さんの作風はどうやら詩でも散文でも共通するものがあるように感じられるのだが、でもそれは、私にはいまだ謎めいている。なかなか見えない作者の或る本質だ。
 

『未完の平成文学史』(浦田憲治)の内容(目次)

 投稿者:管理人 iPad 5498  投稿日:2018年12月29日(土)09時37分28秒
編集済
    向後の特集の資料となる有力な書籍の内容・目次を紹介しておきます。

『未完の平成文学史』(浦田憲治・早川書房、2015年3月刊)     ※  右は主な対象作家

プロローグ   いま、なぜ平成文学史か?
第一章   ポスト・モダンの幻影           ロラン・バルト、浅田彰、島田雅彦、日野啓三、高橋源一郎、池澤夏樹
第二章   春樹とばななの時代               よしもとばなな、吉本隆明、大江健三郎、村上春樹
第三章    中上健次の死と文壇の崩壊    中上健次、四方田犬彦、柄谷行人、高澤秀次
第四章    女性の時代              高樹のぶ子、津島佑子、中沢けい、松浦理英子、笙野頼子、柳美里、山田詠美、小川洋子
第五章    大江健三郎と江藤淳               大江健三郎、江藤淳 、福田和也、田中和生
第六章    私小説の復活                          車谷長吉、佐伯一麦、佐藤洋二郎、藤澤清造、西村賢太
第七章    安部公房とSF系の作家たち    筒井康隆、川上弘美、円城塔
第八章    小島信夫に続く作家たち        田中小実昌、保坂和志、堀江敏幸、磯崎憲一郎、須賀敦子
第九章    失われた二十五年を描く        村上龍、町田康、藤沢周、平野啓一郎
第十章    越境の文学                              リービ英雄、多和田葉子、水村美苗、楊 逸(ヤン・イー)、デビット・ゾペティ
第十一章    内向の世代の重み                古屋健三、古井由吉、黒井千次、小川国夫、高井有一、坂上弘
第十二章    新世代の女性作家たち         綿矢りさ、金原ひとみ、青山七恵、島本理生、朝吹真理子、本谷有希子、
                                                               川上未映子、津村記久子、鹿島田真希、赤染晶子、山崎ナオコーラ
第十三章    物語の復活                            辻原登、奥泉光、吉田修一、阿部和重
第十四章    エンターテイメントからの参入        高村薫、桐野夏生、角田光代
第十五章    群れないで書く                     丸山健二、村田喜代子、南木佳士
第十六章    沖縄の作家たち                     又吉栄喜、目取真俊
第十七章    抒情の文学   宮本輝と藤沢周平     宮本輝、藤沢周平
         あとがき    参考文献   人名索引
 

「群系」誌についてのご評について

 投稿者:管理人 iPad 5466  投稿日:2018年12月28日(金)22時56分52秒
編集済
      苫小牧の根保孝栄氏は、かつて本欄の常連投稿の方でしたが、自ら掲示板を立ち上げられてからは(「全国文芸同人交流板」)、そちらにいろいろ書かれています。相変わらず全国から送られてくる相当数の文芸同人誌の作品評をその都度刻々書かれていて、その精力には感心いたします。今回も、本誌「群系」について批評されています。
   https://6928.teacup.com/377612377612/bbs
〉「群系」41号(東京都)その1 文芸評論を中心にした同人誌、戦前戦中の文学特集は注目すべきものだが、まずは苦言から  投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2018年12月26日(水)18時06分14秒

   こうしたタイトルのもとに、小誌の批評を書かれており、納得するところもあったので、感謝して、ご紹介とともに、多少のご回答を試みてみたいと思います。by  ナガノ(編集部)

〉この欄では、作品論については、なるべく長所を取り上げ、欠点については触れないことにしているのだが、時には<より良い雑誌><より良い作品>への苦言を述べることがある。この雑誌は、長く文芸評論を書いている人脈により構成されている雑誌なので、少々の苦言を受け止める度量のある人たちであろうから、あえて総論として苦言から書き起こす感想評にしたい。

〉かつては戦後文学をけん引した「近代文学」という雑誌があり、その当時の<現代文学>を中心にした批評活動を積極的に行い、作家志望者や文学愛好者の注目するところであったが、この「群系」の書き手は、現代文学にはほとんど関心を示さず、過去のすでに評価の定まった作家の跡をなぞる文芸評論が大半であるところが、かつて日本の文壇をけん引した「近代文学」の書き手とは比較にならないところがやや物足りないと感じられ、これが現在の一流文芸評論家に黙殺されている一因になっているかもしれない。

   「近代文学」誌と比較されるのも畏れ多いことですが、ご論の主旨はその通りだと思います。同誌が牽引したことで、いわゆる〈戦後文学〉が成立、発展したのでしょうから、とても比べようがないと思います。小誌の場合、《特集》というものは、時系列的にこのかんやってきたので、いわゆる〈現代文学〉を扱うのは29号の《われらの時代ー1967~2000年の文学(2012年)》、22号の《平成二〇年間の文学》(2008年)など、限られた時でありました。一つには、この頃からもいわゆる〈現代文学〉に馴染みがなかったこともありましょう。また一つには、執筆同人の出身が近代文学専攻の人が多かったこともありましょう。それでも、小生担当の中原昌也など、には読んでみれば人物や展開のとんでもない発想に、逆に今風なリアリティを感じたことを思い出します。
(でも、ご論の「過去のすでに評価の定まった作家の跡をなぞる」だけとあるのは、多少反論があります。当方が不勉強かもしれませんが、読んで新鮮な論考があると思われますので)。
   http://gunnkei.sakura.ne.jp
   現代の文学、特に平成年間の文学は、最近も坪内祐三が東京新聞だかに書いていたように、それをサーヴェイ、見渡した本がない。1980年代以降の文学は全体をイメージできないというのである。彼も紹介しているように、書籍としては、『未完の平成文学史』(浦田憲治・早川書房、2015年3月刊)くらいしかありません。浦田は日経新聞の文芸部記者であり、いわゆる文芸評論家ではなかった。「未完のー」とあるのは、この本の刊行時期は未だ「平成」が継続していたからですが、ことはさように、全体を見渡す、いわば今を読み取るのが難しい時期、だったのだと思います(だからこそ、その時期の文学を腑分けしていく意味、必要もあったのでしょう)。

〉「群系」は、文芸評論中心の同人雑誌だが、文芸評論というと、どこの大学も学内の紀要といった形で文芸評論をまとめる場があるのは当然だが、大学内の研究者の雑誌を覗けば、在野の文芸評論中心の雑誌に書いている人脈は皆無に近い。その意味では「群系」は評論中心の同人雑誌としては珍しい存在でありながら、大学内の研究者がほとんどいないことでは、かつての若手文芸批評家7人の侍たちを擁した「近代文学」とは雲泥の差である。文芸評論中心の同人雑誌は<珍しい>ということではマスコミから注目されているものの「群系」は全体としてそれだけの存在でしかない。

   このご文のうち、「大学内の研究者がほとんどいない」ことは、ご指摘の通りですが、小生としては大学の先生が少ないことに、むしろ誇らしい感じがあります。言えば書き手の多くは小誌で育っていった方で、創刊号からの人も多く、かつ(小生の目からですが)多くの同人書き手は成長してきていると思います。そりゃ大学院出の若い精鋭のような論理駆使のものではないでしょうが、同人はみずからの生と感受性をその文章表現で表していっているように思えます。その証拠に、同人は《自由論考》も含め、何年も同じ対象に向き合い、資料を集め論を深めていっているようなのです。
   確かに、ネット検索すればいろいろな論陣が張られ、もっと勉強しなくてはと思い知らされますが、一つひとつの目標でとりあえずは、と思います。

   文学はというと、創作が一番に浮かぶと思いますが、もう一つ「批評」「研究」というのも、文学の大きな側面ではないでしょうか。なぜなら作品をどう読むのか、どういう意義があるのか、は小説でも詩でも童謡でも、その読解過程で不可欠のことだからです。特に時代が不可解な現代こそ、この時代の表現、そしてその意義の解釈、すなわち批評が求められているからです。時代を読み解くのに、経済や政治面ばかりが目立ちますが、肝心の人間がどう感じ、生きているのか、それを問うことは喫緊の課題だと思うからです。
    先日も忘年会で、また今日は個人的に友人と会って、文学のことを話し合いましたが、ご提起の〈現代文学〉についても、テーマや切り口を考え、取り上げていきたいと思います。

https://9301.teacup.com/douzinnnzassi/bbs

 

名和哲夫氏の『田中英光という作家』について(第41号)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年12月28日(金)10時37分15秒
編集済
  太宰治の弟子という印象が強い。墓前の自殺のことも知っていた。学生の頃に生協の書棚に見つけた『オリンポスの果実』を手にしてぱらぱらめくった程度で、ついに田中英光の文学に入ることはなかったのは、私小説嫌いということより、あまりに特定の作家(太宰治)に傾倒し、あまつさえ自裁をしでかすという悲劇的な事件のせいなのであった。当時ひねくれ精神の塊のわたしには喜劇的に映ったのである。しかし今になってそれは間違いだったのかもしれないと、名和さんの論考で諭されたように思う。いかなる時代であっても、作家において、完全な純粋精神と生活はあるべきだと思うし、あるはずだと信じているし、そうでなくては文学は自らの貧困を止められない。貧困とはこの場合、平凡・凡庸まで含む。非凡・特異は純粋の現れであって文学を豊かにする要素ではないかと考えたりした。
名和さんが田中英光の作品を読み「中学生のような手紙」という印象を受け「しかしながら、この作品には気恥ずかしさとともに「杏の実」のような甘酸っぱい切ない感覚を起こさせてくれる」と書き継いでいるので、自分を真直ぐに見つめ、真直ぐに作品に反映させるという――花袋や善蔵のように自分の足を食いつないで作品を作ったことにくらべ――言わば「聖なる私小説」とは何かということまで考えてしまった。「聖なるもの」…それはたしかに読者の共感を呼ぶことだろう。

またもう一つ。作家は意図的に作品の「未完成」を目指すという指摘だ。そうだ、そういえば、作品の主題とは数学的に言えば「定数」である。しかしそれは思念上のこと。実際は構成に従って文字を書き連ねていくが、結果として主観的にもあるいは客観的にも、「定数」を越えたり足りなかったりする「表現の性質」であることに気がつく。作者も読者も。未完成の意味はそのことだろうと私は思うし、あらためて創作の難しさを自覚した。
 

年末にあたって

 投稿者:管理人 iPad 5370  投稿日:2018年12月28日(金)08時52分54秒
編集済
      土屋くん
   あ、お書き込み、ありがとう。うれしく思いました。

    編集や掲示板運営をやっていると、思いもかけなかった批判・反発があります。この三十年そういうことで離れていった人は四、五人いたでしょうか。(今回もある方が語彙の校閲にたいへん不愉快な気持ちを抱かれて、昨日は41号を二冊突き返してきました。編集部同人が名前を明かして誠実に謝りの投稿もしていたのに。以降メールはすぐにゴミ箱に捨てるしこの掲示板も一切見ないことにしました、という長いレターも同封されていました。こちらは全て善意でやったのに。それほどに言葉にこだわるのもいいですが、過ぎるとご自分の人生を制約するもになるのではないでしょうか。ーま、ご本人がこの掲示板、ご覧にならない、というので、その前出した丁寧なレターメールとともに、御目に触れないのでしょうがーこれも開かないで捨てた、とのことでした)。

   掲示板やメールは、直接対面ではないので、いろいろ誤解や感情の昂りが出て、決裂してしまうことがあります。そういうとき、決まって「退会します。以降、次号も募集要項も会報も送らないで下さい」とのメッセージをおくってきます。よほどの不愉快があったのでしょうが、あやまってもそれを拭くせない以上、当方にはどうもなりません。

   土屋さんの場合はその点、爽やかでした。雑誌送付の感謝も、以前の「逆縁」?についてもいいそえてくれました。小生など、それだけで嬉しく、ありがたく感じました。

    連休があけて、昨日は数人の方から会費振込みがありました。これらの通知の嬉しさは、当事者として二重の喜びです。まず、経費の補填が出来ること。会費は二千円なのですが、中には五千円、杉浦社長は今回も一万円でした。質素な生活の小生にはこれらは大きいのです。そして何より会員になっていただいたこと自体、主宰者としてこんなにうれしいことはないのでした(なお、領収書については、「会報」発信に換えさせていただきますね。一月一日送付、です)。

    同人誌など、送ってもそのままが普通です。小生なんかも、多数来るそれらにいちいちお礼の返信などしません。41号に井口時男さんが書いておられたように、批評の本は送りっぱなしで、返信・礼状など期待しない、それがこの世界の流儀だ、とあって、何か意を強くしました(あの井口さんが仰せなのでした)。

    同人誌やサークルをやっていると、人生に中身が出来ます。それで小生など、退屈な透析時間を本や資料を読んで過ごすことが出来ているのです。ただの読書家だと、目的もなく徒手空拳、手応えがなかったのではないでしょうか。

    小生自身も、いろいろ失礼な言葉をメール、SNSに書いてきたかもしれません。年の瀬、新年を迎えるにあたって、そういうのはすす払いにしてください。
    新年一月早々には「群系会報」発信、二月には、教え子のピアニストたちのコンサート、そして三月三日には合評会があります。どなたでもおいで下さると嬉しいです(場所・時間は編集後記参照)。
 

永野先生へ

 投稿者:土屋慶  投稿日:2018年12月27日(木)18時10分17秒
編集済
  群系41号、ありがとうございました。びっくりいたしました。決別宣言をした後も時々、この掲示板は拝見しています。後悔しているのは恩人である永野先生に、逆縁を突きつけるような振る舞いをしてしまったことです。反省しております。御雑誌のますますのご盛栄を陰ながら祈っています。  

素敵な同人誌

 投稿者:管理人 iPad 5290  投稿日:2018年12月27日(木)08時55分57秒
編集済
     送られてくる文芸同人誌のうち、小職が敬意と憧憬を抱いているものを紹介したい。長野県東御(とうみ)市の崎村裕氏編集発行の「構想」誌である。12月17日発行の第65号(!)の内容(目次)は以下のようである。

   文芸総合(と目次の前に名打っている)

エッセイ        楠木正成あるいは「絶対死感」              陽羅(ひら)義光         ……  1
童話               かかしの村から                                        岡本みちお              ……  4
短篇               愛のディメンション                                 嶋田貴美子              ……29
連載               中期の幸徳秋水(7)                                  崎村  裕                   ……43
連載               絶対王政と啓蒙思想 ー西欧精神史④       雨宮湘介                 ……51

   全部で66ページ、だが、なんと今号で65号とある。年2回刊行としても30年以上である。創刊は昭和年間なのだろうか。主宰の崎村氏には、一度「群系」誌にも書いていただいたことがあるが、いっかんして、秋水やその師・中江兆民など、明治の思想家を追う姿勢には感心するばかり。一応全作品を読ませていただいたが、皆間然とするところがない。
 

新パソコンで、印刷できた!

 投稿者:管理人 iPad 5230  投稿日:2018年12月26日(水)17時23分49秒
編集済
     小生宅には二台のPCがある(他に、iPadと、iPad miniが二台)。前のPC、すなわちVistaが基本ソフトのものと、後のWindows 10が入った新しいものと、である。ともにDell製なのだが、前のVista は長く使えてたいへんよかったが、ある日からインターネット接続がうまくいかなくなってしまった。ここで作成・更新していた群系ホームページ(新版)もよって、ネットに載らなくなった。それでしかたなく、新規PCを購入したのだった。もう一年前になるかな。旧PCのデータは、いわゆるお引越しソフトで転送したのだが、肝心の「群系HP」の移転はどうしてもうまくいかなかった(データだけならともかく、いわゆるHPソフトのアプリそのものの転送はダメだった)。以来、せっかくの群系ホームページ(新版)も、39号までアップしたものの、それ以降は沙汰止みのままである。新規に、新PCで作成してもいいのだが、どういうわけか気力がでない。HPソフトをインストールするも、基礎から作っていくことに面倒くささを感じるのである。ここは一つ、若い女性か何かが、「作ってね」とでも、甘い言葉で誘いかけてくれなきゃダメな感じである。

群系ホームページ
  新版     http://gunnkei2.sakura.ne.jp/index.html
  旧版    http://gunnkei.sakura.ne.jp
    そうはいっても、年末、そろそろ「群系会報」を編集しなけれならない。群系HPの作成はおいても、会報は作成するとき、である。実は新パソコンの弱みもあった。それはプリンターとの接続がうまくいかなかったことだ。印刷は旧パソコンで出来る。以来当方は、新パソコンで作った文書を、USB に溜めて、それを旧パソコンに挿し直して、それでプリントアウトしていたのだった。当然ディスプレイも接続を旧に入れ替えて操作するのである(面倒くせえ)。新パソコンでは、「印刷」のコマンドがなく、みな「Fax」になってしまっていたのだ。
    ところが、ところが本日、プリンターの接続コードを新パソコンにつないで、今一度「印刷」のタグを探してみた。相変わらず、そこには「Fax」のタグになっていて、「印刷」は出来ない。そんなことはないはずだ、と見直すと、「Fax」のタグの右には▼の印があって、押すと、何と「印刷」の表示も出てきたのでした。なあーんだ。そこで無事印刷が出来たのでした(バカか)。
   結果はこんなものでしたが、当方iPadで、パソコンとプリンターの接続法などあれこれ検索していたのでしたが、結局は灯台もと暗し、でしたね。
   ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。(^^)/
 

同人誌と掲示板

 投稿者:管理人 iPad 5070  投稿日:2018年12月25日(火)22時39分58秒
編集済
     送られてきている文芸同人誌を紹介したいところですが、当方透析の疲れもあってうとうとしてしまいました。先に掲出させていただいた各雑誌の中で、読んだもののうち感想など書きたいところですが、いまはおいて過去に紹介させていただいたものを。五年前の小文ですが、今一度アップさせていただきますね。
   https://8614.teacup.com/snagano/bbs/5773

   また、同人の草原克芳氏などがやっている「カプリチオ」誌、その掲示板には、同誌、ならびに小誌「群系」の作品も論じられています。投稿者はこの板でもお馴染みの人です。どうぞ、ご参照下さい。
  https://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs


   なおそろそろ「群系会報」の編集に取り掛かります。41号ご執筆の方、お原稿をよろしく。
「会報」は同人・購読会員の方に、新年一月一日にご挨拶がてら、メール添付で送ります(一部は郵送です)。
    メール先は  →  uf2gmpzkmt@i.softbank.jp
 

戦時中の輸送船

 投稿者:管理人 iPad 5070  投稿日:2018年12月25日(火)08時23分51秒
編集済
     今年も暮れになりましたね。
   当方宅に、いろいろな同人誌が来ています。
「群系」誌も、この12/15に刊行でしたが、他の文芸同人誌も歳末刊行のようです。

「相模文芸 」37号  12/15 相模原市
「人物研究」42号  12/10千葉県松戸市
「構想 」65号  12/17  長野県東御市
「海 」第二期 21号  1/1  太宰府市
「白雲 」47号  1/5  新春号  横浜市
「文学街 」355号  11/1   東京都杉並区

    大抵は年2回刊行なのでしょうか、頑張っていますね。

    いくつかの作品を読ませていただいていますが、このうち、夏の群系三〇周年のパーティーにもおいでいただいた吉岡昌昭さんからは、たいへん丁寧な「群系」41号送付のお礼と感想をいただきましたが、同封の「文学街」355号掲載のご文にはひじょうな関心をもって読ませていただきました。
「暁に祈る  一徴用船員の記録」と題したエッセイは、一等航海士として、戦時中の輸送船に乗り込んだ父君の思い出を記したものですが、まだ幼児であった吉岡さんが、父に乗せてもらった輸送船のことを、しみじみ追憶していますが、そうした中でご父君が乗り換えていったそれぞれの船が米潜水艦に攻撃・撃沈されたことも綴って、この国の悲劇の歴史の一端を記録したルポにもなっています。
    父君が乗務されていた三つの輸送船は、大阪丸(3740トン)、芝園丸(1831トン)、祥保丸(1327トン)というのですが、そのかつての遺影の写真とともに、戦争末期の影の働き手のことを今更思わせてくれました。幸いご父君は、九死に一生を得て戦後まで生き延びたそうですが、あの太平洋戦争末期、特に昭和19年になって、敵は民間のそうした艦船も攻撃の対象としたそうです。大阪丸は昭和19年5月25日、芝園丸は昭和20年1月3日、祥保丸は昭和20年7月15日、それぞれ遭難、特に祥保丸は小樽から酒田までという内地の用務に就ていたのに、あろうことか米潜水艦は日本海にまで出没していて、同船は、北海道積丹沖の海で沈没したということです。

    あの太平洋戦争の最中、日本の艦船は米国の航空機・潜水艦によって、多くが大破・沈没しました。昭和17年5月のミッドウエー海戦では空母や戦艦を多く失いましたが(まよくこれだけの空母を開戦までの短い期間に造ったことも感心ですが)、これによって多くの兵が亡くなったこと、今更黙禱の気持ちですが、軍の艦船ではない民間船が攻撃されたことは、戦時とはいえ、怒りがわいてきます。どれだけの輸送船が犠牲になったか、一度調べて表に作りたいところです。
    がいま思って胸に迫るのは、戦争末期の対馬丸の悲劇です。これは沖縄の学童たちを内地に疎開させようとしたものですが、鬼畜米潜水艦の攻撃によって、その多くの子供達とともに船は海の藻屑と成りました。先日、年の暮れ胸に詰まる挨拶をされた天皇陛下は、以前にこのことを会見で披瀝されたことがありましたが、「私と同じ世代の多くの子供達が犠牲になられた」と言及されたことに、陛下の戦争に対する思いが凝縮されていたように思います。
 

「群系」41号 目次

 投稿者:管理人デスクトップ 4970  投稿日:2018年12月24日(月)11時32分29秒
編集済
   12月15日発行の、「群系」41号の内容を紹介しておきますね。

群系 第41号   目  次              二〇一八年(後期号)

作品タイトル                  執筆者   ページ
中表紙                              編集部 1
目 次                             編集部 2
《特集Ⅰ》日本近代文学の逼迫―昭和戦前戦中の文学ー   扉文 5
愛国詩を書いた詩人 三好達治の場合                市原礼子 6
林芙美子 -戦いのなかで                 間島康子18
〈異端〉としての保田與重郎
        -「日本浪曼派」とイローニッシュな戦争  草原克芳 27
中野重治・終戦までの日々ー『歌のわかれ』執筆を中心にー 小林弘子 47
転向文学を考えるー村山知義「白夜」と島木健作「生活の探求」ー 須田久美 54
小林秀雄「私小説論」について                      永野 悟 59
野口富士男「石の墓」                         野寄  勉 64
田中英光という作家                             名和哲夫 68
和辻哲郎 その「転向」と不動(承前) 二、戦前・戦中にみる不動  大堀敏靖 70
【『戦争×文学』】第10回 周 金波「志願兵」             野寄 勉 83
【『戦争×文学』】第11回 永井荷風「勲章」             野寄 勉 88
焼き鳥とホロコースト―俳句と無意識                   井口時男 93
あなたへの手紙                            相馬明文 96
随想 リハーサル 最後の晩餐                     土倉ヒロ子 101
野口存彌「藤枝静男・その男性性ー『ヤゴの分際』を読む」について 名和哲夫 105
詩 アダム ADAM/ADOMAS                       坂井瑞穂 107
《特集Ⅱ》童謡百年
鈴木三重吉『赤い鳥』創刊の動機                      吉田定一 108
「童謡の会」を主宰して二十年                     土倉ヒロ子 110
童謡のセンチメント                          永野 悟 111
窓 二〇一八年の日々                           編集部 123
【音楽ノート】おなかいっぱいの音楽会                井上二葉 124
【映画ノート】小津映画の永遠性                    土倉ヒロ子 125
【存在ノート】蛸のプライド                     蛸の足蔵 126
《自由論考》
鷗外『津下四郎左衛門』の相貌 (一)ー横井小楠暗殺事件の事実経過  相川良彦127
野口雨情の手帳を読む                      東 道人 144
島崎藤村の震災後小説「食堂」
       -新潮文庫『日本文学100年の名作 第2巻』から―          野寄 勉 152
藤枝静男評伝 私小説作家の日常 (二)             名和哲夫 154
島尾敏雄「アスファルトと蜘蛛の子ら」が語ること
       ー〈人と人とが殺し合う〉場に「私」が見たものー        石井洋詩 164
村上春樹 再読(9)ー『アンダーグラウンド』『約束された場所で』 星野光徳 182
太宰治没後七十年に寄せて                       吉永麻美 194
《「群系」創刊三〇周年記念パーティーの記録             編集部 195
《創作》
葉片私小説                           澤田繁晴 196
東京に憧れた姉                          小野友貴枝 200
執筆者紹介                            編集部 218
既刊号紹介                            編集部 219
編集後記                               編集部 220

 

編集部の立場として

 投稿者:管理人 iPad 4830  投稿日:2018年12月23日(日)05時24分5秒
編集済
      今回の〈校正〉をめぐるこの一連のことは、雑誌編集、また執筆者との関係をめぐって、編集責任の立場としていろいろ残念な思い、後々の課題を残す結果となった。
   インターネット時代、メールの便利さもあって、同人・購読会員の方からいろいろなお便りをいただく。事務連絡が多いが、中には、雑誌刊行へのお祝いや収録作品に関する言及があると、立場上たいへんうれしい(お祝い・お礼は振込用紙、またハガキなどにも多い)。また刊行後しばらく、掲載料や会費の振込み通知が郵便受けに届いているが、毎回ドキドキで、中に会費納入の方のがあると(赤字つづきなので)ホッとする。

    さて、今回の〈校正〉について起こった問題だが、これは編集部に課題というか、萎縮させる事態でもあった。荻野さんが上げているように、校正には、執筆者校正と編集部校正、とがある。もちろん第一には執筆者校正があるが、われわれとしては編集部校正に重きをおいている。いくらPCで打ち込んだといっても、ケアレスミスは執筆者も避けられないからである(今回も一度校了したゲラを家に持ち帰り、全部に目を通したところ少なからずあって、印刷回しを一日待ってもらった)。そして、それ以上に編集部が意図しているのは、語句や言い回しなどの訂正である。これはケアレスミス以上の、いわば編集部の力量も試される問題だ。文章表現のありようとして、この部分はこう直した方がいいだろうと、校正現場で話し合うのである。当然直した箇所、候補の語彙などは執筆者に出来れば問い合わせたりする。しかし、今回の相馬氏の場合、最終校正で、そうすることができなかった。
   今回の「浅慮」を「千慮」に直された編集部同人の知見には驚いた。そういうところに目がいく同人の力に感心したのである。しかし、それ以上にその校閲にたいする作品執筆者の意外な反応の強さには、正直たいへん驚き、そのことで、本会退会までされようとは、われわれの気持ちとうらはらになって、悔しくも残念にも思う。

    もう事が決定したようだからグチになるが、こういうことで有力な同人が本会を去るのは大変口惜しくもある。相馬さんといえば太宰治の研究者として有名で、浩瀚なご著書もある。次号42号の特集は、後記にもあるように、〈終戦・戦後の文学〉で、これには第一次・二次の、いわゆる戦後派作家が大きな的だが、それ以外に(以上に)重視したいのが、太宰や安吾、織田や石川淳などの、いわゆる無頼派作家である。その重要な書き手がいなくなったのである。もう一人有力な太宰研究者の佐藤隆之氏は、今回の41号が龍書房に戻って来ているという(引っ越されたのか、音信ができない)。せっかく今年は太宰没後七〇年ということで、三鷹の記念の催しの学芸員・吉永麻美様にもご文を寄せていただいたところでもあるのに。群系ホームページ(旧版)の執筆者の作品索引も見ると、相馬さんはその佐藤氏の太宰研究の新著の紹介もされているし、このかん非常に有意なご作品をいくつも寄せていらっしゃる。
  http://gunnkei.sakura.ne.jp/99_blank130.html
    三〇年続く、全国的にも希少な「批評系文芸同人誌」はかかって、執筆の方、購読の方によっています。一昨日版元から、今号の印刷費・発送費建て替えの請求が来ましたが、予想外の値段。とても執筆者の掲載料だけで賄えない事態にどうしようかと思っています(そのうち消費税8%が5~6万)。次号からは消費税も、何より、印刷費・発送費ともに値上がりするとのこと、休刊・廃刊の事態はいつでもあり得ます(編集部は、校正に来られるのも手弁当で、交通費もむろん賃金も出ません。小生自身も持ち出しはふつうです)。発送の際に、振替用紙を入れるのはおこがましい、同人誌は寄贈がふつうでしょう、という見方もありますが、如上の事情で、皆さまのご支援が不可欠です。ここにはひとこと、信頼しかありません。そのことを毀損する事態に今回なったこと、申し訳なく、残念に思っています。

※  なおこの場ですみませんが、お振込みの方、領収書はしばらくお待ちください。「群系会報」の発信の際にお礼とともに通知の予定です。またその「会報」のお原稿、執筆者の皆さまにはよろしくお願いします。500字程度(写真歓迎)。年末締切(12/30)で、新年一月一日にメール添付で、会員の方(執筆者もむろん含む)にお送りする予定です。(これは無料です)
 

相馬さんへ~「校正」について~

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年12月22日(土)14時21分18秒
編集済
  ◆第三者として私は、外野にいる言わば「無責任」な他人として、今回の事案(とでもいうのでしょうか)について一言述べます。相馬さんの投稿文で、ことの内容と経緯について理解しましたが、どうしてこのような経緯をたどってしまったのかが残されていますね。ほんらいは当事者間で取り交わされるはずの内容をインタネットに公開するという、その意味が問われている。つまり問題提起。問題とは校正のこと。私は同人誌において校正は「著者校正」がまず第一次で、二次的に「編集部校正」があると思います、などと言っても、この考えは同人諸氏においては当然のことだろうとも思うのですが…。永野さんの説明で問題の箇所が分かり、私は以下のように考えました。

◆「浅慮」と「千慮」の意味の違いは歴然たるもので、後者は普通論究するうえで論者の苦労を表しますが、浅慮は作者の韜晦した表現にまぶされたご本人の苦労のことであって、特に本作は愛する者の喪失と悲しみが主題なので、苦労どころではない。そして深慮であることは言うを俟たないのではないでしょうか。その「浅慮」の字義が残念ながら編集部にきちんと理解されていない、と相馬さんは言われています。同時に編集部校正で書き替えられた(編集部では「校正」、相馬さん曰く「改竄」)事実が許せないということですが、著者校正を終えた後で「浅慮」という文字が無かったという事実は、私にも不思議なことです。だから相馬さんにその言葉について質問があって当然ではなかったかなとも思うわけです。(こうしたやり取りがあったのならば、訂正として「千慮→浅慮」、とでも印刷した栞を入れても良かったかなと思います)。
当たり前のことですが「作品」は我が子同然であることに、あらためて思いをいたすところ。

◆また担当校正者として間島さんがお詫びをされています。このことについて――。
言葉を、人一倍丁寧に扱い大切なものと考えておられ、また、そのようにして来られた間島さんが勝手に書き換えをするはずはない、と信じております。長年お付き合いさせていただいて、間島さんのお人柄、そして表現ならびに言葉に真摯に向き合い、厳しく臨むその姿勢は我々仲間、とくに編集部が一番よく知っています。ですから間島さん”個人”がお詫びをする必要はないのです。相馬さんもそう思われていると思いますが…。
「群系」という我が国唯一の批評系同人誌に愛着とプライドを持つのは「群系」メンバー全員なので、誌の質をもっと高める意味において「校正」の問題を同人各位においても考えなくてはならないのではないでしょうか。

◆最後に――著者紹介で待望の年金生活に入れる、と呟いている相馬さん。7年前、私もそのときとても嬉しく感じました。長年望んでいた文学的な自由な時空間に浸れる。この喜びは生活のために時間が非文学的な桎梏の下に囚われていた者でないと分からない味わいです。相馬さんは他に幾つかの同人誌に在籍されているみたいですが、前号の芥川論(「みかん」)における氏の固有なものの見方を中心に拡げられた批評の世界…退会を決断されたようですが、もう一度あの切れ味ある批評文に接したいと思っています。
 

レンタル掲示板
/471