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スレッド一覧

  1. パソコンクラッシュ(>_<)(6)
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編集会議、ご報告

 投稿者:管理人 iPad 2354  投稿日:2018年 9月 3日(月)20時25分48秒
編集済
     昨日日曜日、編集会議、五人が新宿のエクセルシオールカフェに集まりました。議題は次の三つでした。
A.  9月17日(月曜・祝)の合評会の段取りにちぃて
B. 次号の「群系」41号(10月20日締切)の特集について
C. 30周年以降の本誌の方向性について

   まず、Aについて
   一時から四時半までの限られた時間なので、手際よく進めたいとして、まず最初は、《創作》から合評しようとなりました。次に《特集Ⅰ》、その次が《自由論考》、最後に《特集Ⅱ》とその他、の順、で進行することになりました。
   基本的には出席者のものを合評しますので、ついては出欠について、執筆者には近日中にメール等で問い合わせすることになりました。出席の方のお名前はこの板で披露しますのでよろしく。もちろん、非執筆の方、外部の方のお出では大歓迎。会場費等はありません。終了後、いつものように懇親会をやります(この時からお出でも歓迎)。
   Bについて
   特集Ⅰの《日本近代文学の逼塞ー昭和戦前・戦中》については、特集の性格を巡って議論のあるところでしたが、基本的に〈昭和8年~20年〉に登場した作家・詩人のグループ分けの中(本板28日投稿参照)から、以下の文学者を扱うことになりました(以下、編集部を含め、同人・あるいは外部の人に投稿依頼をする予定。連絡がいきましたら、よろしくご検討下さい)。
《時代の寵児 》からは、太宰治、坂口安吾、林芙美子、内田百閒、
《プロレタリア文学・転向作家 》からは、小林多喜二、 中野重治、島木健作、佐多稲子、
《大家たち》からは、志賀直哉、永井荷風、島崎藤村、横光利一、川端康成、岡本かの子、
《 詩人 》からは、中原中也、高村光太郎、三好達治、室生犀星、
《批評家・思想家》からは、小林秀雄、保田與重郎、亀井勝一郎、唐木順三、
《戦争文学》からは、どの作家ということはないのですが、総論的にでも取り扱いたいと思っています(後で、藤原ていの「流れる星は生きている」など、取り上げたらどうか、と思いました)。

   執筆予定者のお名前は控えますが、よくこれだけの陣容が揃うものだと、編集部としても感心しています(ま、問題はこれからですね)。

  Cについて
    今回の41号特集の内容如何と思っていましたが、批評家・思想家を含め、これだけ中身がそろえば、本誌の方向性は明るいものだと存じます。
    全国同人誌大賞を受賞し、創刊三十周年を迎えた本誌は、批評を中心にした全国的にも極めて珍しい文芸誌です。この際、この余勢をかって、単なる文芸同人誌の枠を超えて、いわば、第二の『近代文学』を目指して、この批評・思潮を練り出してゆく文芸誌として、江湖に訴え出していこうと存じます。皆さまの熱いご支援、またご協力、お願いいたします。
 
 

病院での一光景

 投稿者:管理人 iPad 2354  投稿日:2018年 9月 3日(月)16時58分42秒
編集済
     前に入院した時、目にしたことである。点滴棒を手にしながらロビーに行ってみると、前にも見かけた小さな女性がいた。身長140センチくらいだろうか。高齢者ではない、おそらく40代くらいだろう。やはり点滴棒を携えているが、インジェクトの装置が下にあって、全部で四、五本も注入されるようになっている。自分のは生食の袋一つだから、彼女の重症?度が感じられる。どんな病気なのかわからないが、一見そんなにつらそうに見えない。しかし明らかにその矮小な身体から彼女がいかにハンディを持った人生を歩んできたかがわかる。
   同じく、今度は男性だが、こちらも小さく130センチくらいだろうか、後ろから見ると小学生かと思われたが、顔を見ると、大人である。むろん中高年ではなく、せいぜい30歳か、その前だろう。背の低いという人は、当方も含め世にいくらもいるが、ここまで小さいのは、矮人症?なのか。それに伴ってか、病気が随伴しているのかと思われた。
   女子医大だから、色々な病気の人が入院してきている。中には先天性の心臓病か、移植を待っている若者たちがいた。皆屈託無く話し合ったりしているが、やはり身近に補助人工心臓をたずさえている。自分も心臓弁の置換手術のために入院していたのだが、彼らのは直接生き死にに関係している。同じ大部屋にいたが、彼らは彼ら同士話し合うが、ついに当方とは挨拶の一つも交わさないで、終わった。
    現代の医学だから生きながらえているのだろうが、生きること自体が命がけでである。当方のように相応に生きてきて手術というのはまだいい。若い身空で、かなりきつい施術を受けなけれならないのは、宿命か。

    昔、「天刑病」と称された宿痾があった。癩病(レプラ)のことであるが、大正から昭和戦前は彼らは一般世間から隔離されていた。文字通り前世の因縁か天罰の病気とされたのだろう。長島愛生園というのであったか、瀬戸内海の小さな隔離された島、そこで働く女医が綴った「小島の春」(小川正子著)はベストセラーになり、映画化もされた。当職は、荒正人の文章でそのことを知ったのだが、こういう事実に向き合ったのが、『近代文学』の批評家たちであった。
    時代は貧困と戦争の暗い谷間である。世の中には偏見と我が身可愛さの自分主義、また大家族の封建制がのこっていた。自由に生きる、自分のしたいことで暮らしていくなんてことが無理な時代であった。自殺した者も、病死した者も、闇から闇へ処理された。

    こういう問題は本来、政治や行政が手を差し伸べるべき問題である。しかし時代は国家総動員法が敷かれて、まったく個人など振り向かれない時代だ。さて、こういう問題にこそ、文学の出番なのだ。
 

管理人さんの御文に共感します

 投稿者:土屋慶  投稿日:2018年 9月 3日(月)15時17分50秒
編集済
  一連の管理人さんの書き込みには至極共感いたします。貧困問題から始まって、文学の危機に至るまで、ほぼその通りだと思います。しかるに、なんですかねー、文学の危機と言うのは。その点を思考として深めるのが、わたしの残された唯一の宿題なのですが、日々の生活に追われ全く出来ていません。ひとつには文学作品を論ずるより漫画、映像作品、その他のメディア作品を論ずる方が、読者に届き易いということをよく考えます。純文学は読まれていないー別に統計をとったわけではありませんが、おそらくそうだと思います。社会や時代の様々な矛盾、困難を課題やテーマとして背負うジャンルとして、小説(詩は外しておきます)が機能していないのではないか。自分のことを言わせてもらえば、小説を描いたり、小説を論じたりするよりも、直接行動に出た方が有意義なのではないか、ということで今現在は社会活動をしております(おもに教育分野で)。管理人さんのおっしゃるように文学の危機をわたしも<感ずる>のであって、それは時代の空気、感触としてあるような気が。(いみじくも柄谷行人が「近代文学の終わり」を宣言しましたけれども、何度か読み直しているところです)ところで、文学者、のみならずものを考える人間というものは、その営為が個人に始まり個人で終わるわけにはいかないのであって、その思考が時代状況や社会状況とシンクロしていなければなりません。むろん純粋個人的な、特異的な思考がはからずも時代や社会の本質を抉り取って見せるということはありますが、もし文学的営為というものが個人の趣味を徹底させるだけならば、何故文学でなければならないのかがわからなくなる。他にも趣味の対象は様々にある。つまり何故文学が他のジャンルと比較してもかつては特権性を持ちえたのか、が問題なのではないのでしょうか。まとまりの欠けた文章で申し訳ないのですが、管理人さんの一連の御文に触発され、書き込みをさせていただきました。  

<文学の危機>を感じるということ。

 投稿者:管理人 iPad 2354  投稿日:2018年 9月 3日(月)13時50分8秒
編集済
     <文学の危機>について、愚生にお尋ねがありました。坂井さんのご文は、たいへん博覧な知識教養のもとに、むしろ現代は文学の繚乱期にあるというご認識は、現在の文学作品に囲まれてそれに自足できる立場の方のご意見としてなかなかのもので、それはそれで結構かと存じました(当方の『季刊文科74号』の拙文もお読みいただいたようで、恐縮至極です)。
   でも、こういうご文は立派だと感じつつも、愚生としてはやはり違うなと思うものです。そこには何というか、批判精神がない、自分の飽食に満足し、他者や社会についてものを考える視点がうかがわれないのです。この板に投稿者の中でも、自分の好みや視点で投稿されている方もいらっしゃいますが(むろんそれはSNSのありようとして結構なのですが)、当方としてはやはり、政治や社会、歴史の問題について義憤と不満を書いてもらいたい感じです(この際ついでに言いますと、坂井さんのご文は深い教養がむしろ仇ととなって、時に読者に読みにくさを感じさせています。むしろぺダンチズムを感じさせるばかりで、共感を起こしにくいのです)。
   『文芸思潮』誌の五十嵐勉さんと並んで愚生の<文学の危機>意識を問題にされていますが、これは一つ世代の問題になるのでしょうか(坂井さんが、文学の危機が全くわからないというのも、残念ですがわかるような気もします)。期せずして、五十嵐さんとは全くの同世代ですが、われわれ団塊の世代につながるものは、あの学生運動を体験し、その中で友人を喪ったりもしました(その流れで、菊田義孝さん・野口存彌さんと知り合い、群系の会発足につながりました)。小生らには、一つ、あの時代の追憶、鎮魂があるのです。その点で、桐山襲の作品には共感を感じ、やはり同世代の村上春樹の作品との違いをかつて論じてみたりもしました。
   <文学の危機>の一般的通解としては、いみじくも編集部同人・荻野央さんが書いてくれました。今日の情報時代、文学や思想の危機を感じないでいられるのはそれはそれで幸せなことかもしれません(文学享受はデバイスの問題ではないとありましたが、それはそうではないと思います。スマホの手軽さで情報は手軽に得られるようになりましたが、物をじっくり考える教養はだんだんと薄れてきたような感じです)。
    でも毎日美味しいスウィーツを味わっているのが、芸術、とりわけ文学作品の享受でしょうか。文学の詩精神とも仰せでしたが、詩精神はそんなにロマンチックなものでしょうか。朔太郎も中也も、あるいは梶井基次郎にも、何か死をベースにしたニヒリズムがあります。
    私は、いま現在のこの国の政治・社会、マスコミの状況に不満があります。そして、スマホにうつつをぬかしている若者にも不満があります。先に高齢者の貧困の話を書きましたが、いま40代くらいの若者も、こうした貧困の問題が人ごとではないはずです。
    要するに愚生の考える文学は、坂井さんのいうような、豊穣な世界という認識と違います。小生が戦争文学を話題にするのも、そうした延長にあります(最近もNHKのドキュメンタリーで、「ノモンハンー責任の見えない戦い」をみて、改めて当時の報道ルポ、戦記を読み直しましたが、愚かしさがありありで、あんな無責任な国境紛争のため、たいへんな犠牲が払われたのです)。

    昨日、編集会議がもたれて、たいへん有意義な議論がされました。次号の特集、《昭和8年~20年の文学》は、私どもの問題意識が共有されましたが、あの時代を考えることは、人間の生、社会、歴史を考えるためにも、大事なことだと思います。ここのことは、編集会議のご報告も兼ねて、稿を改めて、書いてみようと思います。
(ところで、合評会、創作のところから始めようとなりましたが、坂井さん、今回はご出席のご予定でしたね、いかがでしょうか)
 

文学の危機 (?)

 投稿者:荻野央  投稿日:2018年 9月 3日(月)10時43分1秒
編集済
  ◆わたしは坂井さんと同じく文学に夢中で、読みたい本と読むべき本に溺れそうな毎日を送っているから、少なくとも自分に「於いて」その種の危機感はゼロだ。(肝臓への危機感はあるのですが) 敢えて言うなら、読み終えた後でいかなる理解の結果も残されてなかったり、自分の課題意識とつながっていなかったときに危機感は発生すると言うことかなと思う。つまり時間を損した…。

◆ところで、編集長や五十嵐さんの言う文学の危機とは、まず本が読まれない、そして書籍として体裁を整えた文学が読まれないという現状と、「現代文学」が読まれないという予測(坂井さんの言う仮説)がイコールになっているところが気になるのである。前者は、象徴的に言えば長期的な出版業界の不況であって、スマホ全盛が象徴している社会現象であって、後者はまさに読者のそれぞれにおいて文学が思考の補助材料になっていないというところだろうと思ったりしている。この両者を結びついて考えてしまうことが、叫ばれている「文学の危機」発言につながっているのではないだろうか。でも、わたしが思うにいずれの状況も、文学に溺れそうな人間から見れば「余計なお世話」に見える。文学がそれ自体として消滅するわけがないから。
音楽をみればそれが分かると言うもの。音楽の不滅は、バッハのドレミファソはジョン・レノンのドレミファソと同じで、AKB48のドレミファソと同じということを思えば、音楽の要素としての「音」は不滅であるというところから来ていることだし。

文学の音に相当する要素は言葉であって文字ではない。文字は書かれたもので言葉は意味と価値を持つものだから、文字を言葉として読まなければ時間とお金の無駄遣いということになってしまう。危機とはそうした状況を指しているのならば、ああそうかとうなづいてしまうが、どうもご両所の言う文学の危機とは、書籍・スマホなどリーディングに於けるデバイスの問題にしか過ぎないと思われる。本来(当たり前だが)文学は個人的な営みであるはずだし、だから、文学界全体の組成を担うにしかすぎないデバイス問題を気に掛ける必要はあるのかな、と思ってしまう。

◆30年も前に「文学の衰退」が問題とされた時期があったけれども、結果としてそんなことはなかったし今でもない。危機というよりは消滅しかけている自己との対話じゃないか?。スマホは一部を除いて「情報の一方通行」に過ぎないし、自己対自己の双方向のやり取りは――田村隆一ではないが「豊饒なる沈黙」と言われるように――思考を深めていくことだろうし、それすらゲームと言うならば、高尚だな、ヒヒヒ、と皮肉を言われてもネットゲームの中毒にはならないから逆さまに愉快なことだとわたしは思う。まったく思考を深めるのは至高の娯楽だ!。
(スマホに夢中な人々は「沈黙」をなにか恐怖の時間と感じていて、それは重量を持ち、のしかかる痛みとして感じているのではないかと、街中のストレートネック人間と無会話の恋人たちを見ていてそう思う。肉声としての会話がない。これでは思考そのものの存在、いや感情の熟成までもが見込めない。つまり文学的な人々ではないということになるのか…)

◆また話題がそれてしまったが、出版業界がどうなろうとスマホ・ホーリックになろうと人間全体の退歩・停滞・破滅につながろうと、それらは溺れ寸前の文学状況のわたしとほとんど関係が無い(だからこそ同人誌は場としても対話という形式としても、とても大切なのだと常に思っている※)のでこれ以上の発言はストップせざるを得ない。と言うか、わたしの能力を越える問題で、やれるとしても掲示板では無理なので、いつか「群系」の特集にした方が良いように思けれども、如何?。

※合評会に参加してください!!
 

K.O.論争、ふたたび、ですね。

 投稿者:坂井瑞穂  投稿日:2018年 9月 2日(日)13時33分36秒
  何時もながら考えさせられること、学ぶこと、多いものです。私は草原先輩を凌ぐ秀才ではありませんし、大堀先輩のような確固たる信念も持ち合わせてはおりません。しいていえば日和見というか場当たり的というか。ろくなもんじゃない(ナガブチ)んです。
両先輩の論争というか議論が白熱化してきたところでどうも長いこと理解出来ずにいたものの、忘れかけていた問題を一つ思い出しました。
それは、<文学の危機>とはいったいどのようなものなのか-----
具体的には永野会長が頻繁に意見されていますし、季刊文科74号に投稿された論文でも明確に論説している。群系40号では五十嵐勉氏が挨拶文のなかで類似した発言をしているのです。ではその<文学の危機>とはいったいどのようなものなのか、改めて考えると全く分からないのであります。そして気になるのが永野氏と五十嵐氏以外の方たちからは同様の意見がきかれず、まったくもって不明な点ばかりが浮き彫りになってしまいます。
<危機>といってまっ先に思い浮かぶのがサッカーのジーコ氏がJリーグ発足前の日本のサッカーを見て、<urgente do peligo(壊滅的危機状況)>と表現しました。ジーコ氏は自国のサッカーと比べて余りにも稚拙な日本のサッカーを危機状況と言ったのでしょうが、果たしてこの言葉は正しいものだったのか。例えば普通に成長している3歳や5歳の幼児が大人の力量に達していないことが<危機>なのか、ブラジル代表でも四天王と呼ばれたジーコ氏の理想とするものがあまりに高邁でJリーグがそのレベルに到達していないからそのような発言になったのではないか、そう考えると納得できる部分もあります。
翻って永野氏や五十嵐氏の言う<文学の危機>、これは文学の専門家で数多の文学作品に精通されてきた永野氏や五十嵐氏の理想とするものがあまりに崇高なものとなって、合格基準点が高くなりすぎたための結末といえまいかと思うのです。人間、眼の置き場によって考え方も変わるでしょう。標高9000m、10000mの高みに達してしまうと周りの山など低くて小さく感じるでしょうし、<文学の危機>を執拗に訴えている先生方は、感性として物足りなくなっているのではないか、そのように思われます。その点、私などは文学的には初級か中級程度だし読むものに対しても理想など求めないし、どれもおもしろく、そして膨大なる普遍価値を含有しているとさえ感じ取れるのです。おそらくは永野会長なら読まないであろう大藪春彦や平井和正からも詩的エッセンスを得られる、これは私の、標高1800mレベルの低空飛行がなせる満足感なのだと認識しています。
 もし本当に<文学が危機>にひんしているのなら意見が少数に留まっているのは異常ともいえるし、危機に対してもっと多くの議論がなされるのが成り行きではないだろうか。ともすれば永野会長はチームリーダーの責任感からメンバー激励のために、悠長にしていてはいけません、危機感を持って臨むのです、そう言いたいのではないだろうか、という結論を得たのですが正直なところどのようなものでしょう。
そして<危機>がどのような形でどのような規模のものかも、発言者には責任があります。実は私が好きなカラオケを巡る産業界でも、近頃はレジャーの多様化も相まってカラオケ業界が危機に陥っているとよくいわれます。裏を返せば10年前には12程の業者で競争していたのがDAMとかJOYの2強に決着して、そのせいで余り面白みをなくして客離れをおこしたというのが私の感想なのですが、この業界でシダックスが一社だけスポイルされたようです。
では永野会長の言う<文学の危機>とはカラオケ業界全体が抱えるレベルの危機なのか、それともシダックスがライバル社に買収されて投了、程度のものなのか、ハッキリさせる必要がありますね。
結論---私は<文学の危機>など現実世界で存在しているものではなく、いわゆる仮説の域を出ていないものと考える----
重ねて言うなら現在(長いスパンでみて100数十年単位)、文学は危機どころか最高の繚乱期にあると私はみている。
群系37-40号にて特集した近現代に登場する文学作家群とその評論、国文学だけを対象としてもこれだけ膨大になるのです。外国に眼を移せばノーベル賞だけみてもパブロ=ネルーダ、ファンラモン=ヒメネス、シェイマス=ヒーニー、ヤロスラフ=サイフェルト、怱々たる顔ぶれです。そして特筆すべきはこれらの賢人が書いた良書は全て邦訳され手軽に読むことができるのです。私が<文学の危機>どころか繚乱期だと感じるのはこのあたりを基準としています。
例えば永野会長でしたらどのあたりを<危機>と位置づけているのでしょうか。今揚げた他にもウンベルト=エーコ、ジャンマリ=ギュスタブ=ル=クレジオ、澁澤龍彦、ミロラド=パビッチ、私はもう満腹状態なのですが。

仮に<文学の危機>が本当に迫っていて、映画のディープインパクトのように一刻も速く対抗措置をとらなくてはならないのであれば、私も少しは真面目に考えようと思います。それとも反対側の<反文学>の立場から勢力を失った文学とやらを仕留められる千載一遇の機会と捉えるべきか。
16世紀のフランス文学はある種世界文学史のピークと称されたりもしますが、ピエール=ド=ロンサールは七星詩派として数えられてもいますが実際猫の目のように交替する国王との折り合いがうまくいって出世したようなところがありますし、逆にフランソワ=ラブレーは発禁にしてみろ、くらいの意気込みで著述していたようです。ミシェル=ド=モンテーニュは<随想録>のなかで永野会長がおっしゃる<文学の危機>をにおわせる表現を多く用いていますが(なんと言ってもユマニストですから)時代の成り行きとはいえ、没後だいぶたってから発禁になったりしています。だとすると空前絶後の文学繚乱期といわれた16世紀のフランスにしたところで社会が爛熟していたわけではなく、文学をはぐくむ土壌はきわめて脆弱だったことがわかります。約130年続いた100年戦争がその後100年程で戦災復興するとはお世辞にも思えないし、他にも宗教戦争、農民戦争などの火だねも多く、時代が下っても市民革命や挙げ句の果てにマクシミリアン=ロベスピエールなども登場したりして----
16世紀の最高傑作文学が成立した背景がいかなるものであったかを理解するにつけ、物質のありふれた現在がロンサールやモンテーニュの生きた時代に劣っているはずはなく、今後を含めて<文学の危機>などというのは永野悟氏と五十嵐勉氏の杞憂に終わるというのが不肖坂井の予測ではあるのですが、群系会員のベテラン評論家の皆様はどうお考えなのかアンケートでもやって意見を得てみたいところですね。
 

「人生不可解」というミステリーの面白さ

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 2日(日)08時34分20秒
編集済
  ■「人生不可解」と思う日本人が、いちいち華厳の瀧に飛び込んだら、大変ですね~。
漱石は「人生不可解」の大家だと思いますが、
登場人物には自殺させても、自分は死んではいない。
華厳の瀧のかわりに、
最近は、電車や線路が滝壺になってしまっているようですが。


■別に人間は、キツ~イ二元論のどちらかを
二者択一的に生きなくてもいいんじゃないですか。
ラジカルな曖昧性を、戦略的に生きてもいい。
イロニーという複眼的思想も、そこから出てくる。
あるいは二元論を抱えたまま、そのまま、自爆したりメルトダウンしたりせず、
創造的な原子炉に変容させることも、できないわけではない。

優れた物語や小説といったものが、一種の原子炉のような装置となって、
知らず知らずのうちに、そういった精神的な"電力供給"をしていないとは、言いきれない。

人間は、ローカルな真実、局所的な真理から脱皮して、
より安定した〈我〉、あるいは〈我/世界〉というものを、
何らかの破局から帰還して、再創造する権利がある。
しかし、それはもはや、〈我〉というよりも、
より流動的で、開放的、かつ他者内在的な、〈自-他〉共生的な意識なのかも知れない。

「幻想」が駄目なら、ホログラムでもいいですけどね。
最近は、ニュートン、ガリレオ、
あるいはかつてのマルキシズムが信じていたような
かっちりとした物質らしい物質像が、量子論以降、崩壊してしまったので、
ホログラフィック・ユニバースという世界像もある。
こちらは、意識と情報が主役の宇宙像。


■「幻想」という語彙がまずいというのは、大堀さんの偏見ですよ。
大堀さんが写経に参加されているという奈良の薬師寺。
あれ、唯識仏教ですよね。
三蔵法師玄奘さんの。
一切は「識」だという「唯識」の世界観も、まずいですかね。

写経では、大堀さんは、どんなお経を、一文字一文字、写されているのですか。
色即是空、空即是色の「般若心経」なのでは?
これ、「國體」や「ナショナリズム」や「国家神道」などという概念とは、まったく別次元ではないのですか。
むしろ、そういった思想的固執、固着を、穏やかに融解させるような教えなのでは?
となると、大堀さんの長年のアイデンティティを脅かす、天敵みたいな異端文献を、
毎年毎年、お布施を払って、律儀に書き写していることになる。
もちろん仏教ですから、
慈悲を起点として、救済とか平和祈念とかを持ち出せば、無理やり「国家」に連結させることはできますが。

               *

>ですから移ろいゆく諸現象の中にも消えずに残るものがあって、
わたくしの崩壊してしまうような自己はエゴであるかもしれませんが、
それでも劫火に遭っても消えない真我というものをそれぞれの個人が確固として持って存在しているとわたくしは信じたいです。

■「真我」があるとするならば、信じる信じないというレベルを超えた深層の意識次元だと思います。
それは当然のことながら、「國體」「ナショナリズム」「国家神道」よりも、はるかに深い位相だと思います。

               *



~ところで、「教育上よろしくない」というのは、
どういう思想を背景とした「教育」でしょうか。
戦前の「教育」が、どういうものだったのか、
当時の言論界や知識人の動向が、どういう状況だったのか、
これは管理人さんの先のコメントや、「群系」次号のテーマとも、円環してくると思います。



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消えないイリュージョン:eternal illusion

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 2日(日)08時00分49秒
   吉本隆明が出てきて6年前も「共同幻想」を巡ってさんざんオチョくられたことを思い出しましたが、「同じ怪我を二度したり、同じ隘路や、同じ袋小路でループしたりするのは、反対」されるということで、歩み寄って穏やかに答えていただきありがとうございました。

 確かにこの世のものは淀みに浮かぶうたかたのごとくかつ消え、かつ結びて久しくとどまることはなく、諸行無常、色即是空で、移ろい儚くも消えてゆくイリュージョンだと思いますが、「幻想」という言葉で言ってしまうとそれならば何のために生きているのかわからなくなり、そんな夢幻のためになんでこんな苦労しなければならないのかということで厭世的になり「人生不可解」と遺言して華厳の滝に飛び込まなくてはならなくなります。

 「幻想」はまずいのではないかと思います。
 少なくとも教育上はよろしくないと思います。

 「物語」の中でも「竹取物語」「伊勢物語」「源氏物語」など古典は千年の風雪に耐えて、作者の肉体はとうの昔に朽ち果てても厳然として日本人の中に受け継がれ、DNAの中にもそれはきざみこまれているのではないかと思います。

 ですから移ろいゆく諸現象の中にも消えずに残るものがあって、わたくしの崩壊してしまうような自己はエゴであるかもしれませんが、それでも劫火に遭っても消えない真我というものをそれぞれの個人が確固として持って存在しているとわたくしは信じたいです。

 日本の国家の理念も同様で、移ろいゆく国の姿はありますが、中心を貫く不動の一点があって、その形態は万古不易、像が踏んでも壊れないものだとわたくしは信じております。

「文学は不滅である」
 草原先輩はパーティーでやや酩酊状態でありながらも、名演説をされたと思います。
 「結論を出さなくても表現できる自由な場があるのです」
 こういう言葉は幻影ではなく、わたくしの心の中に永遠に刻みつけられて忘れることはないのであります。

https://www.youtube.com/watch?v=N5IAAeo7XmQ
 

いや、「幻想」や「物語」は必要です

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 1日(土)21時10分45秒
編集済
  ■大堀さんのいう通り、「幻想」は必要ですよ。
ただ、私が肯定的な意味をも含めていっている「幻想」を、
大堀さんは、意外にも、ネガティブな意味だけにとらえているらしい。
それは誤解です。

むしろ私が言っている「幻想/物語」は、
かつて普遍的な真理だと思われてきたものが、
経験知や情報が拡大するにつれ、ローカルなものに、部分集合的なものに、相対化されてしまった
という程度の意味合いです。
二階からの鳥瞰図として、一階の部屋のそれぞれの間取りが見えるような光景です。
それぞれの部屋の意味や機能も、ちゃんとあるわけです。
これは、「しょせん、夢まぼろしに過ぎなかった」という全的否定とは違います。


■それまである時代の人間を活かしてきた意味や、価値や、目的や、信念体系が崩壊したとき、
一旦はニヒリズムに陥るかも知れないが、
新たな物語・幻想を作る創造力もあるわけで、
そういう営みというか、ダイナミズムをわれわれは持っているということで、
別にこれは、悪いことではない。
「知」を超える「夢」を持つことは、悪いことだとは思いません。
ただ、しばしばその「夢」や「神話」は制度化され、窮屈なものになることがあり、
抑圧的に機能することさえある。
それと、同じ怪我を二度したり、同じ隘路や、同じ袋小路で、悪しきループを繰り返すことには、
反対だというだけであります。

■新たな、より高次のリアリティが視界に現れたときに、
それまでの価値の源泉が、希薄になったり、崩壊したりするわけで、
だからといって、過去の価値幻想をめぐる"創造と破壊のプロセス"そのものが無意味だとは、
いっておりません。
また、何らかの超自我みたいなものが必要だろうとは思います。

最近は、AIを、
新たな「神」や、超自我に仕立て上げたい連中がいるんじゃないんですか?
大量の人間を、"物件"として、客体として、
効率よく管理したり、鑑定したり、処理したり、破棄したりするのに、便利ですから。

     ~自分達は、その背後のVIP席に陣取って、"AI大明神"の脅威とパワーを言い立てながら、
      ひそかにその推進に伴う権益を、拡大していく。
      新たな「大審問官」物語の発生ですね。


■かつて熱狂していた「ネトウヨ」の世界観は窮屈で嘘がある…ということに気が付いたというのが
下の記事の青年の個人的な体験でしょう。
別に、大堀さんが動揺することでもなんでもない。
もちろん、「ネトウヨ」ではなく、ホンモノの国士である大堀さんは、動揺などしていないでしょうけどね。


                *



>それは単なる幻想ではなく、理念と呼ぶべきもので、
原爆・水爆をもってしても破壊できない、金剛不壊の絶対理念であると
わたくしは人生を賭して信じております。
二十歳からほぼ四十年かけて育んできた信念でありますからこれに懐疑し、
否定するようなことになったらわたくしは崩壊してしまうはずです。(大堀氏)


■崩壊ですか……。
しかし、信仰というのは、そういうもんでしょうね。
転ぶか、殉死するかの、二者択一。
つまり、「懐疑しないように、懐疑しないように」と緊張し続け、歯を食いしばって
信心を固く保持する…というような。
それにしても、金剛不壊って、ずいぶんとまた仏教的な語彙で、物質的硬度も高そうですな。
金剛って、ダイヤモンドのことですもんね。
でも、ダイヤモンドは、壊れますよ。
火には弱いそうだ。


               *


ところで、思想と同化したあげく、懐疑が起ると崩壊してしまうような「私」って、一体、何ですかね?
結局、エゴじゃないんですか、それ。

>共同幻想論、唯幻論を持して、疑似現実の神話を剥がし、物語批判をして、
一体どこに辿りついたのか、どこへ行こうとされるのか、管理人様、草原様にお尋ねしたいです。

■どこにも行きませんよ、たぶん。
空間そのものに、なるんじゃないんですか。
人間という小宇宙の意識が、めでたく、大宇宙とつながってゆくのかも知れません。
「管理人様」のコメントは、私のような文脈で語っているわけではありませんから、
それはまた、別の見解だと思います。

いわば不立文字ですが、イメージとしては↓こんな感じでしょうか。




     【頭山】
~金剛不壊の自我が崩壊するとき~

https://www.youtube.com/watch?v=QRGoZ633FiM
(註:頭山満の話ではありません)


 

大堀は釣り堀の魚には非ず

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 1日(土)11時37分25秒
  非ず  

さァすがは…

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 1日(土)10時51分30秒
  さッすがは、大堀さん、
食い付きが早いですなあ~。
気持ちいいように、釣れてしまう。
出かける前に覗いたら、もう、お魚が入っていたので、
また、あとでー。
 

金剛不壊の絶対価値

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 1日(土)10時30分13秒
編集済
  全ては「幻想」で「物語」に過ぎないとして、とりつかれたように何かに一所懸命ガンバル人を斜に構えて冷ややかな目で見て、
自分はそういう人より上位にいると思っているのも幻想なんではないでしょうか?

日本は侵略戦争をした、
近代以降の日本は間違っていた、
天皇という共同幻想価値を担ぎ出して戦争をした、
というのもアメリカが作り上げた「幻想・物語」ではないでしょうか?

>■何らかのヴィジョンを持った「物語」は、生存と成長には必要だ。しかし、その信念体系は、一種の作業仮設に過ぎない。
やがて時が到来したならば、ヤドカリさんは、耐用年数を過ぎた〈殻〉は脱ぎ捨て、
新たな説得力や、斬新なデザインの〈殻〉を見つけたり、自ら、Do It Yourselfで、創出したりする時期が、やってくる。

 進歩的な考え方だと思いますが、
 保守の立場からすれば、
 人間は何かを信じていなければ生きてはいけない動物ですから、
 その信じる対象がヤドカリの殻のようにころころ代わって、
 東京新聞のネトウヨ青年のように一時の熱狂からすぐ醒めて、
 自己否定して次の価値を求め、「価値」存在自体も否定して、すべては幻想だという「価値」を得て、「考え続けていくしかない」という「価値」の中で、
何かを信じてガンバル人を「愚かな」と見下ろして、
 常に自分はニュートラルな位置にいる常識人だと思っているような生き方は、
結局何も真実をつかむことはできない、何も見ることはできない生き方だと、
私は若いころ否定致しました。

 信じつつも思考は続ける…。

 私にとっては、日本の天皇というのは、どう考えても価値であり、
 源氏三代、北条、足利、徳川が十五代であったに比しても、これだけ長く続いていることが無価値でないことの証左となりましょうし、
 ほぼ考えられるうえでの最上の君民関係を日本の国柄は保持していると思います。(
西洋・中国などと比しても)

 それは単なる幻想ではなく、理念と呼ぶべきもので、
原爆・水爆をもってしても破壊できない、金剛不壊の絶対理念であるとわたくしは人生を賭して信じております。

 二十歳からほぼ四十年かけて育んできた信念でありますからこれに懐疑し、否定するようなことになったらわたくしは崩壊してしまうはずです。

 共同幻想論、唯幻論を持して、疑似現実の神話を剥がし、物語批判をして、一体どこに辿りついたのか、どこへ行こうとされるのか、管理人様、草原様にお尋ねしたいです。
 考えることは放擲しませんから。

 

物語と批評

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 1日(土)06時55分47秒
編集済
  >人間の歴史における過誤
              (永野さんコメント)



■下の記事、美少女戦士セーラームーンとかのお話では、ないようです。



【脱ネトウヨのススメ 元ネトウヨ男性の告白 自分は聖戦士 信じていた
                    こちら特報部(東京新聞) 】

http://www.asyura2.com/18/senkyo249/msg/873.html

■この東京新聞の記事は、なかなか充実した記事だと思います。
これが残念ながら、彼らの〈典型的な内面史のサンプル〉、ということなんでしょうかねぇ。
サルトルの短編『一指導者の幼年時代 』の自己欺瞞も連想させる。
「陽の下に新しきものなし」(旧約/伝道の書)……ですか。

~「信念体系」と「批評知」の拮抗、
(物語-批評)というのは、
ドイツ・ロマン派の文芸批評家シュレーゲルの時代からのテーマですね。
自己創造と自己破壊、その連続的、かつ建設的な弁証法。
後のE・A・ポーや、ボードレールのような幻視者が、
最も知的な内在的批評を書いているのも
大きく見渡せば、こういった文学の蠕動運動の流れの中にある。
日本の戦後派文学では「詩と論理の婚姻」(埴谷雄高)なんて言葉も、ありましたね。


■何らかのヴィジョンを持った「物語」は、
生存と成長には必要だ。
しかし、その信念体系は、一種の作業仮設に過ぎない。
やがて時が到来したならば、ヤドカリさんは、耐用年数を過ぎた〈殻〉は脱ぎ捨て、
新たな説得力や、斬新なデザインの〈殻〉を見つけたり、
自ら、Do It Yourselfで、創出したりする時期が、やってくる。

いわば、精神における絶対志向と、その相対化の絶えざる交替劇。
ある種の〈神話〉が病的に肥大し過ぎると、精神の糖尿病にも、肝硬変にも、なりうる。
ファナティックな声が高まり、ファシズムにもつながってゆく。
そこから、自己批評や、自意識の問題、
幻想の相対化、イロニーという発想も出てくる。
進化というものがあるとするならば、そのすったもんだの試行錯誤にしかありえない。


■さまざまな過誤を通して試行錯誤する…。
しかし、少なくとも、
同じ癖のついた悪しきループは、繰り返さない…。
個人的にも、集団や国家の歴史レベルにおいても…。

なにも、わざわーざ、好きこのんで、
狭くて、暗い〈殻〉の中には、もぐり込まない。
それが生きものの、生存の知恵。
そこに、わずかながらの希望があると思います。


まあ、最近の世の中では、
吉本隆明(共同幻想)や、岸田秀(唯幻論)や、鮎川信夫(疑似現実の神話剥がし)、蓮実重彦(物語批判/制度批判)などが、
まるで日本の言説空間に存在しなかったかのような、
物語批判、幻想批判のない論理が、声高でまかり通るのを、呆然と眺めていましたが、
そろそろ、こんな暑苦しい風潮から目を覚ますのも、潮時のような気もしますねえ。


でも、人間て、
人間の歴史って、
くだらないループを、同じ模様のループを、
"内心忸怩たる思い"のまま、繰り返すもんですね。
「わかっちゃいるけど、ヤメラレナイ」
これも、業、というもんですかねえ……。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■下では、同じような「物語と批評」ネタで、
なぜか立川談志の落語をイジッてます。

カプリチオ掲示板
https://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs

 

了解

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2018年 8月31日(金)17時10分33秒
  > 鎌田さんの書き込みは、いつも傍観者的ですね。当方は義憤を書いているのです。それに共鳴してくれるのでなければ書き込みの意味はないです。

よくわかりました。
共鳴するのでなければ書き込みの意味はないとのことですから、潮時でしょう。
 

人間の歴史における過誤

 投稿者:管理人 iPad 1957  投稿日:2018年 8月31日(金)16時19分49秒
編集済
  〉憲法とか法の下の平等とか集団訴訟とかを持ち出すのは、話が飛躍し過ぎのような。

   鎌田さんの書き込みは、いつも傍観者的ですね。当方は義憤を書いているのです。それに共鳴してくれるのでなければ書き込みの意味はないです。一般的なコメントはこの板の読者はとうに周知のことです。(この件についての個人的な自己弁護は無用です)。

   当方は、次号の特集のことで頭がいっぱいですが、あの戦争の時代を考えると人間の歴史の過誤、人間の行動の愚かしさに思い至っています。特に、「信じる」「信念」というものの愚かしさに想到しています。デカルト以来、「考える」とか、「感じる」という人間の営みについては考察があるようですが、一つ「信じる」という営みについては言及がないそうです。このことは池田晶子の本で垣間見ましたが、確かに戦時中の八紘一宇だとか、滅私奉公、大義などや、近くはオウム真理教など、皆、信念とか、信仰という過誤によるものだと気付きました。
    さらに、キリスト教やイスラム教など、いわゆる人類史における宗教の意味も、池田氏の考えに共感し、ひとりの得度、入信ならともかく、集団的な宗教活動は、全く人類の過誤かと認識するようになりました。(池田晶子『メタフィジカルパンチ』文春文庫)。
   戦時中、杉本五郎という殉死した陸軍兵士の『大義』という、国粋主義・滅私奉公の著作が売れたそうですが、こんな思考のない、凝り固まった「信念」の本が大売れするほど、この国は思考停止していたのですね。
    大事なのは何が問題なのか、いろいろ読んで見て漁って、そしてどうするか考察することです。いみじくも、池田氏が引用しているように、小林秀雄は、「一つの意匠を信用し過ぎないために、寧ろあらゆる意匠を信用しよう」と『様々なる意匠』の最後に書いていますが、この姿勢がいま大事なのではないでしょうか。(この小林の言葉は、40号、拙論にも引用しております。p85下段)
 

生活の背景

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2018年 8月31日(金)01時58分9秒
編集済
  この女性の場合、生活保護を申請すれば受理され、十三万円と六万円の差額の七万円と医療費と介護費用が(アパートのようですから、家賃も支給限度内で)支給されるはずですから、何か事情があるのかもしれませんね。

生活保護を受ける場合、財産に関して審査と指導の基準が決まっていて、基準以上の財産は処分することになります。仕事の関係で、生活保護を受けながらの生活を数多く見てきたものですが、それはそれでなかなかのようでした。

生活の背景については、お金の出入りだけでは見えにくいところでしょう。

憲法とか法の下の平等とか集団訴訟とかを持ち出すのは、話が飛躍し過ぎのような。
 

月六万円の生活は、憲法以前。

 投稿者:管理人 iPad 1863  投稿日:2018年 8月30日(木)17時37分20秒
編集済
     一日300円の食費というが、日々の生活、食事だけではすむはずがない。日用品や雑貨も購入する必要があろうし、たまには下着やタオルなども新調する必要がでてこよう。月六万円で、家賃や電気代、介護料など差っ引くと一万円しか残らず、それが食費だというのだが、娯楽教養費などの分はないのか。それとも85歳の年寄りにはそんなもの不要だというのか。この老人には、憲法で保障されている(はずの)健康で文化的な最低限度の生活、は保たれていない。この国はアフリカあたりの発展途上国かー。 月六万というと、年に72万円か。172万円ではないのだ。

    若い人ならまだいい。未来があるから。たしかに希望が見出せない青少年にとっては、彼らも日々が辛いものになろう。しかし、身体がしっかりしていれば、何とかなるものだ。問題は高齢者の場合だ。このおばあさんは、まず第一に健康なのか。おそらく医者に行ったことはこの数年ないのだろう。それにしても、彼女は天涯孤独の身ではない。結婚して、子供も二、三人いるそうだ。離婚した旦那は何かの身障の事情があったのか生活保護を受けられたそうだ。月に13万円だかの支給で、彼女の倍以上の収入となる。生保を受給できるか否かで、天地の差である。これはもう、法の下の平等に、もとるのではないか。
   この際、こうした低所得にあえぐ人々が手を携えて、最低限の生活保障を求めて、集団で司法に訴えたらどうか。然るべき支援者がそうした訴訟の手伝いをしてやれればいい。しかし、小職みたいなものが板に書いて初めて気づくのだが、過去にこうした訴訟はなかったのか。確かに、訴訟などは、公害など被害・加害などの責任問題、事件性が必要なのかもしれぬ。だが、月六万の生活は明らかに、このまま放っておくべきものではない。
 

金持ちと貧乏人

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 8月30日(木)12時45分49秒
   宮沢賢治は「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」といって質素な食生活を奨励していたようですが、かれはかなり裕福な質屋の倅だったと思います。
 金がありながら質素な生活と金のない状態の質素とはまた意味合いが異なってきます。

 管理人様が貼り付けられた老人の方たちの生活はやるせない気持ちにさせられます。
 おそらくこの映像を見た心ある視聴者からは寄付や援助の申し出が番組あてに多数あったと思いますが、取り上げられたのは氷山の一角で、困窮している人々はあまたいると思われます。

 社会的大問題として捉え、何が悪いかということになると政治が悪い、オリンピックなんかやってる場合か竹中平蔵に責任がある、

 ということになってきますが、政治家には仁徳天皇さまが庶民の家々から竈の煙が立ち上るのを見て満足されたような気持ちをもっていただきたいと思うのであります。

 しかし、いくら善政が敷かれても、貧富の差というものは皆無とはなしがたく、共産主義社会を築き上げても特権階級が出現してしまうというのは人間の本質から来ていると思います。

 金というものも法則の中に動いているようで、金の集まる場所というのは、

 明るいところ、にぎやかなところ、感謝する人のところ、良く笑う人のところ、良く働く人のところ、勉強好きの人のところ、素直な人のところ、人を受け入れてくれる人のところ、

 要するに人が集まりやすい場所にはおのずと金が巡ってくるようです。

 毎年おかげ参りをして伊勢に参りますが、あそこは年がら年中参拝者が押し寄せて、おかげ横丁は拡大充実する一方でありますが、USJやTDLのようなamusementがあるわけではないのに人が集まるというのはそれなりの理由があると思います。

 こういうことは、船井幸雄さんの著書などから学びましたが、
 わたくしも、ご飯に納豆をかけて、具のあまり入ってない味噌汁さえあれば満足してしまう人間ですから、もう少しハングリーになって金をかき集める根性をもつべきだと思います。

 外国の金持ちはノーブレスオブリージュ: noblesse oblige の責任観念から多額の寄付をする慣習があるようですが、

 日本の金持ちも困窮する人々に寄付・援助をして、かつ金の集まる法則も伝授して皆が幸福になれるような社会にしていくべきだと思います。
 

作家たちの生没年

 投稿者:管理人 iPad 1762  投稿日:2018年 8月29日(水)19時30分20秒
編集済
  時代の寵児      プロレタリア・転向作家      戦争文学作家      大家たち     詩人      批評家・思想家の順、です

太宰治1909-48 小林多喜二1903-33 石川達三1905-85 谷崎潤一郎1886-65 萩原朔太郎1886-42 小林秀雄1902-83

坂口安吾1906-55 村山知義1901-77 火野葦平1907-60 志賀直哉1883-71 中原中也1907-37 和辻哲郎 1889-60

堀辰雄 1904-53 武田麟太郎 1904-46 和田伝1900-85 永井荷風 1879-59 伊東静雄1906-53 保田與重郎1910-81

永井龍男 1904-90 島木健作 1903-45 上田広 1905-66 徳田秋聲 1872-1943 金子光晴 1895-1975 三木清 1897-1945

井伏鱒二 1898-1993 中野重治1902-79 榊山潤1900-80 横光利一 1898-1947 大木惇夫 1895-1977 折口信夫 1887-1953

檀一雄 1912-96 北条民雄1914-37 日比野士朗1903-75 川端康成1899-1972 神保光太郎 1905-90 柳田國男 1875-1962

川口松太郎1899-1985 佐多稲子1904-1998 棟田博1909-88 島崎藤村 1872-43 三好達治 1900-64 亀井勝一郎 1907-66

伊藤整1905-69 宮本百合子1899-1951 岩田豊雄1893-1969 正宗白鳥1879-1962 高村光太郎 1883-1956 花田清輝 1909-74

田中英光 1913-49 高見順 1907-65 丹羽文雄1904-2005 野上彌生子1885-1985 室生犀星 1889-1962 唐木順三 1904-80

木山捷平 1904-68 林房雄1903-75 林芙美子1903-51 内田百閒1889-71 斎藤茂吉 1882-53 河上徹太郎1902-80

中島敦 1909-42 岸田国士1890-54 尾崎士郎1903-64 岡本かの子1889-39 萩原恭次郎 1899-38 中村光夫 1911-88
 

昭和8~20年の作家・詩人・批評家

 投稿者:管理人 iPad 1623  投稿日:2018年 8月28日(火)15時52分10秒
編集済
     次号の特集となる〈昭和8~20年〉の文学者を、年表から拾ってみました。六つのグループに分けてみました。

・《時代の寵児たる作家たち》
   太宰治  坂口安吾  織田作之助  田中英光  檀一雄   木山捷平  中島敦   堀辰雄  伊藤整  石川淳  内田百閒(「長春香」)  岡本かの子
・《旧プロレタリア・転向作家》
   中野重治  島木健作  武田麟太郎  佐多稲子  高見順  村山知義  宮本百合子  北条民雄
・《戦争文学作家と代表作》
   石川達三「生きてゐる兵隊」 尾崎士郎「悲風千里」 火野葦平「麦と兵隊」「陸軍」  上田広「黄塵」  榊山潤「歴史」
   日比野士朗「呉淞(ウースン)クリーク」 林芙美子「北岸部隊」  棟田博「分隊長の手記」 丹羽文雄「海戦」   岩田豊雄「海軍」
・《大家たち》ー19世紀生
   志賀直哉  島崎藤村  永井荷風  徳田秋聲  谷崎潤一郎  横光利一  川端康成  山本有三  井伏鱒二  室生犀星  野上彌生子
・《詩人たち》
   萩原朔太郎  高村光太郎  中原中也  三好達治  金子光晴  大木惇夫  神保光太郎  伊東静雄  村野四郎
・《批評家・思想家》
   小林秀雄   河上徹太郎  和辻哲郎  保田與重郎  三木清   折口信夫  柳田國男  亀井勝一郎  花田清輝
   唐木順三  林達夫  竹内勝太郎  竹内好

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