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41号原稿募集要項、いま一度

 投稿者:管理人 デスクトップ 9368  投稿日:2018年10月21日(日)12時57分7秒
編集済
   締め切りを少し伸ばして、11月10日までとしましたが、あらためて原稿募集要項と特集アピールを再掲出しておきます(改訂版)


「群系」次号(41号)原稿募集要項
                              2018.9.7.「群系」編集部

原稿種類  評論・研究、創作・小品、エッセイ、詩、音楽論・絵画論、評伝、メディア論等。複数投稿可(3部まで)。
 なお、《読書ノート》《音楽ノート》《映画ノート》(各1~2頁)や、政治的・社会的テーマのコラム(1~4ページ)も歓迎。
枚 数   基本的には自由(1ページは25字詰め×23行×2段=1,150字)。
  *タイトル分25字×8行×2段=400字、(1頁物は25字×5行×1段=125字)が入ります。
締   切    2018年10月20日 → 11月10日
提出先  群系編集部     メールアドレス  uf2gmpzkmt@i.softbank.jp
                   (なお、従来からの、snaganofy@siren.ocn.ne.jp  でもok です)。
  ※ 郵便の方は、既刊号奥付の江東区・永野悟宛てにお願いします。
発行部数   450部(従来通り。但し総ページは250pに抑えたい)
配布冊数 掲載ページ+2冊(原則)
発 行  2018年12月中   合評会 2019年3月の日曜日・祝日を予定
41号発送先  群系同人(会員)ほか、図書館・マスコミ他、研究者・評論家など

特集企画
《特集Ⅰ》日本近代文学の逼塞ー昭和戦前・戦中の文学
     (下のアピールを参照ください)。
《特集Ⅱ》野口存彌と日本近代文学ーそのⅢ
   野口氏著作所収の論文から、その対象作家・詩人などを紹介・解題いただければと思います。
   以下の著作の文学者の解題が今回求められています(既刊号取り上げ作家は除く)。
  『野口雨情 詩と人と時代』―児玉花外、中村有楽、
  『大正児童文学―近代日本の青い窓』―鈴木三重吉、北原白秋
  『文学の遠近法』―中里介山、平出修、加藤一夫、坂口安吾、葛巻義敏
  『詩的近代の生成―明治の詩と詩人たち』-上田敏、永井荷風、川路柳虹、岩野泡鳴、
  『太宰治・現代文学の地平線』-太宰治と菊田義孝、武田泰淳、藤枝静男、倉橋惣三
  『昭和の三人の女性作家』(九月下旬発刊予定)―大田洋子、森茉莉、佐多稲子
《特集Ⅲ》童謡百年
  今年は大正7年(1918年)7月に、『赤い鳥』が創刊されて、ちょうど百年です。
今回、童謡や唱歌、広く子供歌に関するエッセイ(1~4p程度)、童謡の鑑賞文(1p・千字)を募集します。
 参考図書『日本の童謡』(學燈社 平成16年臨時増刊・勝原春樹氏ほか編
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sangatu/zokki/gakutosha.htm

          その他、いつものように、自由論考、創作なども、もちろん募集。



次号の第一特集について(アピール)

《特集Ⅰ》日本近代文学の逼塞-昭和戦前・戦中の文学

  次号「群系」41号の特集Ⅰは、今まで以上に難しい。昭和8年~20年の期間が範囲で、タイトルも《日本近代文学の逼塞-昭和戦前・戦中の文学》とやっと落ち着いた。今まで《日本近代文学の終焉》だとか、《日本近代文学の崩壊》と仮題していたが、終焉とか崩壊では、何か予定調和的でふさわしくないとの意見があった。苦心?の末、逼塞となったが、この時代の特徴が少しは表象されているだろうか。
  確かにこの時期は〈逼塞〉という語に表れるように、政治社会のめまぐるしい変転とそれを反映するかのように文学も変容甚だしかった。まず昭和8年は、満州国建国に端を発して国際社会の非難が集中し結果日本は国際連盟を脱退した。これが後々の国難に繋がるのであったが、実際唯一の組織的抵抗体であった共産党が多喜二虐殺、佐野・鍋山の転向声明があり、京大滝川事件も起こった。国際的にもナチスが政権を掌握したのもこの年だった。
  文学は、あれだけ威勢があったプロレタリア文学が弾圧と内部からの変質で転向文学となり、昭和12年の日中戦争勃発以降は、いわゆる戦争文学が描かれるようになった。石川達三の「生きてゐる兵隊」を嚆矢として、日比野士郎、上田廣、榊山潤、棟田博らがいわゆる従軍体験、あるいは報道記者として、戦場ルポや戦場小説を書いていった。が何より特筆すべきは火野葦平による「麦と兵隊」の大ヒットだろう。徐州戦を兵士の立場で描いたこの作品は銃後国民に大受けし、映画化もされ、以降いわゆる兵隊三部作と繋がった。
  軍部からの要請で現地に飛ばされた作家もいたが(丹羽文雄「海戦」など。マダム物を描いていた丹羽は懲らしめで飛ばされた)、自ら進んで現地に行った作家もいた(林芙美子「北岸部隊」)。しかし、文学者たちが集って中国の戦地に行った(文春が派遣したいわゆる〈ペン部隊〉など)のは、戦後、文学者の戦争責任追及のやり玉に挙げられるものであった)。
 その日中戦争に応召中の火野葦平が芥川賞に選ばれ、昭和13年3月小林秀雄が「文藝春秋」特派員として杭州まで行って授与した。この同じ年2月、先の石川達三の「生きてゐる兵隊」掲載の「中央公論」(3月号)が発禁になった。いわゆる南京虐殺を描いて皇軍兵士を貶めたということだが、この石川は昭和10年の第一回芥川賞に、ブラジル移民のことを描いた「蒼茫」で授与されたばかりの新人気鋭の作家だった。

  さて、この時代の大きな特徴としては思想的な右往左往があったことだろう。左から右まで、転変が激しかった。太宰治を例にとれば、初期には共産党の細胞としてそうした左翼作品を書いていた太宰だが、後には、例の『日本浪漫派』の同人になったりしている。その『日本浪漫派』は、主筆の保田與重郎や、亀井勝一郎などが日本の伝統文化への思い入れから、数多くの日本回帰の作品を書いた。これは大正から昭和初期までの欧化主義への反発でもあって、この欧化から日本への回帰は、その欧化主義の旗手であった小林秀雄さえ、仏文学の紹介から、「無常といふ事」など、日本古典に沈潜した作品を書くようになった。
  そうした中、自らの感受性を中心に文学形成をしていったのが堀辰雄であろう。また、谷崎潤一郎も「細雪」が発禁になりながらも描いていったし、川端康成も「雪国」を何度も改稿している。さらに先に出した太宰治や坂口安吾、石川淳、檀一雄といった作家たちは戦後にその生き方に注目されたように、戦時中からその文学を形成していったものである。
  もう一つ大きな問題としてあったものは、いわゆる〈近代の超克〉の議論であったろう。これは雑誌の掲載としてはそれとして結果が出せたものではなかったが、表題のように、欧米を中心とした〈近代〉に対する反措定として、それなりに意義があったものと思われる。

  この敗戦までのこの国の〈逼塞〉した文学・思想のありようを点検することは、〈近代〉を突き抜けた21世紀の現代の、この無思想・脱文学のゲル化したこの国の状況を考えるのに大いなる示唆をもたらしてくれるのではあるまいか。
 
 

「群系」41号の入稿状況

 投稿者:管理人 iPad 9330  投稿日:2018年10月21日(日)09時51分7秒
編集済
    「群系」次号(41号)の原稿が集まりつつあります。現在常連の投稿者など数稿が来て初校ゲラも出ています(うちいくつかは初校戻しもあって、龍書房へ返送)。

     第一特集については、下の方でご報告。
     第二特集の《野口存彌と日本近代文学》の第三回は、予定されていた野口著『昭和の三人の女性作家』(武蔵野書房)が版元の不都合で今回刊行されなくなったので、他の入稿も少なく特集にはなれない見通し。
    第三特集の《童謡百年》も、編集部の呼びかけ不足もあり、やはり特集として成り立つか微妙なところ。でも、百年に一度のことですので、少し外部にも働きかけようか、と考えています。
     自由論考は常連の方はじめ、大方入稿済み。
     創作は今回、一つだけの予定。(せめてもう一つは欲しい)
    その他、《ノート》や書評、紹介、コラムもいくつか予定。《読書ノート》や《映画ノート》など、1ページ(千字)のもの、いまからでもいかがですか?


    今回、メールでの投稿確認が当方の怠慢で出来なかったので、特集については、以下のように不確定な部分もありますが、逆に嬉しいことに新人の方お二人などがきています。

   第一特集《日本近代文学の逼塞ー昭和8~20年の文学》の入稿状況
・入稿済み、あるいは投稿される見込みのもの(順不同)
小林秀雄、保田與重郎、和辻哲郎(続)、太宰治、林芙美子、田中英光、村山知義・島木健作、
永井荷風、川端康成、島崎藤村、三好達治、高村光太郎
・返信はまだないですが、投稿が期待されるもの
坂口安吾、小林多喜二、佐多稲子、中野重治、火野葦平、志賀直哉、横光利一、内田百閒、
中原中也、室生犀星、折口信夫
・今回、投稿が難しいとされたもの
堀辰雄、木山捷平、宮本百合子、岡本かの子、唐木順三、など(どなたでも、書ける方はぜひ!)
・その他、問い合わせしていないが、特集に適した作家・詩人(2ページでもいかがですか?)
井伏鱒二、檀一雄、伊藤整、武田麟太郎、北条民雄、高見順、岸田国士、石川達三、丹羽文雄、
徳田秋声、正宗白鳥、野上弥生子、谷崎潤一郎、萩原朔太郎、伊東静雄、神保光太郎、三木清、
亀井勝一郎、河上徹太郎、など。

   2~4ページでもいいので、書ける方はよろしく。突然の入稿でも歓迎ですが、見通しがついた時点で、一度当方へご連絡いただくと幸いです。
     送り先   uf2gmpzkmt@i.softbank.jp

   今年中の発行をめざしますが、版元の処理がテキパキしているので、入稿締切を少し延ばして11月10日までとします(駆け込みになると大変なので、出来た方から順にお送りください。今なら、二、三日中に初校ゲラが送れます。初校はPCのWord添付で送りますが、初校戻し以下は郵送になります)。
  https://9301.teacup.com/douzinnnzassi/bbs/2044
 

ショートカットのツケが廻った

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年10月20日(土)21時19分4秒
編集済
  ■問題は、小川榮太郎自身が、
安倍晋三を賛美して、はじめて著作家としてデビューできたという苦い現実にあるのでは――。
そして、世間やマスコミ、出版界の需要は、
文芸評論家としての彼のコンテンツではなく、ひたすら現政権へのオマージュ、賛美、熱烈な支持という
プロパガンダ要員の役柄だった。

そのとき、「小林秀雄」という、多少は本を読む連中を黙らせる権威的な名前は、ぜひとも必要だったし、
「小林秀雄を継承する文芸評論家」というイメージも必要だった。
なぜなら、
「日本の文芸評論を確立した小林秀雄を継承する文学者が、安倍晋三とその政治を支持している」という
疑似権威の"物語"が、現政権周辺に、必要だったから。

紛い物でもいいから、江藤淳や、渡部昇一の代役が、必要だった。
演壇の上で、もっともらしく、万葉を語り、古事記を語り、ブルックナーを語り、ドストエフスキーを語り、
三島由紀夫や、川端康成を語り、文学は小林秀雄に帰れと謳いあげ、
それから、文脈的に繋がりがあってもなくても、「國體」や「天皇」を語り、
個人の生命よりも崇高な国家の価値を語り、
その延長線上のまとめとして、
安倍政権の理想や意義への「期待」を、熱っぽく語る。
そして力瘤を作って「改憲」を語る。

ブルックナーも、三島もいいが、落とし込みは必ず、そこでなければならない。
麗々しい花束とライトに囲まれ、満場の拍手を得るような、そういう使い勝手のいい、文化的なキャラが必要だった。
それで少しは、安倍晋三やその閣僚メンツの「反知性主義」を覆い隠す、嬉しい効果もあるだろう。

メンドクサイ文芸愛好家などのツッコミは無視しても、
この"物語"は、政治的な講演会や、代議士や経済人の集まるパーティーでは、十分に使える。
どうせ、誰も、読んでやしない……。



■『小林秀雄の後の二十一章』に、小林論がないのに、
小林秀雄の名前を無理やりくっつけたようなタイトルをつけたカラクリも、
その辺の下心からだろうと思えてくる。
広告業界ではこういう商売の戦略を"ブランディング"といいますね。

>偉大な先人を継ぐと正面から名乗りを上げる人間が一人もいない情けない日本文学の現状を
全身全霊で告発したかったまでである。(小川榮太郎 同書のあとがき)

~とか何とかタイトルの言い訳を書いておきながら、
ズラリと並んだその後の著作の中身は、安倍政権御用達、官邸の御用聞きライター。
いかにも、官邸のオボエめでたくなるなるような、タイトルばかり。
じつに、なんという権力との癒着。
「情けない日本文学の現状を全身全霊で告発する」とまでハッタリをかますなら、
一冊ぐらいは、純粋な文学論としての「小林秀雄論」が、ありそうなものではないか!

そもそも、物書きが「偉大な先人を継ぐ」のは、あくまでも〈作品〉で証明することであって、
マイクやメガホンを使って、厚かましく「正面から名乗りを上げる」ことではない。

■少なくとも、江藤淳や、吉本隆明は、
言葉や、ポエジーや、美や、自我や、個人の内面を考え詰めて
(内面など、あるんだかないんだか、何が外部で何が内部だか、分からなくなっちゃうぐらいに七転八倒して)、
その試行錯誤と、暗中模索のあげくに、
はじめて、「国家」という概念に、突き当たったのではないか。
それまでは、自明であると思われた普通名詞としての「国家」が、
異様な姿に化けだして、
かつて誰にも語られなかった固有の思想のキー・コンセプトとして、立ち現れたのではなかったのか。


               *


■だから、杉田水脈をめぐるLGBT議論の動画の中での小川榮太郎の
自然ではない、異様に高飛車なもの言いも、
自分自身の初期設定の歪みの延長にある空虚な演技に見えてしまう。

実際、普段は
ああいう振る舞いなど、してないのではないかと思いますよ、このヒト。
ホモだろうが、オカマだろうが、飲み屋で隣に座ったら、
普通に、ニコニコ会話してるんじゃないの。
多くの平凡な日本のサラリーマンが、そうであるように。

役割上、カメラが回っている限り、「こわもての右派としてのペルソナ」を演じなければならない結果、
あんな、肩を怒らせた、ツッコミどころ満載の、
おかしな緊張感を醸し出してしまっているのではないか。

高橋源一郎の評は好意的だが、
表現や論法は、多分にアイロニカルで逆説的な印象を受けました。


~ようするに、
「歌を忘れたカナリア」になっちゃったんじゃないですか、
 エータローさん。



 

文藝評論家・小川榮太郎を救わねばならぬ

 投稿者:管理人 iPad 9220  投稿日:2018年10月20日(土)17時43分20秒
編集済
     小川榮太郎のことが話題になっている。しかし、あまりかんばしいことでないことで。《大波小波》のとりあげ方のトーンも皮肉になっているし、そこに取り上げられている武田砂鉄とやらからはほとんど人格否定までされておる(武田というものは、まるで正義の使者のつもりだ)。こんなライター風情のものに、せっかくの文学の感受性を損ねれられてはたまらない。武田はマスコミ論調は関心あろうが、文学を読まぬ「お花畑」の人権主義者とみえる。
    そもそも、小川が『新潮45』の依頼に応じて、あんなマスコミ的な・政治的な、いわば扇情的なものを書いたのがいけない。マスコミ的な事象しか関心がなく、人権や平和に反するものには敏感にいきりたつライター風情の好餌になるだけであった。(他にも、外野からは、小川の文芸批評も読まぬ、ネトウヨならぬ、ネトサヨの見るに耐えぬ罵倒の投稿が見られる)。
https://search.yahoo.co.jp/realtime/search?va=cycletrailer&ei=UTF-8&md=h&rkf=1&p=小川栄太郎

   小川榮太郎は、同人も、あの高橋源一郎も評価するように、きわめて感受性のある、分析力の鋭い、そして文学的な批評が書ける人物である。そして、彼が取り上げる作家・批評家を論ずる文章のあわいからは、彼のそれらの人に対する敬愛と、何より彼自身の文学へのこのうえない愛情を感じるのである。こうした逸物を、こうしたマスコミの嘲笑・漫罵の元に消し去ってはいけない。また、同様にネトウヨ同然の右派・情念的保守と同格に見てはいけない。小川ほどに、江藤淳、川端康成、水村美苗、ルソー、ドストエフスキー、を読み込んでいる書き手はいるか。フルトヴェングラーやカラヤン、バレンボイムを聴き込んでいるものはいるか。そこらのライターは聞いたふうなステレオタイプの人権論、平等論は口にするが(言葉狩りをする)、江藤や小林秀雄を読んだことがあるか。
    問題は、小川榮太郎の著作にあろう。愛を込めて?高橋源一郎が上げていたその著作を、そのままコピペしておこう。

『徹底検証「森友・加計事件」』『徹底検証 テレビ報道「嘘」のからくり』『最後の勝機チャンス』『天皇の平和 九条の平和』『一気に読める「戦争」の昭和史』『『永遠の0』と日本人』『国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント』『約束の日 安倍晋三試論』『小林秀雄の後の二十一章』『民主主義の敵』(杉田水脈氏との共著)『宣戦布告』(足立康史氏との共著)『保守の原点』(宮崎正弘氏との共著)

    誰に踊らされたか、当該の『小林秀雄の後の十二章』以外は、ほとんど時事的な(政治的な)テーマである。これでは、左派・リベラル派からの好餌になるのはしかたあるまい。師匠の長谷川三千子によるものか、その取り巻き、あるいはそのグループ・団体によるものか、へたな愛国・国粋主義を鼓吹するなら、その辺のチンピラにも出来る。小川榮太郎は、自らの凛質を見つめて、そうしたものから足抜けし、純文学の孤高な世界に入るがよい。あの江藤淳だって、そうした孤独な世界の仕事に身を捧げたのであるからー。(安倍礼賛は、その辺のライターに任せるがよい)。
 

嗚呼、そぉーゆーことか!

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年10月19日(金)22時55分24秒
編集済
  ■な~るほど。
これで、見えなかったところが見えて来た。
小川榮太郎は、『二重人格』のゴリャートキン氏か。

高橋源一郎の小川評、
笑わせて、泣かせる、関西系人情ドラマみたいですね。

また、ひさかたぶりの「政治と文学」祭りネタと、その謎解きの、
あっけなくも、ウラ悲しい、幕切れ……でもある。


               *


>正直にいう。おれは、小川さんのことを、「新潮45」論文のような文章を書く方だと思っていた。
だが、まるで違うのである。小川さんが「私の人生そのものである」という『小林秀雄の後の二十一章』
の中の小川さんは、ひとことでいうなら、「文学が好きで好きでたまらない、いい人」だ。
いや、小林秀雄と並んで、小川さんが深く敬愛する江藤淳に触れた文章では、「私自身の不器用な生き方にも通じる」とか
「だが、この人の野心、そして病ゆゑの焦り、しかし、もし假に、病でなかつたとしても、
焦慮の中で己の身を焦し、その焦熱の爲に自滅したかとさへ思はれる子規の人間の精彩と悲慘とは、どこか、
私の半生に重ならぬこともないやうである」とか
「私は、石村ら、文學の志を同じくする何人かの人間と商賣を始め、麹町の汚いビルに雜魚寢をしながら、
先の見通しもまるでないまゝ、文學をやる爲だけに、生にしがみついてゐた。見えない希望に齒を噛みながら力みかへつてゐた」と書いている。
小川さんの青春が透けて見えるような文章だ。
おれより十五も若くて、こんな純粋な文学青年がいたのかと思うと、ほんとに泣けてくる。他人事ではない。おれだって、小川さんと同じような文学青年だったんだから。江藤淳、勝海舟から、
ルソーにドストエフスキー、フルトヴェングラーから平野啓一郎まで、小川さんの文学愛が炸裂するような
重厚な文章がこれでもかと押し寄せてくる。
正直にいって、自分の文章に陶酔しすぎ、という側面が感じられないわけではない。でも、過剰なほどの文学への愛に免じて、おれは目をつぶるつもりだ。


■そして、核心部は、この次のくだりですね。
謎の珍生物の化石発見、進化過程のミッシングリンク。
そうか。
ナルホド。
『小林秀雄の後の二十一章』(5940円)が先ではなくて、
あのゴージャスな装丁の本は、
デビュー作『約束の日――安倍晋三試論――』を書いて、
安倍政権礼賛に貢献した結果のご褒美出版だったんだぁ。
これで、あのぶ厚い本の奇妙な違和感のすべてが、怖いぐらいに、スラスラと解けてしまう。

        ~嗚呼…。
         なんてこった!




>結局、この文章(新潮新人賞)は受賞を逃すのである。
 それから、小川さんが、どのように生きていたのかはわからない。

小川さんが、はっきりと姿を現すのは、それから9年後、2012年のことだ。
デビュー作となる『約束の日――安倍晋三試論――』(幻冬舎)をひっさげて登場し、以降、怒濤のように本を出し、
右派論壇の寵児となるのである。
その『約束の日』は、安倍晋三氏への愛に満ちた本だ。文学以外でも、こんなに愛情深く書くことができるのだ、
と思うと、なんだかおれは胸が熱くなった。
そして、この本は、安倍氏の政治団体が数千冊買い上げたことでも有名になった。


>そのことを、小川さんは、どう思ったろうか。
『小林秀雄の後の二十一章』のあとがきで、小川さんは、本が出来た由来について書いている。
「あれは、今から二年八ヵ月前、平成二十四年の十月のことだつた。
 忘れもしないその日、私は京都北山のコンサートホールで、クリスティアン・ティーレマン指揮
シュターツカペレ・ドレスデンのブラームスを聽いてゐた。山襞に美しい秋の陽が差すその幕間に、
電話が鳴つた。
 幻冬舍の見城徹社長からの御電話だつた。
『小川さん、色々評論を書いていらつしやるんでせう? もし宜しければ、うちから纏めて出しますが、
如何です?』
 望外のことだ。
 いや、望むことさへ無理だと思つてゐた私は、最初、見城さんの御申し出の意味が、殆ど理解できない程
だつたと言つていゝ。
幾ら何でも、私の文藝批評などといふ、時流と餘りにも交はらない仕事を本にしてくれる――いつかどこかで
必ず出したいとは思つてゐたが、全く當てはないのが正直な所だつたのである」
 平成二十四年十月というと、同じ幻冬舎から、『約束の日』を出した翌月だ。

>「色々評論を書いていらつしやるんでせう?」というぐらいだから、見城徹氏は、小川さんの評論は読んでもいなかったのだろう。
ということは、おれなら「これ、前の本のご褒美だな」と思う。
小川さんは、どう思ったのかな。そのことを考えると、おれはまた、胸がしめつけられるような気がしたのである。

>小川さんは敬愛する「小林秀雄の文業を繼ぐこと」を示すために、この本を作った。
だから、造本も、小林秀雄の『本居宣長』を踏襲している。それほどまでに、小林秀雄への愛は
深かったのだ。
そんな小川さんが、『本居宣長』も小林秀雄全集も出版している新潮社へ初めて寄稿することになった。




      .........。

     ああ、
     こっちの方が、作品よりも、「文学」だなあ~
     私小説だなあ。
     嘉村磯多だな~。

     ヤ、ヤバイ!
     いつのまにか、小川エータローが、
     感情移入を誘う、"登場人物"化、してしまっている。




 

小川榮太郎のことが「大波小波」に

 投稿者:管理人 iPad 9090  投稿日:2018年10月19日(金)22時10分11秒
編集済
     同人から、東京新聞のコラム「大波小波」の切抜きが郵送されてきました。早速プリンターのスキャンにかけたのですが、うまくPCに入力出来なかったので、そのコラム文を打って紹介しますね。

〉「反論」は通じるか
  『新潮45』10月号でにわかに名前を知られた小川榮太郎だが、Face bookで自らへの批判を「暴言」「恫喝」とした上で、「きちんとした文章」で反論するよう、相手の名を列挙した。その一人である武田砂金が『文學界』11月号の連載「時事殺し」で、応じている。小川の文章を「論と呼ぶに値しない」という武田は、自殺した電通社員と家族を標的にした小川の昨年の意見も例に挙げ、「言葉を返すことができない誰かを痛めつける文章を、無配慮に記す行為を許すことはできない」とつづる。
    高橋源一郎が『新潮』11月号に書いた「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」はさらに徹底的だ。かつて小林秀雄を論じた際の「純粋な文学青年」ぶりを知った高橋は、小川が二つの人格を持つと驚く。川端康成の『古都』論で十五年前に新潮新人賞の候補になったものの落選した事実も紹介。そんな因縁のある新潮社へ初めて寄稿した文章が、アレだったのである。全くイタすぎる。
   批判に開き直り嘲弄し返すばかりの小川に、果たして反論する価値があるのか極めて疑わしいが、高橋のように淡々と事実を書くことが、ある意味最も容赦ない反論だろう。どうせ聞く耳を持つまいが。(馬の耳)

                                       ◯

    武田砂金の文章は、乙部宗徳氏がFace bookで紹介しています。
    https://m.facebook.com/photo.php?fbid=1897716013645525&set=a.384017345015407&type=3&theater

    また高橋源一郎の文章は、以下に紹介されています。(何と新潮社のWebサイトだ)。
http://kangaeruhito.jp/articles/-/2641

  ※  この文章はなかなか本質をついていたように思います。なによりもあの源一郎氏が(天龍ではないよ)、こんなにも長い文で、文藝評論家・小川榮太郎を寿いでいるのですから。草原君も書いていたように、『小林秀雄の後の十二章』はなかなかのものでした。これらに集中して、ヘタな雑文を書かなければよかったのに、と思うのは当方だけでしょうか。(馬の骨)
 

何が江藤淳とちがうのだろう?

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年10月19日(金)12時10分32秒
編集済
  ■やはり読みもしないで勝手なことを言っているのはよろしくないので
『小林秀雄の後の二十一章 』小川榮太郎を読んでみた。

この博識な著者による本書は、政治的通俗性と、体質そのものに根差した文学愛との混合した、奇妙な評論集だ。
一貫した主題で構想されて書かれた評論というよりも、
折々に断発的に発表された批評文が集められ、
それをこのタイトルで括った模様である。

この本で引用され、言及される作品が、日本古典や、日本近代文学、
西欧文学からクラシック音楽までと、広汎だが恣意的で、バラバラな印象を与えてしまうのは、そのためか。
そこで統一性として「国家」、あるいは「(象徴としての)小林秀雄」を持ってきたのだろうか。
この本では、本文でそれほどに語られてはいない「小林秀雄」の名が、
政治的主題の毒気を覆い隠す、借りて来た〈印籠〉のように使われているようにも思う。


■しかし、著者(および編集者)は、政治色の強い序文や、最初の章を導入部にしてしまうことで、
ある種のタガを、限定枠を、設定してしまっている。

>戰後七十年目の國體論――日本の守るべき「ぎりぎり」について
>靖國で歌つた「君が代」

の二つの文章がそれである。

文芸評論を読もうとした読者は、最初から「国家」「國體」「国家像」という語彙の連発で鼻白む。
靖国を語ることが悪いのではなく、君が代を語ることが悪いのでもない。
その感動のあり方が、あまりにも型通りなのだ。
序文でも、安倍晋三へのヨイショをし、岸信介の再評価に言及するあたり、
情勢へのある種の媚びのようなものが感じられてしまう。
どういうわけか、国家を語ってる部分は、スローガン的であり、空転しているようにも思われる
ただし、個々の作品を語っている批評文には読み応えのあるものがある。

               *

■例えば、「日本語といふ鬼と偉さうな男たち――水村美苗『日本語が亡びるとき』熟讀」は、
水村の思考の射程を論じ、かなり読ませる。
小川は『日本語が亡びるとき』のモチーフとなっている日本文学と日本へのアンビバレンツな想いに共感しつつ、
文学の価値の再確認をはかる。
この姿勢は十分に納得できる。

ただ、ここで水村を持ち上げる前座として、柄谷行人を矮小化しているが、これはどうなのか。
というのも、私の小川への違和感がここに起因しているような気がするからだ。
それは、それぞれの著者の好き嫌いというよりも、
少なくとも柄谷では徹底されていた「自明とされたものへの懐疑」ということが、
この著者には、いささか欠けているように思うからだ。
(これは本書を読む以前、動画を見た時点にも感じた印象である)

小林、江藤、吉本、柄谷には、借り物ではない何らかの垂直軸があった。
あるいは、すでに構造化し、マンネリ化したものの見方を、斜めに斬り裂く直観力の鋭さがあった。
小川は博識であるが、はたしてその文学的な垂直軸のようなものが、あるのかどうなのか。
日本文化と日本文学の本質として、しきりに「喪失」「亡びの歌」を言うが、
それは江藤淳や、保田與重郎の二番煎じではないか。


■また、世間的な話題ではなく、文芸批評の中で、
安易に「保守」「リベラル」などの言葉を、
自意識や自我などの語彙と同じ地平で、何のてらいもなく使えてしまう感覚、
それらの語彙を自明の前提として、さらに上層に論理を重ねていく思考のスタイルは、
どうなのだろうか。
この種の概念に対しては、一呼吸して、もう一歩下がった視点から、異化すべきではないのか。

                *

■下にリンクを張った、同性愛カミングアウト教授と、小川榮太郎が、
侃々諤々の喧嘩をしていた動画でもそうだったが、
LGBT、性的マイノリティを論じているさなかに、
いきなり大正時代の作家のように、
「たとえばベートーベンは…マイノリティだったが、その作品は普遍的であり…」というような、
今更のような大時代的な英雄崇拝的天才崇拝が出てきてしまうセンスは、ややナイーブ過ぎるように思う。
また、著書を読むとますます、"あらかじめ規定された「保守系文化人」"を演じているような胡散臭さは消えない。
文学を論じることは、それらの政治的社会的言説と、どのように地続きなのだろうか。
それとも、地続きではないのだろうか。

ただ、本書のトーマス・マン『ファウスト博士』や、
平野啓一郎『決壊』などの評は、かなり当たっているように思う。
唐突さに気後れすることなく、ドストエフスキー『死の家の記録』を論じるのもいい。
あまり論じられていない作品の価値、あるいは作家の資質の欠点を突くのは、文学鑑定家の芸の一つだろう。
川端、平野の資質の指摘は、正確なように思う。


■最後の大川隆法ふうの「靈界鼎談 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫」だが、
途中まで三島・福田・小林の会話が平板過ぎて、この結像力のない描写が延々と続くのであれば、
あえて会話スタイル、鼎談小説スタイルにすることもないのではないかと思った。
ところが、中盤から、ようやく三人の個性らしきものが顕れて来た。
これは、逆に編集者が、この後半のテンションを基準にして、
前半の生気に乏しい無味乾燥な何ページかを、まるごと書き直しさせるべきだったように思う。

               *

■おそらくこの文学鑑定家は、本質的には"中庸の人"であるのに、
無理矢理、「わかりやすい右派」を演じることになってしまった喜悲劇に、
今、襲われているのではないだろうか。
かつて、江藤淳が内発的な思考の結果として、保守系文化人となった状況とは違って、
保守系文化人の文芸評論家ポストが、
今、売れっ子作詞家プロデューサーと、関西お笑い系右翼小説家の隣に、一つ空いているので、
(実は、座らせたい人物はいないではないが、どうもこの"意中の人"は、良識が邪魔して躊躇しているようなので)
周りのお膳立てもあり、思わず座ってしまった……といってしまったら、これは邪推だろうか。

■しかし、もしそうであれば、それはそれとして、
それはそれとして、
どうして、『小林秀雄の後の二十一章 』のメインディッシュとして、
どっしりとした重量感のある「小林秀雄、その可能性の中心」のような濃密な論考がなかったのだろう。
水村美苗の著書を論じたエネルギーで、小林の核にあるものを掘り出してくれれば、それでよいのだ。

このまま『小林秀雄の後の二十一章 』というタイトルでは、やはり羊頭狗肉というか、詐欺というか、
トンカツ屋に入って、
ハンバーグや、コロッケや、てんこ盛りのキャベツは出てきたものの、
ビールは数杯飲んだものの、、
何故か、肝心かなめのトンカツだけがなかったような、不満と後味の悪さは、依然として消え去らない。


ただ、この著者が今後、
本格的な小林秀雄論、三島由紀夫論を書いたのなら、読んでみたいと思う。

 

共感出来る本

 投稿者:管理人 iPad 8970  投稿日:2018年10月19日(金)10時59分35秒
編集済
     適菜収の『問題は右でも左でもなく下である-時代への警告』(kk ベストセラーズ、1,300円・税別)が届いた。今までのこうした本では一番共感のあるものであった。タイトルにあるように、彼は右でもなく左でもない。いわば、下を一番憎む、正しい思索者なのだ。現実を正しく見ない、検証考察しない、プロパガンダに終始する政治とマスコミ、そして自称評論家たちー、彼らとそれに追随する国民。
「もうこの国は終わった」と嘆く著者の気持ちは、テレビ番組を見ればわかる。笑いもできないお笑い芸人、スポーツ礼賛。そしてワイドショーのいかがわしさ。そして肝心のことを報道しないニュース番組(真実は、よってネットサイトから知る。ネットは発信者が複数、多元化されている)。
参考例
https://m.youtube.com/watch?v=CruTsNe_xHk
https://m.youtube.com/watch?v=-HkfpLO3fuI

    とても簡単には本の内容をサミングアップ出来ないが、一部抄出してみよう。第一章末尾から引用する。

〉以上、①政治のシステムの崩壊、②自民党の崩壊、③近代の建前の崩壊、④言葉に対する信頼の崩壊に付いて簡単に振り返ってみたが、「じゃあ、どうすればいいのか?」と問われれば最初に戻るが「どうしようもない」としか言いようがない(中略)。
    大切なことは常に自分の正義を疑い、立ち止まり、世の中に迎合せず、答えを出さないことである。
    たしかにイデオロギーで判断すれば答えを出すのは容易だ。一部の左翼系メディアや学者は、安倍はナショナリストで排外主義者で戦前回帰を目論む軍国主義者だという。
「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」などと言う人間がナショナリストであるはずはないし、国民を騙しながら移民政策を進め大量の中国人を国内に入れようとしている人間が排外主義者なわけがない。戦前回帰どころか戦後体制を確立させたのが安倍である。普通に判断すれば、ナショナルなものの解体を図ってきたグローバリストでしょう。
   結局は、左翼も冷戦時代のテンプレートに乗り、ステレオタイプの批判をして生ぬるい世界で満足しているだけ。現状認識がまったくできていない。結局同じ穴のムジナ。構造改革もネオコンもグローバリズムも、遡れば左翼の発想でしょう。
    近代国家においては国民主権の建前があるので、権力の源泉は国民です。よって、権力批判はまずは国民に向かわなければならない。社会が腐っているから政治も腐るのです。しかし資本の論理により、メディアはそれができない。新聞の最大のタブーは購読者であり、テレビの最大のタブーは視聴者です。
     近代の政治の崩壊は食い止めることはできない。こうなると絶望するしかないが、考えてみれば、これたかだか近代二〇〇年の問題なのである。少し長いスパンで見たほうがいい。ー


     ニーチェ紹介者である著者は、その言葉を引いているが、いまは長くなるので、これは措く。しかし、彼の著作に、キリスト教の否定、小林秀雄の警告、というのがあったので、ちょっと見てみたい。

    https://9301.teacup.com/douzinnnzassi/bbs?
 

堤未果『日本が売られる』 2018年 10月 13日刊

 投稿者:管理人 iPad 8870  投稿日:2018年10月18日(木)18時56分17秒
編集済
     今日は、目の検査の診察が午後あった。相変わらず混んでいて、この先生は人気がある(白内障手術の執刀医)。視力検査もやらされたが、裸眼だと0.8くらいだが、矯正のレンズを付けると、1.2~1.0だという。半年後の予約をとって、帰路へ。
    夕方になって、電車は混んできた。たまたまシルバーシートの前の吊革につかまっていると、目の前の女性が当方を見て、席を譲ってくれた。見るとたいへん綺麗な若い人で、やや照れる感じの反面、やはりこちらは高齢者と見られたのか、と複雑な気持ち。でも席を譲るというとっさの行動に出たこの美人がゆかしくて、向こうに行った彼女の後ろ姿を目で追った。

                                       ◯

   さて、珍しく新聞を買ったので広げてみると、以下の本の広告が目に付いた。著者は、堤未香。例の『貧困大陸 アメリカ』(岩波新書)のルポを書いた、気鋭の国際ジャーナリスト、だ。

   広告にあったマニフェストの文を紹介しよう。(これらの言葉と、以下の目次で当方はここに書きたい衝動にかられた)。

    〉日本で今、起きているとんでもないこと。
       米国、中国、EUのハゲタカどもが日本を買い漁っている!

       水と安全はタダ同然、医療と介護は世界トップ。
       そんな日本に今、とんでもない魔の手が伸びている。
       水やコメ、海や森や農地、国民皆保険や公教育、食の安全や個人情報など、
       日本が誇る貴重な資産に
       次々と安価な値札が付けられ、
       叩き売りされているのだ。

堤未果『日本が売られる』  幻冬舎新書     860円(税別

〈目次〉
まえがき いつの間にかどんどん売られる日本

第1章 日本人の資産が売られる
1 水が売られる(水道民営化)
2 土が売られる(汚染土の再利用)
3 タネが売られる(種子法廃止)
4 ミツバチの命が売られる(農薬規制緩和)
5 食の選択肢が売られる(遺伝子組み換え食品表示消滅)
6 牛乳が売られる(生乳流通自由化)
7 農地が売られる(農地法改正)
8 森が売られる(森林経営管理法)
9 海が売られる(漁協法改正)
10 築地が売られる(卸売市場解体)

第2章 日本人の未来が売られる

1労働者が売られる(高度プロフェッショナル制度)
2日本人の仕事が売られる(改正国家戦略特区法)
3ブラック企業対策が売られる(労働監督部門民営化)
4ギャンブルが売られる(IR法)
5学校が売られる(公設民営学校解禁)
6医療が売られる(医療タダ乗り)
7老後が売られる(介護の投資商品化)
8個人情報が売られる(マイナンバー包囲網拡大)

第3章 売られたものは取り返せ

1 お笑い芸人の草の根政治革命 ~イタリア
2 92歳の首相が消費税廃止~マレーシア
3 有機農業大国となり、ハゲタカたちから国を守る ~ロシア
4 巨大水企業のふるさとで水道公営化を叫ぶ~フランス
5 考える消費者と協同組合の最強タッグ ~スイス
6 もう止められない! 子供を農薬から守る母親たち ~アメリカ

第一章と第二章で日本のなにが売られるか警告している。
日本のほとんどすべてが売られると言っていい。
そして第三章で外資に対抗するにはどうしたらいいか、という構成。

   発売後すぐに増刷し(5万部)、すでにベストセラーになっている。「日本はどうなるの?」という危機感を感じさせられた。問題の幻冬舎刊だが、保守派が言うような、日本万歳。が立ち行かなくなる、危機である。
   ちなみに、堤未香の父はあのジャーナリスト・ばばこういちだときょう初めて知った。夫は川田龍一。
 

子供はそれでも宝

 投稿者:管理人 iPad 8870  投稿日:2018年10月18日(木)14時10分28秒
編集済
      女子医大の地下にある食堂はうまくて安い。(外来棟3F にあるレストランは松本楼の経営でこちらは高い)。
    透析が昼過ぎに終わるとここへ来るのが毎回楽しみ。ハンバーグライスなどコテコテしてなくアッサリとして、惣菜も美味しい。焼き魚定食も、さわらや鯵、鯖の幽庵焼き(検索)というのがある。カレーライスも半カレーもあっていい。そこらのファミレスや定食チェーン店より上品だし美味しくて、少食の小生ですら全部残さず食べている。(ウェイトレスも感じいい)。

    でも昼過ぎの食堂は人がいっぱいで、家族連れも多い。そういう中で目にするのは、乳幼児だ。一眼で障害のある子かな、とわかる子もいる。ダウン症や、ニットの帽子を被った子。ま親は藁にもすがる気持ちでこの病院に来ているのだろう。夫婦で乳母車の子をあやす姿は、障害があってもいとしい我が子、という風がうかがえる。

    この女子医大は、腎臓病で有名だが、心臓病治療でも中核病院だ(榊原仟がいた)。60年代など、全国からこの病院を頼みに患者が来ていた。腎臓病治療も、透析や移植もパイオニアで、昔は保険がきかなかった頃、田畑を売ってまで透析治療に来ていた(透析に保険が適用されたのは、あの田中角栄の時だ)。病を持つものの気持ちがわかる医療者、政治家でいてほしいものだ。
 

政党支持率

 投稿者:管理人 iPad 8720  投稿日:2018年10月17日(水)15時24分26秒
編集済
      先の投稿で、社民党の支持率は1%と書いたが、実際はもっと低かった。驚くべきこと(?)

時事通信世論調査(5月11~14日実施)
無党派  57.7(-0.6)
自民   26.8(+1.5)
立憲民主 5.0(-0.1)
公明   4.4(+0.5)
共産   1.7(-0.7)
維新   0.7(-0.3)
国民民主 0.6(新規)
社民   0.4(-0.3)
自由   0.2(+0.2)
希望   0.2(-0.2)

   自民・公明の与党は合わせて31.2%だが、その他野党は全部合わせても8.8%だ。当然と見るべきか、統計がおかしと見るべきなのか。しかし、野党の支持率が1割に満たないのは野党のレベルを表すとともに、無党派と合わせて国民のレベルも表していようか。
   ちなみに当方は心情的野党支持だが、個々の政策では?もありえる。上のデータは、若い人で見ると、もっと無党派は多く、社民党などはかぎりなくゼロに近いのでは(憶測)。
 

「國文學」に代わる雑誌はないものか

 投稿者:管理人 iPad 8720  投稿日:2018年10月17日(水)11時38分49秒
編集済
      小川榮太郎ごときの本でも、一部では「これだけの文芸批評の本が、今時出版されたのは素晴らしい」と礼賛する声がある。ま保守派のサイトで言われていることだが、小生でもとりあえず、文芸批評!の本がこれだけかまびすしく取り上げられるのは、了としたい。
   しかし、だ。せっかくの文芸批評も、「色」が付いているのは、読む方も眉に唾をつけ見ていかざるを得ない。万葉集や宣長、そして小林秀雄に言及(いや言い添えか)するのも大歓迎だが、その奥には妙な「色」がある、すなわち、変な日本万歳だ。
    万葉や源氏、平家物語、徒然草、芭蕉等、また漱石、鴎外、など日本文学に言及するくだりは共感と啓発・刺激もあってほんとによかった(たまたま鴎外「最後の一句」に触れてあって青空文庫で読んだが、先だっての「大塩平八郎」、そして「堺事件」など、この文豪の多方面の関心に改めて感心した)。
    しかしだ、結局、著者小川榮太郎の言いたい究極は、日本国の礼賛、言えば大日本帝国は誤っていなかった、というところに行き着くのではないかー。
    ここでやはり、身共などが仰望するのは、かつての「國文學」「解釈と鑑賞」などの、ふつう!の文芸批評誌である。保守とか革新、とか関係なく、ふつうに作家・詩人が読みたくて、そのガイド・解釈、研究が読みたいのである(小生などの、文学関心は、この二誌によって育まれた、と言ってもよい)。

    iPadでいろいろなサイトを見ているといろいろ認識させられる。「右派」と「保守」は違うのだそうだ。前者は理想主義、後者は現実に立脚しているとの意見も。その点で言えば、小川榮太郎やその他、廃刊のきっかけになった「新潮45」の寄稿執筆者たちはさしずめ、「保守派」と言うことになろう。「右派」というのは、たいして検証もしないで、自分の認識をがなりたてる連中、すなわち「ネトウヨ」や、選挙の時の安倍万歳の若者たちのことを言おうか。

    前にも書いたが、論壇はこうした保守派でいっぱいである。逆に、左派・リベラルはどういう議論の展開がされているのだろうか。揶揄されているように、「お花畑の平和主義」のような論調では、言われているように、思考も見解もない(例えば、社民党の支持率が1%もないというのは驚くべきしんじつ!である)。左派は、もっとデカルトでも読むがいい(笑)。
   サイトを見ていると、若い論述者が多くそれらはほとんど保守派である。しかし、以下に引いた適菜収というのはちょっと変わっているので、Amazonで購入する仕儀にいたった。

『問題は右でも左でもなく下である-時代への警告』適菜収  (検索で出ます)

http://hibi.hatenadiary.jp/entry/20110820/1313824448
 

霊界の小林秀雄は、怒っている?

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年10月17日(水)06時01分48秒
編集済
  ■フランス象徴主義の影響の強い小林秀雄は、
マルクス主義やプロレタリア文学に抗して、
彼らのいうブルジョア文学的なもの、伝統的・歴史的価値や、
詩・芸術それ自体の内在価値を守った(頽廃やデカダンス的なものをも含めて)とはいえるけれども、
これはディフェンスであって、あえて小林自身が、政治的にふるまったわけではないでしょうね。

江藤淳も、初期のエッセイには、強く反ファシズム的な批判、戦争批判(『奴隷の思想を排す』『生きている廃墟の影』など)があるわけで、
いまはびこっている、なし崩し的で非合理な、真綿ファシズム的な現況を、肯定はしないように思います。
(もし、大川・小川の霊感商法ふうに、小林、江藤、三島に、霊界対談、鼎談をやらせれば。)


■要するにこれは、「天皇の政治利用」と同じ構図で、
小林じしんが政治的ではないのに、
小林・江藤を祀り上げて、自分たちに箔をつけたがる現代の右派の論客による
「小林秀雄の政治的利用」……ということなんじゃないですか。
いみじくも、坂口安吾は、小林をさして「教祖の文学」といった。

~まあ、読まずに語ること自体、よくありませんが。
(しかし、そもそも、この値段で、価値ある文庫本、いくら買えると思ってんだよ。
 近所の図書館にもないし。目次読んだら買う気が萎えるし。)

 

小林秀雄は政治的だったか?

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2018年10月16日(火)12時48分40秒
   小林秀雄が好きだった時代があった。文体に幻惑されていたのかもしれない。それまでの批評とは全く違っていてただただ魅了されていた。
 その小林がこのようなかたちで政治的に扱われるのは何か違うような気がする。彼は文学の中で日本の伝統と格闘したと私には思える。「国学」とは何ぞや?本居宣長から平田篤胤、水戸学など。
 「夜明け前」を読んでいると平田篤胤に心酔した青年たちが出てくる。怒涛のようになだれこんでくる西欧文明に対して何を武器に戦うのか・・・

 国学のことはほとんどわからないのだが、「天皇」と結びついての政治的な動きには危険を感じてきた。
 「一神教」の持つ巨大な権力と無謬性は負の遺産を多く残している。「明治維新」は間違いであったという
議論や著書も多く出版されている。不穏な世界情勢の中、わが国の近代を見つめなおす大切な時期に来ていると思う。小林の「本居宣長」を今一度読もうと思う。
 

標題の付け方ー巧妙

 投稿者:管理人 iPad 8490  投稿日:2018年10月16日(火)00時20分23秒
編集済
     『小林秀雄の後の二十一章 』は、たしかに肝心の小林を取り上げていない点で、〈詐欺〉とも言えましょう。小林秀雄をどう捉えているのか、と言う興味で、現物を見ずにamazon か何かの通販で購入した人は、実物をみて「ああ5,940円もしたのに」、とため息をつくことでしょう。要するにこの本は小林秀雄の研究書ではないのでした。一応文芸評論とはなっていますが、文明論・国家社会論、いえば愛国のカンパニアかもしれません。やはり小林秀雄自身をどう見ているのか、そのことはせめて序文なりで披瀝しておけばよかったかな。(師匠・長谷川三千子の文章は引用までされているのに)。
    大川隆法、のたとえは絶妙でした。(大川をなぞらえて、前に「天才バカボン」だと言った人がいましたが、くりそつ!)。
   しかし、今回の「新潮45」の寄稿、によって、この著者の名前が知られた、さらに、こうした僭称の標題でいろいろあげつらわれただけでも、戦略?的には成功したのかもしれませんね。(版元のホームページの宣伝文に、「小林秀雄の正統な後継者として名乗りをあげ」とありましたが、そうした自恃は本人もあるのでしょうね)。

    それにしても、版元の幻冬舎は近ごろすごいですね。今日雑誌コーナーの棚で発見したのですが、「小説幻冬」という文芸雑誌もあるのですね。「群像」や「文学界」といっしょに並べられていました。そのうち、小川榮太郎の名前もそれら有名文芸誌で見かけるようになるかも。?
 

大川隆法かよ!

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年10月15日(月)23時27分33秒
編集済
  >さて、この本は小林秀雄の名前を掲げているのに、
この批評家に関する文章は全二十一章の中になかった
(わずかに最終章の《霊界架空鼎談》に出てくるだけだ)。


■さっそくの情報、ありがとうございます。


               *


■それって、詐欺ですね。
どうも、Amazonの書評でも、丸谷才一のぱくりみたいな旧仮名と、
金のかかった装丁ばかりが絶賛されていて、
肝心の「小林秀雄を小川がどう論じているのか」が見えてこない書評ばかりだった。
https://8614.teacup.com/snagano/bbs/11859

目次をコピペした時点で、嫌ァ~な予感が、したのですが。
唯一出てくるのが、《霊界架空鼎談》?
大川隆法じゃあるまいし。


■日本文化を憂うるのは勝手だけれど、
小林秀雄の名前をメインで出すならば、
まず、小林の思想や批評やその文学の全体像(あるいは小林の諸々の文章の奥に潜む国家観や天皇観)を論じて、
江藤淳や、川端康成、三島由紀夫などの他の文学者や、
靖国、君が代、安岡らへと論を広げていくべきであって、
自分の国家観や文化論に、勝手に箔をつけるために「看板」として使用すべきではないのでは?

流行りの言葉で言えば、タイトルそのものが「印象操作」。
古代支那ふうにいえば、「羊頭狗肉」。
あるいは、
担当編集者が、後付けでつけたタイトルによる「炎上商法」の一種なのか…。

~あ、こういうことは、
 読まずに言ってはいけませんね。
 以下、自粛…。


 

『小林秀雄の後の二十一章 』小川榮太郎 / 著 について

 投稿者:管理人 iPad 8490  投稿日:2018年10月15日(月)21時14分27秒
編集済
  『小林秀雄の後の二十一章 』は稀覯本である。江東区の全図書館には置いておらず、隣りの江戸川区立の中央図書館にやっと一冊あった。むろんまず検索で確認したのだが、先に誰かが借りてしまわないかと多少気にしながら今日行ったら、まだあった。借り出すことが出来てホッとだが、このことはかなり残念な意味合いもある。要するにこういう文芸批評の本には誰も関心を持たないのだなあということ。保守派の批評家・論客であるが、彼が現代の日本の現状を憂えていると同じく、当方もつくづく残念に思った。
   さて、この本は小林秀雄の名前を掲げているのに、この批評家に関する文章は全二十一章の中になかった(わずかに最終章の《霊界架空鼎談》に出てくるだけだ)。それなのに、なんとおおけないことかと思ったが、それには〈あとがき〉に著者の言い訳があったので、まずそれを引いておこう。

〉標題の『小林秀雄の後の二十一章 』は僭称の非難を免れまいが、どう難じられてもいい、偉大な先人を継ぐと正面から名乗りを上げる人間が一人もいない情けない日本文学の現状を全身全霊で告発したかったまでである。無論、「小林秀雄」は一つの象徴で、私が継ぎたいのは、伝統と西洋との異質性に悩みながら、何とか日本の近代文学と思想を編み出してきた百年余りの文学史そのものであるのは、言うまでもない。(原文は旧漢字=正字、旧仮名だが、新字・新仮名にした)。

   ま、ここだけでも日本の伝統を継ぎたい想いが現れているが、とりあえず、その二十一章の内容を目次から引いておこう。版元の幻冬舎のHPからコピペする。


『小林秀雄の後の二十一章』小川榮太郎 / 著

この国の危機は政治や経済にあるのではない。
国語の空虚化、文学の衰退、すなわち、日本人の核となる精神の喪失こそが、最も深刻な危機である。
小林秀雄の正統な後継者として名乗りをあげ、文藝批評をとおして精神と言葉の再生に挑む、
真摯な野心にあふれた本格文藝評論集。

【目次】

戰後七十年目の國體論――日本の守るべき「ぎりぎり」について

《I》
靖國で歌つた「君が代」
日本の國家像、それ以前の話
江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』――或いは思ひ出さねばならぬ一番大事なこと
安岡正篤の「戰後」――その洞察の核心
川端康成の戰中日記
江藤淳『漱石とその時代』――明治の憂鬱
勝海舟『氷川淸話』――歴史を見通す眼
司馬遷『史記』列傳――古代、支那は文明であつた

《II》
石村利勝君の詩
ルソー『告白』――無私の精神と「近代」
ドストエフスキー『死の家の記録』――強力な生命力の発露
人、人、人――或いはストーカー、若きウェルテル、ビル・ゲイツ
カラヤンとフルトヴェングラーの《第九》
音樂と政治――ダニエル・バレンボイム試論
ティーレマンのブルックナー《第八》
ボストン美術館展を見る

《III》
平野啓一郎『決壞』――戰後レジームの「決壞」としての、
川端康成『古都』――亀裂と抒情
日本語といふ鬼と偉さうな男たち――水村美苗『日本語が亡びるとき』熟讀

《終章》
天上の序曲「もう何も言はぬ」の後に――靈界鼎談 小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫


    小林秀雄は正面からあげていなくとも、日本近代文学の正面からの批評家としてその後継者ともいえる江藤淳が取り上げられている。その問題意識、当該の著作の読み込み、そして何より文章などからも、著者は相応のレベルの文芸批評家といってよい。保守派だからといって、逆の立場からは読みもしないで揶揄、あるいは無視も多いようだが、それは文学をやる立場ではなかろう。特に誤解を招きやすい、冒頭の本文、〈靖國で歌つた「君が代」〉は、何よりも、日本の国の静謐な時空間を、あの昭和二〇年八月一五日、その正午に流れていたものに見出したというのは、含蓄がある。
    日本と言う国、その国柄を追い求める著者の目は、万葉集の愛惜にまで遡るが、同様に日本近代文学に至るまで、その本質はそのかそけきもの、繊細なものへの心情、いわば「朝日に匂う山桜花」(宣長)だというのは、この本の主調底音であろう。
    戦後空間、特に江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』を論じたところは、後に『落葉の掃き寄せ、一九四六年憲法-その拘束』にまとめらる江藤の占領期の検閲を資料を駆使し、思索した論考を、この時代のほとんど唯一のものとする指摘は、当方も共感できた(特に吉田滿の『戦艦大和ノ最期』のGHQ検閲前の初出形を論じたこの批評は意義深い。ーちなみに同人・星野光徳は、当時この作品を論じて当方も唸ったことがある)。いま、こうした占領期の言語空間を論じる批評家はいるのだろうか。
     序文に当たる、〈戰後七十年目の國體論――日本の守るべき「ぎりぎり」について〉は、本書のエートスをからげて表現したものといえ、主旨も、その文章も共感出来た(ここだけでも読むとよい)。また、ルソー『告白』、ドストエフスキー『死の家の記録』についても、よい読書体験の披瀝と思えた。

    ただ、当方からみて、國體、靖国神社・君が代がそのまま出るのにはやはり違和を感じる。どうして軍国主義の犠牲となった〈英霊〉を祀るといって、何の抵抗もなく、そうした言葉や場所が出てしまうのか。著者小川榮太郎は、阪大を出た後、あの長谷川三千子がいた埼玉大学大学院に行って弟子入りしている。そうした筋金入りの国粋主義者に初めから心酔するのは、「真理」を探る(デカルト)ものとしては、方法的に良いとは言えないのではないか。
    (そも、保守党の議員始め、靖国参拝するのは、英霊慰安のための衷心からというのだろうが、どういう戦争で死んだのかいう事実、その基本を考える発想が抜け落ちているのではないか)。

    そういう根本的な違和はあるが、本著作の主張・命題は共感するところが多かった(いくつか読んだだけでも)。まだ読んでいない章も瞥見はしてみたい。
   しかし、こういう文学的な発想、捉え方は、こうした保守派ばかりで、いわゆるリベラル、左派からは、こうした文学的な文章を目にしない。やれ、権利だとか自由とか、人権とは言っても、人間や社会、歴史の微妙なあわいに言及するものはあまりない。魂に響く文学表現にまで練り上げたリベラル作家は昨今、いるのだろうか。戦後文学はそういう視点がしっかりあったのに、戦後七〇年も経て、著者が言うように(嘆くように)、この国の言語空間・精神風土は、すっかり変容した。その嘆き、は当方ならずとも、多くの人に共有されるところだろう。

※ ちなみに、小川も論考を寄せている、『新潮45』も図書館で読んだ。例の、「生産性がない」ということで非難を浴びた杉田水脈を擁護する論文がいくつかあったが、藤井信勝はじめ論旨はそうおかしいものではなかった。むしろ、〈言葉狩り〉に走るこの国の論壇を指摘しているのはその通りの気がした。弱者の人権を盾にすれば、それに抗することが出来ない、国民の目をうかがって、きちんとした議論が出来ない、という趣旨はその通りではないか、と当方でも思った。(当の新潮社は慮って、この雑誌を廃刊させたが、メディアの空気は何かにおもねるばかりで、本質の議論を避けている気がした)。
   しかし、雑誌コーナーを見ると、保守系雑誌は、その他に、「正論」や「WILL」「Voice」「文藝春秋」「週刊新潮」「SAPIO」「月刊日本」「諸君」「発言者」、さらに「Hanada」まであって花盛りだ(それに比べ、左派・リベラルの論壇誌はどれだけある?「世界」「前衛」くらいか。「中央公論」もいまはあの読売新聞社系の会社になって、むしろ保守派になった)。
    だが、保守派の論調は嫌韓・反中はじめ、愛国・安倍政権翼賛で、言論の本来あるべき批判精神の軸がずれていよう。逆にいえば、彼らも何か今の現状に焦り、不満がいっぱいということなのか。ー
 

小津安二郎「東京暮色」を観る

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2018年10月14日(日)10時40分10秒
   このところ昔の小津作品を観ている。昨夜は「東京暮色」だ。お馴染みの笠智衆、原節子、今回の新人女優は有馬稲子だ。枠は家族だが、内容はシリアスだ。寡夫の笠は妻に逃げられて二人の娘を育てあげるが、今現在は長女の原は赤子をつれて父の家に帰ってきている。専門学校に通う二女有馬は軽い学生に熱を上げ妊娠。その恋の行方も長女の別居も先が見えない。

 小津と野田の共同脚本だが、シナリオのお手本のような作品になっている。男と逃げた母親役が山田五十鈴。引上げ後、マージャン屋を二度目の亭主とやっている。捨てられた娘たちと母との葛藤も重要なモチーフだ。

 父親の笠は銀行マンできちっとした生活ではある。原夫婦の微妙な夫婦のすれ違い。戦後サラリーマンの生態などきめ細かい描写が続く。現在のテンポからいえば退屈なところもあるが、じわっと人生の苦みが伝わってくる。カラーになってからの小津とは明らかに違う色調である。昭和36年に作られているから時代的なものもあるのか。この前年には黒沢明の「七人の侍」が作られているから、小津もかなり影響は受けているはず。作風は全然違っていても。

 小津映画はヨーロッパで評価が高い。「家庭」という素材を使って、人間の深淵を描くところが、特にフランスやドイツで評価されるところか。以前、村上春樹が外国で小津作品を観たときの感想が印象に残っている。小津映画のセリフは哲学的だ。
 小津は俳優たちに芝居しないセリフを要求する。一見ぶっきらぼうなセリフまわしだが、それが観客の心に響いてくる。能楽の様式か・・・

 映画のラストは二女の鉄道事故による死。長女の原は夫のもとに帰ってゆく。元妻の山田は夫の仕事先である北海道の夜行で旅立つ。残された笠は一人になってしまう。それぞれの再スタートが苦い。

 名作「東京物語」もラストは父親の笠が一人ぼっちになるところでおわる。父の孤独がずっしりと観るものに残される。見つめなければいけないテーマだが、つらい。
 

「健康長寿」には読書が一番、というAIデータ

 投稿者:管理人 iPad 8310  投稿日:2018年10月14日(日)09時14分30秒
編集済
     下のご投稿、小野さんの、文学への情熱、愛惜を感じました。先日の合評会でも同人が言ってましたが、小野さんには年齢というものが感じられません。プロフィルに昭和14年生と書かれていますが、背筋も伸び、歩き方も全然老いを感じません。やはり長く保健婦など社会の一線で活躍し、いままた限りない、「書く」ことへの情熱があるからでしょうか。

   昨晩やっていたNHKのレポート番組では、健康年齢を長く保つのには、食事よりも運動よりも決定的に大事なものがあると言っていました。それは、なんと「読書」だというのです。ある調査によると、読書する人はしない人よりも二年長生きだというのです。以前、当方は「食事よりも運動よりも」大事なものとして、コミュニケーション、をあげましたが、読書というのも、通じるものがあるかもしれません。それは脳を刺激し賦活させ、より生きがいのある方へ進めるということでしょう。本や雑誌・新聞を読むことで知識を得、関心を広げ、さらにそれは行動へと駆り立てる。図書館や書店へ行く。さらに映画や旅行に行くきっかけともなる。家の中で何もすることがない、無関心、無気力、やる気がない、の真逆です。当然認知症などからは一番遠い。

    この番組は、Al(人口知能)による人々からのビッグデータを集め、日々どういう行い、暮らしをしている人が、結果健康長寿が出来ているか、その情報を収集しコンセプトとしてまとめたもので、番組の識者のコメントにもあったように、全く新しい知見で、当方にも新鮮で、なるほどと勇気付けられました。確かに、本を読むインテリの人はむろん知識欲旺盛な人は反面活動家でもあり、自主的に自らの生活を切り盛りしていっています。逆に本も読まず、人生に希望も持たず、日々の目的もない人は健康長寿になっていないとレポート結果されています(あ、思い出しましたが、番組は、タイトルにもあったかと思いますが、いわゆる「平均寿命」に対し、「健康寿命」について掘り下げているのでした。平均寿命は日本は、男女とも80歳を超える長寿国になっていますが、健康で日々を送れる「健康寿命」は男女とも70歳ちょっととなっています。その差の十年をどう過ごしているか、寝たきりに近くなって、いわば死の前のこの期間をいかに短縮出来るかがテーマでした)。
※  番組のサイト、見つかりました。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586063/index.html

   ちょっと思い出しましたが、ロビンソン・クルーソーが船が難破して南海の孤島でどうして暮らせて行けたのか、という問題とリンクしますね。日々の生活を日付けをつけて、食事や洗濯など切り盛りして、鸚鵡を友として前向きに日々を暮らせた。その理由は彼がブルジョアジーだったからだ、というのです。初期ブルジョアジーの生活は企業の目標、生産計画から人員の募集、資金調達まで全てやっていかなければならない。自然彼は自主的・能動的な行動家になります。日々の切り盛りが出来る、自らの人生の主人となる。だから、南海の孤島という境遇に陥っても十分自己投企できる。逆にこれがプロレタートだったらこうはいかないでしょう。人に(資本に)使われるだけで、自分の人生の主人になれない。

    この話はウェーバーが言って大塚久雄が書いていたのか、出典はさだかでないのですが、これは今日のこの国にも通じる話でしょう。皆、マスコミやネットの使われ手になっていて、自分の人生の主人になれていない。やはり、それらから一度離れて、本を読んで自分を発見することがいいのでしょうか。
※ ロビンソン・クルーソーを検索したら、作品の「受容」について、以下のようにありました。ご参考までに。

    〉この作品は経済学的な視点からも注目を集めてきた。カール・マルクスは『資本論』の中でロビンソンを引き合いに出して論じており、シルビオ・ゲゼルは主要著書『自然的経済秩序』の中で独自のロビンソン・クルーソー物語を紡ぎ出している。また、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中でロビンソン物語を取上げ、主人公の中に合理主義的なプロテスタントの倫理観を読み取っている。経済学者大塚久雄も『社会科学の方法』『社会科学における人間』(ともに岩波新書)などで、ロビンソンが簿記をつけ始めることなど新興のイギリス中産階級の勤勉で信仰心に篤い起業家の姿を投影していると力説している。

    ちなみに小生、ついにデカルト『方法序説』をついに読みました。自分で考える。徹底してものを疑い、自らの格率(行為規範)を打ち立てる。その思索の経緯は刺激的で、ブリリアントでした。これはまた、別の機会に。
 

筆に力が欲しいと嘆いている私の今日昨日

 投稿者:小野友貴枝  投稿日:2018年10月13日(土)09時39分39秒
  「Aではない君と」薬丸岳作、このような本を読みたい、そして書きたい。                           最初は、テレビ東京(30年9月21日夜9時)佐藤皓市・天海裕希出演のスペシャルテレビドラマを観た。この作品は、第37回(2015年)吉川英治文学新人賞を受賞した作品である。薬丸岳原作というよりも、私の好きな俳優に惹かれたと言う感じだった。何分にもサスペンスばやりで、またかという、まして14歳という少年ものは、自分の歳では胸が痛くテレビについていけないのが現状だ。しかし、この作品は違っていた、そしてすぐ原作が読みたくなった。きっと映像では読み取れない、少年の体付きや表情、そして離婚している夫婦の亀裂感などが知りたくなった。もっと気になったのは本当に14歳の「青葉翼」が、なぜ学友を独りで殺せたの、その動機と手段に興味を持った。いうなれば、よくある、突発的で動機の希薄な殺人、少年に性癖がある、学習障害的なものであれば、興味を持てなかった。が、もっと少年っぽい学友殺しがあるように見えたので早速、「Aではない君と」(講談社)を買って、一気に読んだ。
 筋書きは、神戸事件のA少年を思い出してくれれば、半分は作品を読んだことになる。そのあと14歳の少年と親子の関係、そして殺してしまった学友と父親への贖罪である。
 主人公の父親、吉永圭一は、息子が犯した殺人事件、という重い現実が受け止められず、相手の少年が悪いと思いこもうとする。もちろん離婚している妻に対しても、息子と同居を望みながら、充分にかかわりもしない育て方まで批判的である。しかし、吉永は、拘置されている息子に面会しながら、息子の心を見つめ、そこに巣を喰った友人を殺したくなった動機は、決して突発的な殺人ではないことを知る。この気持ちに近づき、父親のすべきことをしなかったことを息子にわび、2年の刑を終えた息子とともに生きることを、この後の人生として受け止めるのがストリーである。
 作品の中の会話を拾うと、「お父さんは、翼が一緒に生きてくれるだけでよい、友人のお父さんは息子を殺されてしまったのだから、もっと辛い」と息子に言う。そして、傷付いている息子には「僕の大切なものは、翼なんだ」と言って、殺人を犯した罪を2人で背負おうと約束する。
 本書は吉川英治文学賞を満場一致で受賞した、その中で、高橋克彦の講評は見事だ、「『小説にこんなことができるのか、』としばらく茫然としてしまった。『物書きの真の勇気』に心を揺さぶられたことを隠せない」と言った。
 私は、この言葉に全く同感だった。自分の言葉で言えば、作家の可能性、作家の持っている武器(たとえば、ピストルとするなら)を充分に駆使して、作品に打ち込み、そして命中した。それは読者に届く弾であって、過分にエンターテイメント的で、誰でも読める作品になっている。本心から、薬丸岳の作家魂に、感激した。
 そして思ったことは、小説を書くということは、このような可能性を持っている。犯罪を犯した親子の心の奥深い関係が書けるのだ、自分はどうかと自問してみると、否である。曲がりなりにも作家をライフワークにしてきているが、書けていない、筆の力・表現力の低さを知らされたような気がする。
 ここで、人間を書く可能性、創作の可能性に魅きつけられた。それほど、最近、出会った本の中では、最高品である。テレビを見た時にはこんなに感動する本だとは、想像もつかなかった読後感である。だから本の筆の深さ・力というものは本を読んでみなければ分からない、とまた思った。
 最後に、西上心太氏の解説にも書いてあるが、「本書は薬丸岳という真摯に小説に向き合う作家による渾身の一冊である。親はもちろん学校の先生、少年にもぜひ読んでいただきたい作品だ。」を引用させて貰った。そこで、創作者と自称するなら、描く本当の意味を考えなければいけない、とマンネリ化している自分を振り返させられた 痛い本である。

http://blog.livedoor.jp/hbk3253/archives/cat_10041481.html

 

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