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(無題)

 投稿者:土屋慶  投稿日:2018年 9月14日(金)10時39分37秒
  私事を言わせてもらえば、現在、不登校専門の学習塾を運営し、またこれから訪問支援の事業をはじめるつもりなのですが、これはたんに経済的なことばかりではなく、十分に社会的に意義のある仕事だと思い、生涯続けていく所存です。ですので、すべての塾講師や家庭教師がただたんに、お金のためだけにやっているとは限らないことは理解していただきたい。逆にいえば、文学を本願として片手間に講師業などやってもうまくいくはずがない。一体、そこまで見くびられる教育とは何なのか。それがわからない。というより予備校講師というのはそんなものかと安心しました。たんに生活の手段としてしか教務に従事することがないならば、そんな者は教育者ではない。被害妄想なのか、私に該当する箇所だったので、つい余談ですが、書き込みをさせていただきました。

わたしももう来年は五十歳になります。先生とは異なり今現在の若者は優秀かつ可能性があると信じております。先生の述べる情勢論は一般論であり、たしかに私も氷河期世代ですが、今のところ経済的には困っておりません。SNSではいつも危機意識を持てるように追いつめられた場所から書いておりますし、貧困に喘いだ時期もありましたが、実態は家財に恵まれた中年であります。また、毎日働いております。群系という雑誌に関わり始めてから十年経ちますが、当初の印象とは至極変わってしまいました。かつては皆に開かれたよい意味でのルーズさをもった雑誌だと考えていたのですが、どうもある時期から違和感が増してまいりました。これをジェネレーションギャップと言ってよいのか、それはわかりませんが、今、私は若い人々が創る雑誌の方に惹かれてしまいます。十年間お付き合いいただいてありがとうございました。群系の今後の健闘を祈念しております。
 
 

今こそ、小誌「群系」の時代です

 投稿者:管理人 iPad 3813  投稿日:2018年 9月14日(金)09時01分25秒
編集済
  〉文学やっているのってそんなに偉いですかね。たかだか文学という自意識というより、この場では、あいかわらず文学が聖性を付与されている。

   文学やっているのが偉い、という感覚はどの世代までなんでしょうか。当然、今の10代、20代には、偉い、という感覚以前に、そんなものあるの、何それ?、という程度の反応でしょう。
    団塊の世代、あるいはそれ以前生まれの世代にとって、文学は政治とともに、生きていく証であった。小生も含め、群系の同人・会員の多くは、好きだから、という以上に、生の証しとして、創作や批評に手をかけている。そこには「偉い」という感覚はなかろう。
    文学をやっていることが偉い、という感覚は、いわば投稿者世代、ま40代くらいの、人たちではないか。この世代は、上の世代ほど政治に熱中もできず、また下の世代のように無邪気に日々を送れない世代であろう。仕事にも恵まれず、いわば就職氷河期世代だ。バブルが弾けた頃に成人を迎え、自分が何をしていいかわからず、むろん先行する世代の生き方にはなじめず、結果仕事も正社員になどなれず、アルバイトで生きてきた。
    当方の教え子にもいるが、塾や家庭教師をしながら日々を送っているが、前にも書いたように、このまま50代まで続けていけるか不安のある現状である。

    文学が死んだの、全然見向きもされない、という現状認識はもはや最大公約であろう(ま中には、現代こそ、文学の豊穣な時節だという方もおられるが)。問題は、こうした時局的・マスコミ的な認識をおいて、自分は何をするか、である。文学が偉いだの、自意識だの言っているのは、まだ文学の中に入っていなかろう。今回の40号の同人の批評作品を見てゆくと、しっかり自分の課題を見つけた同人たちの、批評する作家の魅力と課題をしっかり見据え、それにアプローチしていく姿勢がどの作品にもうかがえ、編集部の一人として、実に頼もしかった。さらにいえば、これら掲出されている同人の文章、文体のわかりやすさ、明快さ、語彙の的確な使い方にも感心した。SNSなどの投稿には、結局何を言っているか、趣旨の曖昧な投稿をよく見かけるが、さすが、10年も20年も文学に勤しんできた方々といえる。

    本誌投稿へのお誘いに返信を下さった方々のうち、投稿の予定がないという方は実に残念です。大学の教官は公務や他の著述に忙しくて、同人誌などに手が回らないということでしょうが、ここはたいへんな勘違いをされています。学校の紀要などはほとんど誰も読みません、後代にも残りませんが、本誌は文学史に残ります(もう『文藝年鑑』にも掲出されているし、有識者は本誌の意義を知っています)。
    例えば、近代文学の作家・批評家は殆どが同人誌から出たのでありました。「文学界」の藤村、「白樺」の志賀直哉、「文藝時代」の横光、川端、そして「青空」の梶井基次郎、など、40号掲出の論考を見てもそのことがうかがえます。
    大学の紀要や学会誌などは、ご自分の立場を固めるための方便としてはいいでしょうが、本当に自分が研究したいこと、やってみたいことは、掲載料を払って載せてみるこうした文芸同人誌にこそ意義があるのではないでしょうか。小説など、商業誌の新人賞の応募に賭けるという方もいらっしゃいましたが、それは世間一般の、ふつうのやり方です。目の前にこんな立派な文芸誌があるのに、そして大変優秀な執筆者がいるのにそれにかかわらず、商業誌公募は何か転倒しています。作品を掲出して、合評会やその後の飲み会でいろいろ批評されてこそ、文学なのであります。中上健次などは、習作時代、「文芸首都」という有力同人誌に関わっていて、芥川賞、文壇の寵児になったのでした。
    現代、芥川賞などは確かに同人誌からではなく、五大商業文芸誌掲出のものから選ばれています。資本の寡占が文学にまで及んでいる事実ですね。でもそれに抗するのが文学に勤しむ人間の心意気ではないでしょうか。実際、文芸同人誌は全国に相当数あって、その同人・購読会員などは、商業誌読者の総数を超える、少なくとも拮抗しているのではないでしょうか。
   小誌「群系」に至っては、毎度執筆者には同封していますように、マスコミ・図書館はむろんのこと、主な批評家30人ほどには毎度送っています(その中の何人かは、お便りもありました)。40号の創刊三〇周年の祝詞にもあったように、本誌のレベルの高さ、特集などの類い稀さは、心ある研究者・批評家などから、お言葉をいただいています(外部の同人誌の方からは、褒められないことがないくらいです)。

    今日、テレビを見ても、ネット検索をしても、現実社会から目をそらせようとするかのような浮薄なお笑いや、おしゃべり、コマーシャルメッセージばかりが流れています。現実を知ろうとする知性の人は、こうした同志的な集まりに依拠するしかないのではないでしょうか。

※ 余談ですが、いまアメリカではミニトランプで共和党がいっぱいだそうです。トランプ批判をしてきた良心的な議員などは次々に引退し、残ったのは、「アメリカファースト」を熱烈に支持する白人労働者、資本で、知識人層は民主党の方に鞍替えしていっているそうです。自国中心のナショナリズムは直情的な支持は受けますが、その保護主義、閉鎖主義が今の国際社会に逆行するものでしょう。情報テクノロジーなどの飛躍的進展に比べて、政治と大衆社会のこの愚劣をどうみていったらいいのでしょう。
 

(無題)

 投稿者:土屋慶  投稿日:2018年 9月14日(金)03時30分47秒
  文学やっているのってそんなに偉いですかね。たかだか文学という自意識というより、この場では、あいかわらず文学が聖性を付与されている。ある時期から文学は死んでいる。逆説を弄すれば、こういう自意識、つまりたかだか文学なんてものをやっているという自意識以外からは可能性が出て来ないのではなかろうか。私が二十数年前に文学科に在籍していた頃、すでに教務を担当する文学研究者たちが、文学なんてねえ、と学生に呟いていたのを思い出します。私は文学をやっている、だからエラい!なんてシーラカンスのごときものではないか。だから、一旦は文学の終焉を認めた上で、その死体を不可能だとわかっていても蘇生させるすべを施すべきなのではないか。それが正確な現状認識ではないか。  

唱歌と童謡の違い

 投稿者:管理人 iPad 3729  投稿日:2018年 9月13日(木)16時30分10秒
編集済
     『國文學』臨時増刊号の「日本の童謡」(平成16年2月)は、各子ども歌の資料と鑑賞が掲出されていて、たくさん所持している同誌の中でも特に愛着のあるものですが、この中に、表記のような「唱歌と童謡の違い」について、なるほどと思う一節があったので、披露しておきますね。

    その一節があったのは、ちょうど募集要項を送った際に同封(添付)したのと同じ童謡、「浜千鳥」(鹿島鳴秋作詞)の解説・鑑賞を書いてあったところで、歌詞にあった「濡れたつばさの  銀の色」に言及して、以下のように書かれています。

    「銀」という語は、大正期の読者に、何らかのロマンや期待感を抱かせる「道具」として機能した。
     当時の童謡「かなりや」「浜千鳥」「月の砂漠」にも「銀」は用いられており、伝統的な花鳥風月を色濃く残していた唱歌に対抗する一種の武器として積極的に用いられたといえる。
    「浜千鳥」は、単に千鳥が「親を探して」「波の国から生まれで」て、「親を尋ねて」「月夜の国へ消えてゆく」というストーリーであり、ほとんど特色がない。だが「青い月夜」や「銀の色」「銀のつばさ」が現実感から遊離した世界を描き出すのに成功している。唱歌が、季節感の尊重、英雄顕彰などの道徳的な色合いを強く持っていたのに対して、童謡は、この歌のように、空想的で哀感漂う雰囲気を持つ点に特色を持っていた。それだけに、教育界から退廃的というレッテルを貼られ、排撃に遭うことが多かった。初期の童謡は、唱歌との対立関係にあり、学校教科書に載せられることはなかった。ー(植山俊宏・京都教育大)

   ※ ところで、合評会に向けて、40号、いかがですか?小生も、出席者分、半分ほど読みましたが、みななかなかのものですね。当日が楽しみです。
 

生活はきびしい、という現実

 投稿者:管理人 iPad 3654  投稿日:2018年 9月13日(木)00時52分7秒
編集済
     予備校や高校の同僚だった人からのメールがあったりして、彼らの苦戦ぶりが伝わってくる。週の持ちコマが2日しかないという友人は、来年の保証もないのできついという。たしかにこれだけでは月数万円にも満たず、生活は成り立たないだろう。この彼の場合、奥さんが働いていて、それでやっと切り盛りしているのだろう。あるいは他の年下の同人なども塾講師などやっている人が何人かおられるが、子供の数が急速に減っている現在、これからの見通しも厳しいだろう。
    小生も前世紀はともかく、今世紀になって年齢も50代になったので、大手予備校の教壇からは退去させられて、高校講師や、模試の作成、入試問題の解答・解説で糊口をしのいできた。それでも還暦になった途端、それらの仕事もなくなった。以降、年金や障害手当、福祉手当、などでしのいできた(小生は一級障害なので、交通費はただ、医療費も免除、なのだ。タバコは吸わない、アルコールも普段はあまり飲まない、パチンコなど賭け事は禁忌としている)。

    小生の場合は、それでも駿台予備校という大手の教壇に立てていたからいいほうで、80~90年代は、その肩書きで地方の予備校にいい待遇で招かれもした。駿台の名前があったので、学燈社の『入試問題詳解』や教学社の赤本の解答解説も手がけられた。旺文社や桐原書店などから参考書も出して、以来十数年も経つのにいまだ、印税が入る。
   しかし、いま、予備校ではなく塾の雇われ講師をやっている人は、生活が成り立つであろうか。時給で二千円も出して貰えているだろうか。当方の駿台時代は、一介の講師であったが、時給一万二千円はあって、50分の授業が午前中四コマあれば、日給で五万円になった。同時にやっていた東進ハイスクールも、相応の待遇であった。(むろん、これらは前世紀、90年代までで、以降は惨め、なものでした)。

    予備校講師は、一般企業以上に、年齢で仕切られる。相手が若い人たちだから、中高年はそれだけで疎んじられる。やはり若くて、はっきりした教え方の先生が求められる。だから年齢の上限は40代までだろう(小中生相手の塾講師になると、もっと下がって、30代までだろう)。ともに雇い止めを食らうようになれば、もはや自分(たち)で、塾予備校を経営していくしかない。
    採点講師という道もあるが、駿台などでは教壇講師を退出させられた、かつては大物講師なども、いわゆる駿台全国模試などの採点の仕事がある。しかし他よりいいにしても、採点で日々生活をしていくのはとても無理。当方は、友人・同僚のつてで、模試作成や入試の解答・解説が今世紀になっても比較的コンスタントにあったからいい方だった。
    もう年齢上、あるいは適性上教えることがムリな人は、早めに業界から去るべきだろう。クルマの運転や、清掃業、ガードマンなど、職種を選んでいる場合ではない。

    この国では若いときに、きちんとした正社員など定職に就いていないと中年以降、たいへんなことになる。それでも小生のように持ち家などない人間は危機感があったので、いろいろ手を回していたが、なまじっか親譲りの家産があると、却ってヤバイ。働かなくなるのである。文学研究と称して労働しない言い訳を作り、今に至るまで中途半端な生活をおくる。
    そもそも、文学なんてものは、本当に才能がある人以外、暮らし向きに不安がない人がやるべきものかもしれない。
 

童謡のアルバム

 投稿者:管理人 デスクトップ 3607  投稿日:2018年 9月12日(水)12時31分57秒
編集済
    だいぶ以前に購入した、日本音楽教育センター発売の唱歌・童謡のテープに収録されていた子ども歌(童謡)の目録です。
百年前の「赤い鳥」に掲載された童謡も見えますね。
 ぜひ、次号第Ⅲ特集の《童謡百年》に、エッセイや鑑賞文などご投稿の参考にされてください。


日本音楽教育センター 唱歌・童謡テープ より

テープ面  番号 童謡名   作詞   作曲  唄   初出誌    発表年
A 1 青い眼の人形 野口雨情  本居長世  井上裕子・コロンビアゆりかご会 「金の船」 T10.12
A 2 赤い靴 野口雨情  本居長世 新倉徳子・コロンビアゆりかご会 小学女生 T10.12
A 3 赤い鳥小鳥 北原白秋 成田為三 小林幸子・コロンビアゆりかご会 「赤い鳥」 T7.10
A 4 赤い帽子白い帽子 武内俊子 河村光陽 桑名貞子 キングレコード S12.11
A 5 赤蜻蛉 三木露風 山田耕筰 益田恵・コロンビアゆりかご会  樫の実 T10.8
A 6 あした 清水かつら 弘田龍太郎 安西愛子・浅井正子(モノラル録音) 少女号 昭和16年
A 7 あの子はたあれ 細川雄太郎 海沼 実 青木君枝・コロンビアゆりかご会 コロムビアレコード S14.2
A 8 あの町この町 野口雨情  中山晋平 西村和子・高橋久美子 コドモノクニ T13.12
A 9 あぶくたった わらべうた コロンビアゆりかご会
A 10 雨 北原白秋 弘田龍太郎 益田恵・コロンビアゆりかご会  「赤い鳥」 大正15年
B 1 アメフリ 北原白秋 中山晋平 益田恵・コロンビアゆりかご会  コドモノクニ T14.11
B 2 雨降りお月さん 野口雨情 中山晋平 川田正子・コロンビアゆりかご会 コドモノクニ T14.3
B 3 あんたがたどこさ わらべうた 佐藤あけみ・コロンビアすずらんコーラス 大正12年
B 4 兎のダンス 野口雨情 中山晋平 久保木幸子・コロンビアゆりかご会 コドモノクニ T13.5
B 5 うれしいひな祭り サトウハチロー 河村光陽 桑名貞子・コロンビアゆりかご会 ポリドールレコード S11.1
B 6 お猿のかごや 山上武夫 海沼 実 井上裕子・コロンビアゆりかご会 「ゆずの木」 S13.12
B 7 おもちゃのマーチ 海野 厚 小田島樹人 益田恵・コロンビアゆりかご会  東京日日新聞 T12
B 8 お山のお猿 鹿島鳴秋 弘田龍太郎 浜田奈美・コロンビアすずらんコーラス 大正 3年
B 9 お山の杉の子 吉田テフ子 サトウハチロー 秋山恵美子・コロンビアゆりかご会 少国民文学 S19.11
B 10 お山の大将 西条八十 山田耕筰 真理ヨシコ 赤い鳥 T9.6
A 1 帰る雁 野口雨情 本居長世  真理ヨシコ 金の船 明治20年
A 2 かえろかえろと 北原白秋 山田耕筰 真理ヨシコ 童話 大正13年
A 3 かごめかごめ わらべうた 藤崎幸子・コロンビアゆりかご会 大正10年
A 4 肩たたき 西条八十 中山晋平 山上万智子・コロンビアゆりかご会 幼年の友 T12.5
A 5 かなりや 西条八十 成田為三 大和田律子 「赤い鳥」 T7.11
A 6 かもめの水兵さん 武内俊子 河村光陽 桑名貞子 キングレコード S12.2
A 7 かわいい魚屋さん 加藤省吾 山口保治 益田恵・コロンビアゆりかご会  童謡と唱歌 S12.10
A 8 汽車ポッポ 富原 薫 草川 信 大木英稔・井上裕子・コロンビアゆりかご会 お花の兵隊さん S14.8
A 9 金魚の昼寝 鹿島鳴秋 弘田龍太郎 寺尾芳恵・コロンビアすずらんコーラス T8.7
A 10 靴が鳴る 清水かつら 弘田龍太郎 猪股洋子・今井洋子・コロンビア子鳩会 少女号 T8.11
A 11 グッド・バイ 佐藤義美 河村光陽 桑名貞子・コロンビアゆりかご会 コドモノクニ S9.4
B 1 黄金虫 野口雨情 中山晋平 川田正子・コロンビアゆりかご会 金の塔 T11.7
B 2 五十音 北原白秋 下総皖一 真理ヨシコ 大観 昭和11年
B 3 木の葉のお船 野口雨情 中山晋平 久保木幸子・杉の子こども会 コドモノクニ 昭和16年
B 4 この道 北原白秋 山田耕筰 佐藤暉子 赤い鳥 T15.8
B 5 里の秋(星月夜) 斎藤信夫 海沼 実 桑名貞子・コロンビアゆりかご会 NHKラジオ S16.12
B 6 叱られて 清水かつら 弘田龍太郎 真島美弥 少女号 T9.4
B 7 しゃぼん玉 野口雨情 中山晋平 河添美智子・コロンビアゆりかご会 金の塔 T11.11
B 8 十五夜お月さん 野口雨情  本居長世 真理ヨシコ 金の塔(金の船) T9.9
B 9 証城寺の狸囃子 野口雨情 中山晋平 山田淑子・コロンビアゆりかご会 金の星 T13.12
A 1 ずいずいずっころばし わらべうた  秋山恵美子 コロンビアゆりかご会
A 2 酸模の咲く頃  北原白秋 山田耕筰 久保木幸子 コロムビアすずらんコーラス 赤い鳥 T14.7
A 3 雀の学校  清水かつら  弘田竜太郎  河村順子・猪股洋子 コロムビアゆりかご会 少女号 T10.12
A 4 砂山 北原白秋 中山晋平 久保木幸子 コロムビアすずらんコーラス 小学女生 T11.9
A 5 背くらべ 海野 厚 中山晋平 コロムビアすずらんコーラス 少女号 T8
A 6 船頭さん 武内俊子 河村光陽 桑名貞子・コロンビア子鳩会 キングレコード S16.7
A 7 高い高いしてよ 与田準一 細谷一郎 高橋元太郎 コドモノクニ S4.10
A 8 たきび 巽聖歌 渡辺茂作 長田幸子・コロムビアすずらんコーラス NHK子供テキスト S16.12
A 9 俵はごろごろ 野口雨情 本居長世 武山佳子・コロンビアゆりかご会 金の星 明治29年
A 10 ちんから峠 細川雄太郎 海沼 実 井上裕子・コロンビアゆりかご会 昭和14年
B 1 ちんちん千鳥 北原白秋 近衛秀麿 鈴木寛一 赤い鳥 大正8年
B 2 月の砂漠 加藤まさを 佐々木すぐる 久保木幸子・桑名貞子・田中聖子 少女倶楽部 T12.3
B 3 てるてる坊主  浅原鏡村  中山晋平  高橋久美子 コロムビアすずらんコーラス 少女の友 T10.6
B 4 とおりゃんせ わらべうた  中川順子 コロムビアすずらんコーラス 明治17年
B 5 どこかで春が  百田宗治  草川信  桑名貞子 小学男生 T12.3
B 6 どんぐりころころ  青木存義  梁田貞作  矢萩知佳 コロムビアゆりかご会 かわいい唱歌 T10.10
B 7 ナイショ話  結城よしを  山口保治  桑名貞子 コロムビアゆりかご会 キングレコード S14.7
B 8 仲よし小道  三苫やすし  河村光陽  桑名貞子 コロムビアゆりかご会 ズブヌレ雀 S14.1
B 9 七つの子  野口雨情  本居長世  桑名貞子 コロムビアゆりかご会 金の船 T10.7
B 10 はないちもんめ わらべ歌 久保木幸子・コロンビアゆりかご会
A 1 花かげ 大村主計 豊田義一 久保木幸子 ポリドールレコード 昭和22年
A 2 花嫁人形  蕗谷虹児  杉山長谷夫  真理ヨシコ 唄 令女界 T12
A 3 浜千鳥  鹿島鳴秋  弘田龍太郎  川田正子 コロンビアゆりかご会唄 少女号 大正8年
A 4 早起き時計  富原 薫  河村光陽  今井葉子 猪俣洋子 コロムビア子鳩会唄 キングレコード S12.6
A 5 春よ来い  相馬御風  弘田龍太郎 寺尾芳恵 コロムビアすずらんコーラス唄 銀の鈴 T12.4
A 6 ひらいたひらいた  わらべうた  NHK東京放送児童合唱団 唄
A 7 待ちぼうけ  北原白秋 山田耕筰 東京メールカルテット 唄 子供の村 T14.5
A 8 鞠と殿様  西條八十  中山晋平  桑名貞子・コロンビア男声合唱団・コロンビア子鳩会  コドモノクニ S4.1
A 9 みかんの花咲く丘  加藤省吾  海沼 実  三宅幸子・コロンビアゆりかご会 唄 NHK空の劇場 昭和21年
A 10 みぞれ   浜田広介 中山晋平 真理ヨシコ 唄 小学男生 昭和16年
B 1 めえめえ児山羊 藤森秀夫 本居長世 川田正子 コロンビアゆりかご会唄 童話 昭和14年
B 2 めんこい仔馬 サトウハチロー 仁木他喜雄 山田淑子・コロンビアゆりかご会 コロムビアレコード S16.1
B 3 森の小人 山川 清 玉木登美夫 桑名貞子 昭和16年
B 4 蜀黍畑 野口雨情 藤井清水 真理ヨシコ 唄 金の船 明治33年
B 5 夕日 葛原しげる 室崎琴月 矢萩知佳・コロンビアゆりかご会 唄 白鳩 T10.10
B 6 夕焼小焼 中村雨紅 草川 信 中井幹子・コロンビアゆりかご会 唄 あたらしい童謡 T12.7
B 7 揺籃のうた 北原白秋 草川 信 近藤光子・コロンビアゆりかご会 唄 小学女生 T10.10
B 8 四丁目の犬 野口雨情  本居長世  呉清蘭・コロンビアゆりかご会 唄 金の船 T9.3
B 9 栗鼠、栗鼠、小栗鼠 北原白秋 成田為三 真理ヨシコ 唄 赤い鳥 大正10年
B 10 リンゴのひとりごと 武内俊子 河村光陽 河村順子・コロンビア子鳩会 キングレコード S15.2


 

合評会ご出席の方々

 投稿者:管理人 iPad 3454  投稿日:2018年 9月11日(火)09時26分36秒
編集済
     9月17日(月曜・祝日)の合評会、ご出席の方は現在までにご連絡があったのは、以下の方です。

   名和哲夫、土倉ヒロ子、間島康子、近藤加津、相川良彦、小野友貴枝、坂井瑞穂の各氏

   加えて、編集部の以下の面々。
    澤田繁晴、草原克芳、荻野央、永野悟、

   これから出席連絡がくる方、非執筆の方も合わせてあと数名がおいでになると思います。
  (また、5時からの懇親会からの参加の方もおいでではないかと思います)。
 

己の立ち位置 特殊から普遍へ

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 9日(日)22時57分29秒
編集済
  >般若心経の教えから、この「日本国の理念的世界を現わすもの」へと落とし込む部分が、
わたしには、よくわかりません。

 「近代の超克」の論者たちが何故、国家主義を解体さす哲学理念である所の無の思想を奉じて「西欧近代の物質主義的世界観に対する東洋思想の優位の象徴として」、それらを、語ってしまったのか、
「この辺のところが、ワタシには、よくわからない」

 それはわたくしの考えまするに草原兄さまが「「国家」という、共生のためには便利なルールの集合体」というマルキシズムから演繹したところの国家観を頑なに把持されているからだと思います。
>「無」の思想では、戦えない。
戦争は遂行できないはず。
敵も、殺せないはず。
殲滅、できないはず。
(「無」には、無相・無心のニュアンスも含まれる)

 こんな呑気なことを言っている場合ではなく、敵が存在する状況では戦争を遂行し、敵を殺し、殲滅することを考えなければならなかったはずです。

 個人レベルに沈潜している人か、後世の意図的な歴史観によって歪められてしまった人の発想ではないでしょうか。

 大人が切羽詰まっている状況であるのに子供は自分の世界しか見えず、わがまま言い、駄々をこねていては、「ボクには、よくわからない」のは当然であります。

 真珠湾攻撃成功の報に大多数の日本人は溜飲を下げ、拳を握りしめて快哉を叫んだのが、当時の空気です。
 「国家主義」のわたくしにもそれはなかなか理解に苦しむところですが、それくらい鬱屈したものがあり、敵愾心に燃えたっていたはずです。

 草原さんならアベシンゾーを想起すれば、「撃ちてし止まん」の心情がご理解できましょう。

 「敵」の存在を捨象したところで、「なぜ」と考えても永遠に答えは出てこないのではないですか?

 般若心経が法華経の優位に立って、これを解体する哲学理念を持つなどという珍妙な仏教学説は初めて知りました。

 それは通説なのですか?

法華経=国家主義を誘引する危険な経典
般若心経=国家主義も解体する平和な経典

 こんなふうに受け取られるのですが、こんな説は一般に流布しているわけですか?

 薬師寺は確かに法相宗の唯識哲学のお寺ですけど、
百万願写経運動を起こして西塔、金堂、講堂を再建した中興の祖とも言うべき五代前の管主の高田好胤さんは、
悪名高い「右傾化の淵源」、「改憲に突き進むカルト集団」、「日本最大の草の根右派組織」

『日本会議』

の前身であるところの、黛敏郎が中心になってやっていた

『日本を守る国民会議』

の理事に名を連ねておりました。

 信者に平和主義の無を説く「般若心経」を写経させておいて『日本を守る国民会議』のような「国家主義」に加担するような矛盾することをやっていてはいけませんじゃないですか!

 わたくしは若いころに「道成寺縁起」という短編を書きましたが、これは有名な安珍、清姫の話で、女の偏愛の執念が若き僧侶に取りついて伏せた鐘に隠れている安珍を大蛇になった清姫が鐘に巻き付いて焼き殺してしまうというストーリーでしたが、この罪深い二人の男女は法華経の功徳によって救われたと原本には書いてありました。
 でありますからわたくしは「法華経」はどんな罪をも消尽してしまう功徳のある素晴らしいお経だと思いましたし、何度も引用致します、

衆生は劫(コウ)尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏(アンノン)にして、天人は常に充満せり。園林(オンリン)や諸の堂閣は、種々の宝をもって荘厳(ショウゴン)し、宝樹に華果(ケカ)多くして、衆生の遊楽(ユラク)する所なり。諸天は天鼓(テンク)を撃(ウ)って、常に衆(モロモロ)の伎楽(ギガク)を作(ナ)し、曼陀羅華(マンダラケ)を雨(フ)らして、仏及び大衆に散ず。我が浄土は毀(ヤブ)れざるに、而(シカ)も衆は焼け尽きて、憂怖(ウフ)や諸の苦悩、是(カク)の如く悉く充満せりと見る。…(法華経如来寿量品偈)

の件が好きで、何にもない「無」を説く教えから一転して真実の堅固な金剛不壊の実在を説いており、大変心強いのです。
 確かにこの部分を想起すると救われる気がするのは事実です。

要するに、

般若心経…目に見える一切の否定
法華経…目に見えないものの肯定

ということで、どちらがどうということはなく、対機的に両輪必要だと思います。

 しかし、実はわたくしは西本願寺の門徒で阿弥陀経に親しんでまいりました。

 それに法華経は創価学会のイメージが強くあまりいい印象をもっておりません。

それにしても、

> 戦争はいつもコトバで作られる。

それで勝ちゃいいが、負けてしまう。
勝算があればいいが、ないままで、突っ込んでしまう。
陸軍と海軍はバラバラ。
大本営はウソ八百。
参謀本部は机上の空論。
関東軍は敵前逃亡。
挙句の果てに、広島長崎二発の原爆。

 日本人である草原兄さまがこういうことを得意になって書いて先人を裁き、少なくとも自分はそんな愚劣は超えた覚者だと得意になっていられるようなことに対してわたくしは非常に違和感を覚えます。
 そんなことではけっして歴史の真実は見えてこないでしょうし、特殊を通じて普遍に至ることはできないだろうとわたくしはほぼ確信をもって申し上げたいと思います。

 西欧によって400年に渡って植民地支配された東洋の、東洋人であり、
 皇室を中心にいただいた2678年の歴史を刻んでいる日本の、日本人であるという、地に足のついた、土着的な、偏った立場に立ってこそ見えてくる世界があるというものではないでしょうか。

 

残暑お見舞い申し上げます

 投稿者:小野友貴枝  投稿日:2018年 9月 9日(日)19時41分4秒
  北海道南西部余震続く中、胆振地方の震災お見舞い申しあげます。
水害続きの日本、この夏を思い出しても、続けざまに来る大型台風による西日本豪雨の水没土砂被害などなど、被災者の皆様にお見舞い申し上げます。



その中で8月を思い出して、顰蹙をかうかもしれませんが、この夏でしか味わいないスポーツのことを書きます。
8月5日から始まった甲子園、高校野球は猛暑を心配されたが、いつも大入り満席で評判が良かった。私は野球と言えば高校野球というほど若い時から熱烈なフアンだ。その歴史の中でも今年は全国高校野球選手権大会は話題豊富だった。話題の中心は、高校野球をはじめた年、1915年、大正4年、秋田県代表は、秋田中で今の金足農の前身。秋田中は京都中に準決勝で負けている。それは103年前のことである。それから延々と次代は流れて、今年2018年100回の記念年。
100回の記念開催は、いつもの49校名から56校に、2校出せた都道府県が、7校あって、激戦の毎日であった。
その中で、私が注目した試合は、神奈川県代表の横浜校が闘った3回戦、である。優勝候補と言われてきた名門の横浜校が、9回の表まで2対1で勝っていたのに、相手校の秋田代表、金足農に2ランホームランを打たれ、2点逆転の末、負けてしまった。その時初めて「金足農」高校は、秋田市内にある、秋田県立金足農業高校だということを知った。そして、彼ら、野球チームは、市内の生徒で、自分のチームを「雑草軍団」と称しているとも聞く。私は、彼らの野球の素直さとチームワークに惹かれた。中でも吉田ピッチャーの笑顔。そして菊池キャッチャーとの選球のやり取りに、率直、明快さがでている。こんなに無防備でよく勝てるな、とさえ、思った。しかし彼らの野球はそのままの姿勢で、準決勝まで進んできた。準決勝の相手は、東京の優勝候補の日大三校だ。この高校に勝てるとは誰も思わなかっただろうが、予想に反して勝ち抜いて、決勝戦に。もうその時には日本中がフィーバーしていた。
決勝戦では、ピッチャーの吉田輝星(ペンネーム?かと思われるほどヒーローになる名前だ)選手は、この夏1500球以上も一人で投げてきたから、もう投げられないのではないかと思われたのだが、監督は交代させることなく続けさせている。やっと5回で、川和輝君に、吉田ピッチャーはライトの守備に入った。これもチームの相談の上だというから面白い。高校野球など見たこともない人でも応援してしまう。また、9人野球だという団結力のいい3年生ばかり、それだけ聞けば、最後まで勝たせたいとラブコール。選手の長逗留の費用がないと報じられれば、行列できるほど寄付者が集まり、全国から募金が集まる、地方好きな国民性ではたまらない。農業高校出身でない私も生まれは農業の家だけにこの話は、農業の未来につながる夢を感じて、募金をした。
最終戦の相手は大阪の強豪、大阪桐蔭に勝つかもしれないなどと、神がかった応援をした。確かに金足農の勝ち方は、神がかっている。勝負運というものが、天から降りてきたというようなアナーンスもあって賑やかな一時を過ごさせて貰った。
秋田県立金足農業高校の吉田輝星投手に魅せられ、話題沸騰した高校野球も16日に終わって、猛暑からもさようなら出来る。いつもなら、高校野球が終わると同時に、秋風を感じるのに、今年は、4年に1度のアジア大会ジャカルタ2018が始まっていた。開幕式は、5000人のサマンダンス(無形文化遺産)はまた、素晴らしい。初日から、私はまたテレビの前から離れられない。競技は、多種多様で40競技、462種目が争われる。18日から始まった競技の中で日本選手は大活躍、4年前の52個の金どころではなく、9月2日の最終日には75個の金メダル。日本中を沸かす水泳や陸上、そしてバトミントン、マラソンが、他国よりも秀でて、日本はアジアの中でスポーツ王国(12億人の中国には叶いませんが)としてもリーダーシップをとれているのかと感激する。未来を負う若者がスポーツ界で顕著になるのも、国の豊かさを表しているし、若者のアクテイブテイな生き方に感涙する。
天気もまだまだ秋が来そうもない、酷暑は続いている。37度の日中、外を歩けないし、外仕事の職業人は、ここ当分休んでいると嘆く。
夜半までテレビで、スポーツのためだけではなく、高温で快眠がない、そのあおりで日中は、テーブルに突っ伏して眠ってしまう。私の創作活動は蔀
放ったらかし、全然進んでいない。「もちろんその通りですが」の校正3校が戻ってきてテーブルの上に載っているのに。
やがて、本の出版という嬉しい出会いが待っている。その裏では、構成、校正という厄介な作業が待っている、この仕事は著者に与えられた、試練である。もちろん出版社は、高度な技術で編集をしてくれるが最終の砦は作者本人の意気込みにかかってくる。作者の中に熱意、闘争心がなければ、いい本ができない。ある意味でスポーツと似ている。本を出版するたびにこの経験して、いつも、もう嫌だ、辛い、決して本など出版しない、と心に誓っているのに、性懲りもなくまた自費出版したくなる。
初めて本を出版してから、今年で15年経つ、単行本も11冊目に入る。
そこで考えることは、1冊でもいいから3塁ヒットぐらい飛ばしたいものだ
と。本の神様がおられたら、一度降臨して下さいませんか。私に、本を出版
して良かった、という喜びを味わわせて下さいませんかと、祈りたくなる、「吉田輝星」ピッチャーにあやかりたい。(30・9・8)
 

次号募集要項、9月17日の合評会のおうかがい、出しました。

 投稿者:管理人 デスクトップ 3241  投稿日:2018年 9月 9日(日)16時03分20秒
編集済
   やっと、次号の募集要項、9月17日の合評会の出欠のおうかがいメールをいまさっき
発信しました。郵送の方はおとつい8人ほどに先行して出しましたが、メールについては
添付ファイルの関係で、きょうになってしまいました。
(返信については、ご都合がついた時点でお送りくださればと思います。合評会、40号
執筆の方で出席される方は、なるべく早めにお願いしますね。むろん、当日飛び込み、ど
なたでも歓迎です。また午後5時からの懇親会からご参加もぜひ。少し前にタワーホール
船堀のロビーにおいでください)。
 なお、メールが届かない、などの方はご連絡ください。

         〇

同人・会員各位

 やっと厳しい暑さもきょうまでということでやれやれですね。
 今夏は、この国も同人各位もいろいろあったかと思います。
 でも、7月の群系30周年パーティーも無事に終わり、本誌は次のステップに踏み出そ
うとしています。
 遅くなりましたが、次号の募集要項他添付しましたので、皆さんの応募をお待ちしています。
 ご応募のご意向、そして、9月17日(月・祝日)の合評会のご出欠について、ご返信をい
ただければと思います。
 このメールの返信、またはiPadのアドレス(uf2gmpzkmt@i.softbank.jp)によろしく。

                  2018年9月9日 群系編集部 (永野悟)

 *第1特集については、編集部の方でご執筆の方のおうかがいをしています。添付のExcelの
「執筆者候補」タブをご覧ください。

 *以下はメールにも添付した、7月22日の群系パーティーの写真です。
 (クリックすれば、拡大します)。
 

国家主義と無の思想 ②

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 8日(土)08時09分25秒
編集済
  (前稿の続き)

>そして、ほんらいは「個」の表現であった「文学」までもが、
「国家」という、共生のためには便利なルールの集合体を、
いつのまにやら、超越的な神話の箱物へと変容させ、神権政治化させ、
あれよあれよという間に、小説家たちが動員され、自らも"挺身"するまでに到ったわけであります。


■法華経や日蓮思想が愛国思想に変貌し、国家神道が国粋思想に転換されるのはわりとわかりやすいのですが、
問題は、この仏教や、禅由来の「空」の思想――。

「無」の思想では、戦えない。
戦争は遂行できないはず。
敵も、殺せないはず。
殲滅、できないはず。
(「無」には、無相・無心のニュアンスも含まれる)

……戦えない、はずなのだが、
あの真珠湾奇襲の翌年に開かれた
文学界グループと京都学派の合同の「近代の超克」シンポジウムでは
(『文学界』昭和17年9月・10月の特集記事)
西欧近代の物質主義的世界観に対する東洋思想の優位の象徴として、
「無の思想」「無我の思想」「空の思想」は、語られてしまった。
イロニーというならば、これこそが保田與重郎の言説以上にイロニーではないだろうか。

ヨーロッパの物質主義的世界観とは、
デカルト以来の「我」(仏教的にいえば末那識であり、煩悩そのもの)、
「エゴ」の肯定の思想であり、「有の思想」であり、
「科学技術や機械を生んだ頭脳文明」であると。
しかし、われわれ日本を頂点とする東洋文明は、
そんな野蛮な次元の「力」の文明を超克する精神文明を持った世界の盟主ではないのか、
いざ、植民地の奴隷状況からアジアを解放する救世主たらん…
そのために、総力を挙げて鬼畜米英と、戦う…。

――むろん、われわれの目指すのは、覇道ではなく王道である。
いや、王道よりもさらに崇高なる「皇道」である。
こうなった以上、欧米の野蛮な「覇道」に鉄槌を下し、
アジアと世界に範を垂れるために、あえて戦うのも、やむなし。
しかし、勝利の暁には、忿怒の相を慈悲の相に変えて、
大和民族の魂である「和」の思想を説いてやろう。
そして、この非常時の挙国一致体制に逆らう者は、疑う者は、すべて非国民である、

 ~という大政翼賛思想へと、転換されてしまう。

 戦争はいつもコトバで作られる。

それで勝ちゃいいが、負けてしまう。
勝算があればいいが、ないままで、突っ込んでしまう。
陸軍と海軍はバラバラ。
大本営はウソ八百。
参謀本部は机上の空論。
関東軍は敵前逃亡。
挙句の果てに、広島長崎二発の原爆。


               *


■この辺の日本近代の思想史・精神史十数年間の複雑骨折の構造が、
ワタシには、いまだ、よくわからないわけですね。
本来は、エゴも、国家も、理念的にはディコンストラクションさせて、
その内奥の意識の基層へと導くはずの「空」「無」の思想が、
西欧物質文明への民族的、国家的"優位性"として、奇妙に変換されていく過程……。

>『般若心経』はそういう修養段階の現世的欲望否定のためのお経で、
すべてを否定しつくしたところで、お経の中でも最高峰に位置する『法華経』にいたるわけですが、
この『妙法蓮華経』にもやはり「蓮」の「華」の字が見えることに注目しなければならないと思います。
                                     (大堀氏コメント)

>台風が来ようが、地震津波が押し寄せようが、水爆原爆が破裂しようが、砕けない世界、
天人が常に充満して妙なる音楽を奏でている本当の実在の世界が説かれており、
其の世界の構図が中心にスがあり、そこに大日如来、スメラミコトが座して展開している世界であるということなのであります。
つまり仏教の秘伝的真髄は蓮の花ような中心帰一の真理でありまして、
日本はその国家形態理念において真理を現成しているということだということです。(大堀氏コメント)


■要するに、大堀さんがいいたいのは、
「大日如来(毘盧遮那仏)」→「太陽/宇宙の中心の大生命」→「東大寺/聖武天皇/歴代天皇」
→「天孫降臨/天子/スメラミコト」→「大日如来……天皇……國體……中心帰一の真理……鎮護国家」
という、かなり無理のあるシンクレティズム(神仏習合)というか、
奇妙な本地垂迹説というか、観念連合というか、
そんなところでしょうか。

しかし、こんな路地裏の新興宗教の巫女さんみたいなリクツ(大堀さんに言わせれば秘伝的真髄)で、
当時も今も、もし、時代の強制や思想弾圧がなければ、どれだけの人が、"折伏"されるんだろうか。
法華経のくだりでは、「華」のシンボリズムをしきりに強調されていますが、
文を辿っていくと、どうやら、「蓮」は「菊」との同一視を誘導されているようで、
~いっそ、『妙法菊華経』だったら、ベストだったんでしょうけどね。

             *


■人間個人の精神を、般若の智慧、空の智慧へと導くはずの仏教哲学が、
(あるいはその近代版である西田幾多郎以下の京都の哲学者たちが)
なにゆえに、国家を、「大我」へと意味変換させ、
大乗の慈悲まがいの救世主・盟主思想へとメタモルフォーゼさせていくのか。
それでインテリ層は納得したのかどうか、学徒たちは、死地に赴けたのかどうなのか。
そういった時代思潮の中で、当時の目立った文学運動とおぼしき日本浪漫派や保田與重郎は、
どのような位置と意味を持ったのか。

この辺は、もう少し保田や京都の思想家たちを熟読しないと
見えてこないのだろうとは思います。
「近代の超克」座談会に出席した西谷啓治あたりは、こういった「無」の思想の代表格でしょうか。
ただ、西田幾多郎の弟子の田辺元なんて、三ページも読むと、いかにも退屈で、退屈で……。



群系33
「近代の超克」試論
http://gunnkei.sakura.ne.jp/99_blank171.html#label1
 

小説が生まれるとき

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2018年 9月 7日(金)19時27分36秒
   坂井瑞穂氏の「介在者たち」を面白く読んだ。今回、坂井さんは合評会に御出席と伺っていますが、是非いらしていただいて小説についての深い議論をしたいと思っております。
 「介在者たち」は小説が生まれる源泉の混沌が坂井さんの個性と相まって、混乱させられながら楽しみました。「聖なる予言」から「ブリキの太鼓」。多重人格者。蓄積された哲学、精神病理学、政治学、文学が夜空に砕け異様な光をはなっているようです。

 文学もグローバルになって、世界のどこで何人が事を起こそうと驚くことはないのですが、書き手の現在立っているところがあいまいだとリアリテイが感じられないでしょう。
 世界で起きているあらゆる事件の主人公の中にも、「私」は存在するかもしれません。

 ファンタジー冒険小説の分野に飛び出していってください。もう、やってますよね。今回の作品は、その序章かと。
 

国家主義と「無」の思想

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 7日(金)14時27分0秒
編集済
  ■詳しいご説明、ありがとうございます。
下のコメントを読ませていただいたところ、大堀さんの仏教に対するスタンスは
基本的には、天台智顗の五時八教説なんですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9B%B8%E5%88%A4%E9%87%88

>五時
最初に『華厳経』を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な『阿含経』を説いたとする。
人々の理解の割合に応じて、『方等経』、『般若経』を説き、最後の8年間で『法華経』と『涅槃経』を説いたとする。
そして最後に説いた『法華経』が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。


■これは日本の最澄さんの天台宗系、とくに法華経を奉じる宗派、日蓮宗や創価学会、
あるいは他の法華経系の新興宗教がこの説に立って釈尊の教え、仏教全般、仏教思想を見ている。
したがって、当然のことながら、
天台智顗、最澄の教相判釈を継承して、法華経こそが最高の教えということになる。

      ……ただ、法華経を最高の教えとすること、それを理解するということと、
      「南無妙法蓮華経」のお題目を勤行としてひたすらとなえよという日蓮の教えは、
      また別の問題だと思います。


■この解釈には、問題点もあって、個人の信仰としては、「五時八教説」そのままでも
いっこうにかわまないわけなんですが、近代以降の仏教文献学的(日本においては明治以降に輸入)に見ると、
釈迦の入滅後の数世紀を経て、やっと成立しているという法華経(1世紀頃)は、
ダンマパダ、スッタニパータ、アーガマ(阿含経典)、南伝大蔵経などのような
古層の釈迦直説の伝承と対等のリアリティを持つとは、なかなか言い難く、
他の大乗経典同様に、結局のところ、
釈迦以外の後世の熱心な才能ある仏教徒の作者による"創作経典"であり、
仏教系思想ではあっても、仏説ではないということですね。
極端な例えを用いれば、ニーチェの「ツアラトゥストラ、かく語りき」のような。

少なくとも、プラトンが直接の師匠について書いたソクラテスの対話篇や、
孔子の登場する論語のようなリアリティは、ないと。
この場合の「仏」とは、歴史的釈迦牟尼仏、
シャカ族の聖者・賢者のゴターマ・シッダルタ先生個人の教えと、言葉であります。

~もちろん、いやしくも古来から仏典として尊ばれる書を、疑うことをいさぎよしとしない
誠実なる天台智顗先生には、そういう近・現代的な小賢しい"テクスト・クリティーク"的視点は、
ほとんど、なかった。


■法華経がしばしば「薬の効能書きに過ぎない」といわれ、
「薬」そのものは、どこにあるんだと言われ、
歴史的釈尊が、永遠の宇宙的な仏へと変換される「久遠実成仏」以外の思想の部分は、
多宝塔を建てると有難い功徳があるとか、
(「犀の角のようにただ独り歩め」という賢者が、そんなこと勧めるだろうか? などのツッコミあり)
龍の女でも成仏できるとか、できないとか、
聖書の「放蕩息子の帰還」みたいな喩え話とか、
印象的な比喩や寓話があるぐらいで、「仏教文学」「仏教ファンタジー小説」としてしか読めない……
……という悪口もある。

とくに、"この法華経を誹謗すると、怖ろしいことが起る"などの脅し、脅迫のくだり…、
こんな……ジャラジャラと悪趣味な宝石をつけた街の占い婆さんさんみたいな脅しの文句、
あの原始仏典に登場する静謐、かつ柔和な、叡智の人・釈尊の人間像からは、
想像つかない、ありえない、とんでもない、
これって、昔の迷信的なバラモン達がさんざんやった、呪術的脅迫やないか~!! との批判もある。

そして、「久遠仏」の思想も、
結局、お釈迦さまを、
ブラフマン神(もともとはアートマンに通底する宇宙の本質的な意識相。俗にいう梵天)や、
ヴィシュヌ神みたいなものにもどしてしてしまっただけやないか~、
実に、教祖の神格化というのは、教団、組織にとって都合がよく、
宗教史としてはきわめてありがちなパターンだが、
せっかくの人類の教師、覚醒への先達の言葉を、
もとの黙阿弥、まったくのオシャカにしてしまったやないか~……との批判もある。

つまり、「釈迦」を騙って、「如是我聞」を騙って、
後の仏教者、才能とイマジネーションと禅定・冥想体験のある修行者が、
底流として脈々と流れるインド思想、ウパニシャッドや、サーンキャ哲学、
バラモン教や、ヨーガ思想を融合させて作り上げたのが、
大乗仏教や、後の密教思想――。
というのが、南伝のテーラヴァーダといわれる上座部系仏教からのごく一般的な批判ですね。
これを、小乗などといわれて貶められた陣営からの復讐――などというと、
あまりにも世俗的な偏見からの憶測になってしまいますが。


               *

■まあ、それはいいとして、
ここで言いたいのはそんなことではなくて、
わたしの質問をもう一度引用しますと、

>般若心経の教えから、この「日本国の理念的世界を現わすもの」へと落とし込む部分が、
わたしには、よくわかりません。
もう少し詳しくご教示いただければ幸いです。

~ということなんですね。
つまり、般若心経の二百六十余文字には
拈華微笑や金波羅華の話はでてきません。
登場人物(?)も、
観自在菩薩と、釈尊の説法を聴いている舎利子と、説法をしている釈尊のみ。
摩訶迦葉は出てこない。

般若心経全文・現代語訳
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm

なにゆえに大堀さん(もしくは彼に影響を与えた宗教団体、修養団体)は、
あえて法華経、その他の偽経をも応援団的に重ね合わせて、
「日本国の理念的世界を現わすもの」へと、
「般若心経」と「仏教」の"解釈物語"を、わざわざ、再編成しなければならないのか?


むしろ、この種の国家主義にとって都合のいい仏教の"解釈物語"には、
般若心経の「空」思想ではなく、
▽こちらの方の法華経系仏教団体の直截的、間接的影響を感じるわけなのであります。

国柱会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9F%B1%E4%BC%9A

田中智学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8

八紘一宇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E7%B4%A0%E5%B1%B1


■まさに「日本国の理念的世界」(大堀さんコメント)そのものですね。
般若の智慧や、空と縁起の思想、
あるいは唯識哲学などでは、
国家は実体化できない。
天皇も神聖化できない。
命を捨てさせる価値の焦点には、なりえない。
むしろ中観や唯識などの大乗仏教哲学は、そんな国家主義やナショナリズム思想をことごとく破砕し、
非実体化させ、空無化してしまう危険思想だ。

~というわけで、戦前から戦中に起った思想的な現象が、
この"解釈物語"の広宣流布、
法華経思想というよりもむしろ、
蒙古襲来時の国難を救った日蓮、
日本国の守護神として神風という奇跡を起こした「日蓮大聖人」思想のプロパガンダだと思うわけです。

釈迦や仏教というよりも、法華経。
そして、法華経というよりも、むしろ日蓮崇拝、日蓮信仰ですね。
そして、日蓮上人の教えというものは、立正安国論などを紐解くと、
崇高な憂国の心、慈悲の心が強く心を打つと同時に、
それと同時に、
非常に排他的で、攻撃的、断罪的、でもあります。
諄々と喩えを重ねて教え諭していく釈迦牟尼のスタイルとは、対照的。
とくに、法然上人や、浄土門に対しては、クソ味噌。
ある意味では、これが軍人や国粋主義者好み、なのかも知れません。

そして、この思想が、明治以来の国家神道と融合し、
日中・日米の15年戦争、「文明の衝突」時の対抗思想の一つとなり、
あの時代における大いなる乗り物、「大乗の船」となってゆく…。

            海ゆかば 水漬く屍
              山ゆかば 草生す屍
                    大君の 辺にこそ死なめ
                       かへりみはせじ



■まさにこの流れは、次号「群系41号」がフォーカスする時代の混迷、懊悩、逼塞とも、
つながってくるはずです。
そして、ほんらいは「個」の表現であった「文学」までもが、
「国家」という、共生のためには便利なルールの集合体を、
いつのまにやら、超越的な神話の箱物へと変容させ、神権政治化させ、
あれよあれよという間に、小説家たちが動員され、自らも"挺身"するまでに到ったわけであります。


           (続く。この稿、途中)


 

アベに説教

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 6日(木)01時25分42秒
編集済
   釈迦に説法だと思いますが、皮相なわたくしの理解を補っていただきたいと思います。

 「世尊粘下摩訶微笑」(せそんねんげまかみしょう)は禅宗の聖典『無門関』の第六則にあります公案で、『大蔵経』の中には収録されておらず、帝王の読むべき秘蔵の経として『大梵天王問仏決疑経』という特殊なお経にくわしく書かれております。

 世尊、昔霊山会上に在りて、花を拈(ねん)じ衆に示す、是の時衆皆な黙然たり、惟だ尊者のみ、破顔微笑す。
世尊云く、吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相、微妙の法門、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)有り、摩訶迦葉に付嘱す。(『無門関』第六則)

 この「花」というのが、「金波羅華」つまり金色の蓮の花で、蓮の花というのは、

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E8%93%AE%E3%81%AE%E8%8A%B1

真ん中に蜂の巣のようなハチスという中心があって花びらが展開しております。

 宇宙の構造はこの蓮の花のように中心があり、それから展開してまた中心に回帰するという中心帰一の真理の上に成り立っていることをお釈迦様は示されたのであります。

 確かにマクロ的には太陽系の構造でも、太陽という不動の中心の周囲を諸惑星が旋回するという構造になっております。
 またミクロ的には原子核の周囲を電子が旋回するという物質の構造があり、音楽のオーケストラでも指揮者を中心として諸楽器が配置され交響楽が奏されるということになっております。

 『華厳経』には「蓮華蔵世界海」という言葉があって、蓮華のように中心にスを頂く荘厳な相を内に蔵して外に様々な様相を展開するというのが、その意味だと言われます。

 お釈迦様は6年間の苦行の後、尼連禅河の畔の菩提樹の下で悟りを開かれて、それから二七日目に初めて「華厳経」の説法をされたのでありますが、これが何の方便も用いないストレートで生硬なスピーチだったため、聴衆は全員うつろな目をして口を開けるばかりで、理解したのは普賢菩薩だけだったといいます。

なかなか理解する人の少ない深い真理が本当に釈尊の解きたかった教えにあるではないかと思われます。

『華厳経』には「廬舎那仏品(るしゃなぶつほん)」という部分があって、そこには、
「仏子、当に知るべし、此の蓮華蔵世界海の、金剛囲山は蓮華日宝王地に依りて住せり。」と書かれております。
「日宝王地」とはまさに天照大神の子孫を中心にいただいて君臣和合して真理を現成せるところのわが日本国のことを指していると解釈できると思われます。

 ですから奈良時代に聖武天皇が廬舎那大仏建立を発願されたのは、日本の国家形態を讃えているようなこの「廬舎那品」に感動されたからではないかと解釈もできます。

しかし、なかなか理解されないのです。

 それでお釈迦様は『阿含経』のように一般民衆にもわかりやすい修養のお経から説き起こして真理を説こうとされました。

『般若心経』はそういう修養段階の現世的欲望否定のためのお経で、すべてを否定しつくしたところで、お経の中でも最高峰に位置する『法華経』にいたるわけですが、この『妙法蓮華経』にもやはり「蓮」の「華」の字が見えることに注目しなければならないと思います。

『法華経』にはわたくしの好きな

「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此土は安穏にして天人常に充満せり」

の一節があります。

 台風が来ようが、地震津波が押し寄せようが、水爆原爆が破裂しようが、砕けない世界、天人が常に充満して妙なる音楽を奏でている本当の実在の世界が説かれており、其の世界の構図が中心にスがあり、そこに大日如来、スメラミコトが座して展開している世界であるということなのであります。

 つまり仏教の秘伝的真髄は蓮の花ような中心帰一の真理でありまして、日本はその国家形態理念において真理を現成しているということだということです。

 荒唐無稽というか破天荒な解釈で一刀両断切り捨てられるだろうと予想がつくくらいのウルトラ愛国解釈であることは私も認識しております。

>「文学愛好の岩盤支持者」に閲覧者の注意を引き付けておいて、サブリミナル的に「岩盤の3割アベ支持者」のイメージを潜在意識に刷りこませるという姑息な手法は、大堀さんらしくもないと思います。

 そんなつもりは毛頭なかったのでありますが、安倍内閣の支持率の推移が頭の中にあったので、そんな比喩になったのだと思います。
 しかし、アラームが大音声で鳴り響くのなら、サブミナル効果でこの掲示板読者が安倍支持者に知らず知らず変るようなことはないと思います。

 安倍晋三は300万の英霊の加護と期待を得て、返り咲きを果たした日本国にとって必要な首相ですから、三選を果たし、自民党の結党以来の悲願である憲法改正をやりぬくでしょう。

 反アベ、嫌アベの読者の皆さんは、精々掲示板に悪口雑言をぶちまけて、言葉の限りを尽くして呪詛怨念を書き連ね、アベを擁護する大堀を板上で攻撃してウサを晴らしてください。

  https://www.youtube.com/watch?v=czMbzzIe2k0

  https://www.youtube.com/watch?v=93lIAKChaLI
 

第二の『近代文学』誌として

 投稿者:管理人 iPad 2711  投稿日:2018年 9月 5日(水)20時42分44秒
編集済
     9月17日の40号合評会についての出欠と、41号の原稿投稿についての問い合わせを兼ねたメール(一部郵便)の発信が遅れています。(それでもこの板をご覧の一部同人からは早くもご自身の投稿テーマを伝えてこられた方もいます)。早急に通信しますので、いましばらくお待ちください。

   本誌は、全国同人雑誌大賞を授与され、また創刊三〇周年も迎え、いま意気が上がっています。単なる同人誌の枠を超え、全国的にもたいへん珍しい批評系文芸誌として、いわば第二の『近代文学』を目指します。あの戦後、昭和20年暮れ、『新日本文学』の会場で、創刊号が配られた『近代文学』誌は、以降、野間宏や梅崎春生、武田泰淳、安部公房、大岡昇平などの作品を掲載して、戦後文学の創造者となったのでした。
   一同人誌ではなく、また紀要など学会誌でもない、独自な視点と構想を持った、未来を見据えた文学・思想誌とならんことを目指します。皆さまのご協力とご投稿を強くお願いするものです。
※ 取り上げ予定の作家・詩人などについては、ご投稿予定者にExcel添付の予定ですが、あらましは、9月3日掲出の「編集会議ご報告」をご参照下さい。
 

「日本国の理念的世界」とは、何ぞなもし

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 5日(水)20時28分46秒
編集済
  >その真実の価値というのは、釈尊が究極のところで、蓮の花をひねって迦葉菩薩のみ理解して微笑した
(拈華微笑)ところの中心に大日如来が座す金波羅華の世界でそれは日本国の理念的世界を現わすものだと
理解しております。(大堀さん)

■般若心経の教えから、この「日本国の理念的世界を現わすもの」へと落とし込む部分が、
わたしには、よくわかりません。
もう少し詳しくご教示いただければ幸いです。


               *

>選挙の時の浮動票のように、流される人々がいる一方で、岩盤の3割アベ支持者のように時代の風潮が
いかにあろうとも、文学を愛し、文学を大切に考える人々は昔と同じ数くらいはいるように思います。
 危機感をもって「群系」の中で文学を問い直すことと、必ずいる隠れた文学愛好の岩盤支持者のために、
その期待に応えるべく創作や執筆をつづけていくことがわたくしは必要だと考えます。

■文学ネタの中に、貴兄が何食わぬ顔してこっそりと確信犯的に忍び込ませた
「岩盤の3割アベ支持者のように」という喩えの部分で、高音のアラームが鳴りました。
まるで食物の中に、歯のような人体の一部か、昆虫の死骸のような異物が入ってしまったような違和感です。
アベとは、「#ケチって火炎瓶」「#安倍とヤクザと火炎瓶」で
いまTwitterで拡散されている安倍晋三のことですが、
「「文学愛好の岩盤支持者」に閲覧者の注意を引き付けてておいて、
サブリミナル的に「岩盤の3割アベ支持者」のイメージを潜在意識に刷りこませるという姑息な手法は、
大堀さんらしくもないと思います。


-----------------------------------------

いま流行りのTwitterネタですね。

>「#ケチって火炎瓶」
https://twitter.com/search?q=%23%E3%82%B1%E3%83%81%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%81%AB%E7%82%8E%E7%93%B6

>「#安倍とヤクザと火炎瓶」
https://twitter.com/hashtag/%E5%AE%89%E5%80%8D%E3%81%A8%E3%83%A4%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%81%A8%E7%81%AB%E7%82%8E%E7%93%B6?src=hash
 

次号の第一特集について

 投稿者:管理人 iPad 2711  投稿日:2018年 9月 5日(水)19時57分30秒
編集済
     次号「群系」41号(10月20日締切、12月中旬刊行)の特集Ⅰは、今まで以上に難しい。昭和8年~20年の期間が範囲で、タイトルも《日本近代文学の逼塞ー昭和戦前・戦中の文学》とやっと落ち着いた。今まで《日本近代文学の終焉》だとか、《日本近代文学の崩壊》と仮題していたが、終焉とか崩壊では、何か予定調和的でふさわしくないとの意見があった。苦心?の末、逼塞となったが、この時代の特徴が少しは表象されているだろうか。
    確かにこの時期は〈逼塞〉という語に表れるように、政治社会のめまぐるしい変転とそれを反映するかのように文学も変容甚だしかった。まず昭和8年は、満州国建国に端を発して国際社会の非難が集中し結果日本は国際連盟を脱退した。これが後々の国難に繋がるのであったが、実際唯一の組織的抵抗体であった共産党が多喜二虐殺、佐野・鍋山の転向声明があり、京大滝川事件も起こった。国際的にもナチスが政権を掌握したのもこの年だった。
    文学は、あれだけ威勢があったプロレタリア文学が弾圧と内部からの変質で転向文学となり、昭和12年の日中戦争勃発以降は、いわゆる戦争文学が描かれるようになった。石川達三の「生きてゐる兵隊」を嚆矢として、日比野士郎、上田廣、榊山潤、棟田博らがいわゆる従軍体験、あるいは報道記者として、戦場ルポや戦場小説を書いていった。が何より特筆すべきは火野葦平による「麦と兵隊」の大ヒットだろう。徐州戦を兵士の立場で描いたこの作品は銃後国民に大受けし、映画化もされ、以降いわゆる兵隊三部作と繋がった。
    この戦争文学は、軍部からの要請で現地に飛ばされた作家もいたが(丹羽文雄「海戦」など。マダム物を描いていた丹羽はいわゆる懲らしめで飛ばされた)、自ら進んで現地に行った作家もいた(林芙美子「北岸部隊」など)。しかし、文学者たちが集って中国の戦地に行った(文春が派遣したいわゆる〈ペン部隊〉など)のは、戦後、文学者の戦争責任追及の やり玉に挙げられるものであった。

    この時代の大きな特徴として、思想的な右往左往があったことだろう。左から右まで、転変が激しかった。太宰治を例にとれば、初期には共産党の細胞としてそうした左翼作品を書いていた太宰だが、後には、例の『日本浪漫派』の同人になったりしている。その『日本浪漫派』は、主筆の保田與重郎や、亀井勝一郎などが日本の伝統文化への思い入れから、数多くの日本回帰の作品を書いた。これは大正から昭和初期までの欧化主義への反発でもあって、この欧化から日本への回帰は、その欧化主義の旗手であった小林秀雄さえ、仏文学の紹介から、「無常といふ事」など、日本古典に沈潜した作品を書くようになった。
    そうした中、自らの感受性を中心に文学形成をしていったのが堀辰雄であろう。また、谷崎潤一郎も「細雪」が発禁になりながらも描いていったし、川端康成も「雪国」を何度も改稿している。さらに先に出した太宰治や坂口安吾、石川淳、檀一雄といった作家たちは戦後にその生き方・文学を注目されたように、戦時中からその文学を形成していったものである。

    もう一つ大きな問題としてあったものは、いわゆる〈近代の超克〉の議論であったろう。これは雑誌の掲載としては、それとして結果が出せたものではなかったが、表題のように、欧米を中心とした〈近代〉に対する疑義、反措定として、それなりに意義があったものと思われる。

    この敗戦までのこの国の〈逼塞〉した文学・思想のありようを点検することは、〈近代〉を突き抜けた21世紀の現代の、この無思想・脱文学のゲル化したこの国の状況を考えるのに大いなる示唆をもたらしてくれるのではあるまいか。
 

不滅の文学

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2018年 9月 4日(火)21時16分6秒
編集済
  「文学の危機」について教育的観点も含めて述べさせていただくと、

輸入玩具販売「ボーネルンド」の行った調査によると母親の3人に2人は子供と遊んでいる最中にスマホをいじっているようです。
20歳~30歳の母親1000人から得た回答の中で、65.9%の母親は「よくある」「たまにある」と答え、「全くない」は9.6%にとどまったということです。
 しかし、その65.9%母親のうち約8割はそういうことは「よくない」「あまりよくない」と認識していることもわかっています。

 また毎年行われる全国学力調査(中3と小6対象)と保護者14万人にたいするアンケート調査によって、保護者の年収、学歴など家庭の社会・経済的背景を4階層に分けて平均正答率と比較、分析してわかったことは、
保護者の階層が高くなるほど正答率はやはり高く、特に中3の数Aでは最も高い階層の正答率と低い階層の正答率では25%の開きがあったということです。

しかし、最も低い階層の家庭で育った子でも上位25%内に食い込んだ子たちがいて、そういう子たちの家庭では、
「小さいころ絵本の読み聞かせをした」
「本や新聞を読むように勧めている」
などの質問に「当てはまる」と回答した割合が学力が低迷している子たちの家庭より6~12ポイントくらい高いことが分かったということです。

 信州大学の学長が「スマホ止めますか、信大生やめますか」と学生に迫って話題となりました。
 本も読まず、人と会話もせず、信州の豊かな自然にも背を向けて四六時中スマホをいじっている若者をみれば、老婆心でなくとも言いたくなります。
 文学の危機は教育の危機でもあります。

 もしもスマホが文学の敵であるのなら、産業革命後のラッダイト運動:Luddite movementのようにスマホを片っ端から金づちで叩き壊すとかau、ドコモの会社を襲うことも真剣に考えた方がいいかもしれません。
早稲田通りの古本屋に「テレビは文明の敵だ」と貼り紙がしてあったのを思い出します。

しかしまあ、そんなことは根本的な解決にはなりませんから、少しでも希望的に考えますと、

わたくしの塾の小学生に尋ねますと、実に多くの本を読んでいて、月80冊くらいは裕に読んでいるといいます。
 それは成績のいい子なので全部というわけではありません。

 子役で活躍して偏差値70の慶應中等部に進んだという芦田愛菜さんは、年間300冊の本を読む猛烈な読書家だということです。

 また、若者から圧倒的支持を得ているアーティストの宇多田ヒカルの愛読書は意外にも漱石、鴎外、芥川、エドガー・アラン・ポーなどで自ら「文学は永遠に私の情熱である」と土倉さんのように語っているそうです。

 確かに時代の風潮に流され、低きに流れて行ってしまう一般庶民、子供たちもいるのは事実だと思いますが、大正生まれのわたくしの父など、文学はじめ芸術一般は女のやることと決めつけ読書をしている姿など一度たりとも見たことはなかったですから、昔の人が読書家だったとは必ずしもいえず、また最近の若者が全員活字離れ、文学離れをしていると断言もできません。

 選挙の時の浮動票のように、流される人々がいる一方で、岩盤の3割アベ支持者のように時代の風潮がいかにあろうとも、文学を愛し、文学を大切に考える人々は昔と同じ数くらいはいるように思います。

 危機感をもって「群系」の中で文学を問い直すことと、必ずいる隠れた文学愛好の岩盤支持者のために、その期待に応えるべく創作や執筆をつづけていくことがわたくしは必要だと考えます。

 本日は台風21号直撃のため、仕事が休みになって、だらだらと書きますがお許しください。

草原さんへ

> ■別に人間は、キツ~イ二元論のどちらかを二者択一的に生きなくてもいいんじゃないですか。ラジカルな曖昧性を、戦略的に生きてもいい。イロニーという複眼的思想も、そこから出てくる。あるいは二元論を抱えたまま、そのまま、自爆したりメルトダウンしたりせず、創造的な原子炉に変容させることも、できないわけではない。

 その通りで、大多数の人々は「人生不可解」を抱え込んだまま、曖昧の中で生きているのが実情だと思います。
 不可解に耐えきれず死んでしまうのは、よほどピュアな真面目な人だと思います。
 「不可解」を玉成して真珠のような名作を生み出してしまうベートーヴェンのような人もいます。

 逆に完全理解をしているような人間は人間らしいとはいえず、不自然かもしれません。
 しかし、方向性というか、漠然とでも信ずるものがあって、それを「幻想」といってしまっては、あまりにも頼りないものになるので、信ずるに足る、金剛石かゴールドくらいの硬度と永続性をもったものである必要があると思います。

 物がダメなら幻想、それともホログラムとか言われても、わたくしは物理で0点をとって進級できないといわれ学校から呼び出しを喰った人間ですからムリです。

>奈良の薬師寺。あれ、唯識仏教ですよね。三蔵法師玄奘さんの。
一切は「識」だという「唯識」の世界観も、まずいですかね。

 阿頼耶識と末那識とが現象を作り出すがそれは空である、しかし、空からまた現象が出来上がるというということは理解できます。

 わたくしが写しているのは2000円のお布施の般若心経でありますが、あれはモノや移ろいゆく現象に対する執着を断つためのお経と理解しております。

 物質に対する執着から自由になるとその無の別名である心が作り出したところの諸現象を突き破って真の存在が見えてくるというか感じられてくる、その真実の価値というのは、釈尊が究極のところで、蓮の花をひねって迦葉菩薩のみ理解して微笑した(拈華微笑)ところの中心に大日如来が座す金波羅華の世界でそれは日本国の理念的世界を現わすものだと理解しております。

 で、ありますから、「天敵みたいな異端文献」ということにはなりません。
 心を込めて一字一字刻み付けるようにお写経をして物質に対する執着を弱めて真実の世界を鮮明に見ることを祈っているのであります。

 しかし、

今年も奈良へお写経に出向き、「玄奘三蔵会大祭」という伎楽のイベントに列席して、「万燈供養会」に献灯もしたのでありますが、その時参加者を前に話をしていた管主村上太胤、
このお坊さんは、その十日後、ワイドショーに顔が大映しされ、銀座のホステスと不倫をしていたことが発覚して管主を辞任したことがわかったのであります。

 わたくしのお布施もこのエロ坊主の、銀座のホステスへの貢ぎ物に使用されたことになりますと思うと写経を続ける意欲もなくなります。
今手元に村上管主の筆になる栞があって、それには「心 ひろく ひろく もっと ひろく」と書かれています。
しかし、「心」ではなく「股」だったのではないか、と言いたくなります。

 そういうことですから、これも阿頼耶識、末那識の作り出した幻想なんでしょう。

>~ところで、「教育上よろしくない」というのは、どういう思想を背景とした「教育」でしょうか。

 「君たちのこれまでの努力、青春の汗、友情、それらはすべて幻想だったんです。ご両親の君たちへの愛、学校の先生方の恩、そして何よりも君たちの人生そのものがなんら実体のない幻想なんだということを私の最後の君たちへのメッセージとして贈りたいと思います」
校長先生が卒業式でそんな訓示をしたら、聴衆はたまげるはずです。

 どういう思想も何もなくて、発達段階を考えれば、いくら深淵な哲学であっても非常識ということになります。
 要するに誤解されます。
 般若心経も皮相に受け取ればこの世や人生は空で虚しいもので価値はないという誤解を生むと思います。

>「國體」や「ナショナリズム」や「国家神道」などという概念…、そういった思想的固執、固着…

 こういうのも巨大誤解だと思います。
 心外でありますし。

 

文学は最高の快楽ではないか・・・

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2018年 9月 4日(火)18時58分42秒
   文学が何より好きであってよかったと思う。本好きの母のおかげで本はいつもそばにあった。講談本から世界名作までの乱読時代。小説は私を夢見るひとに育ててくれた。
 明治から昭和初期まで「文学」は教養としての位置をたもっていたとおもう。しかし、私にとっての文学は最大の快楽であったとおもう。音楽、美術、人を楽しませる芸術はあるが、私は何より文学が好き。文学は人を見果てぬ夢にも誘うが堕落の道にも誘惑してくる。人間が滅びぬかぎり永遠にひとが求めるものとして存在してゆくだろう。
 

「文学の危機」にかんするニ三の事柄

 投稿者:草原克芳  投稿日:2018年 9月 3日(月)20時45分31秒
編集済
  ■ミもフタもない言い方をすると、「文学の危機」とは、
文芸誌、とくに純文学を標榜する文学系の雑誌が、
     「売・れ・な・い」
ということじゃ、ないでしょうかね。
おそらく、大手出版社の、名だたる文芸誌も、表向きに示されている部数から比べて、
一回りも、二回りも、やせ細った数字が、現実なのではないでしょうか。
これはもう、仮説じゃなくて、事実。
~「俺、今度、編集部の人員カットで、営業の方に回されるらしい」(とある文芸誌編集者の不安)


■もう一つ、
同人誌の主宰者や、編集部員、同人メンバーという、しみったれた視座から見ると、
   「若い子が来てくれない」
ということがあげられる。
つまり、そのジャンルは、絶滅種。
トキ、オオサンショウウオ、カモノハシ……の類。


いまや、同人誌といえば、「漫画・アニメの同人誌」を、意味する時代。
キャツらは、漫画やアニメの二次創作、三次創作によって、生活の資すら、稼いでいるという噂ではないか。
ビッグサイトとかいう御大層な場所で、うん万人も集めるイベントをやらかしているという話ではないか。

「え、同人誌やってるんですか。漫画とか、描かれるんですか?」
「いや、その。あの。ブンガクのほうの…」
「……あ、あ~ぁ(遠い目)。まだ、そんなこと、やってるヒト、いるんですねぇ」

これが、「文学の危機」以外の、一体、何ものであろうか!
~というわけです。


■有名作家や、評論家以外のアヤシイ(自意識だけ文学者)という特殊人種のいう「文学の危機」とは、
じつに、何を隠そう、
「同人誌」の名称を、知らず知らずのうちに、
文学畑から、アニメ畑に奪われてしまったという痛恨事を、意味するわけです。
ノーベル賞も、ウンベルト・エーコも、モンテーニュも、関係ない。
ましてや、ロベスピエールも、フランス革命も、関係ない。
とはいえ、奪還したくとも、できやしない……。
つまりは、
実に、辛気くさい、情けないお話、なんであります。


            *


■それでは、同人誌に近づいてもくれない「若い子」とは、
ぜんたいに、何歳ぐらいの生きもの、クリーチャーを、称するものであろーか。
これは、それぞれの観測者個人の肉体年齢によって測量されるところによる相対的な時間距離であるから、
各人、そうとう、へだたりはあるにせよ、
あるにせよ、
「いま死んだら、夭折」
と、いわれる程度の若さが、
多分、文学的には「若い」と想定される人種、ではなかろうか、と愚考します。
    つまり、「群系」同人メンバーの、ほぼ全員、アウト、ですね。…ハハハ。

~しかし、まあ、そんなことは、どうでもよろしい。
我ながら、くぅだらない。
――いつものことだけど。


              *


■先日、YouTubeで見たけれども、とある山間部の限界集落に、
ニートや、ひきこもりの若者が来ることで、その村が活気づいた…。
というドキュメンタリー動画があった。

そのニートや、ひきこもりの若者は、
べつに「生産性」があるわけでもないし、労働力としても、ほぼ期待できない。
それでも、限界集落としては、その事件が、ひとつのドラマ……なんですね。
カルト宗教の集団が棲みついたわけでもなく、
単に、やる気のない、内気なだけがとりえ(?)の変な若者連が
自給自足生活を始めた、というだけの現象で、村が、ちょっとだけ、元気になった。
化学反応みたいなことが、起った。
――そこが、面白い。

純文学系同人誌の「文学の危機」、およびこの超克とは、
ほとんど、こんな状況に酷似しているのでは、なかろーか、
と、思った次第。
いや、「創造」「表現」「創造と破壊」のほんとうのドラマが始まるのは、それからのこと。
とりあえずは、異物同士をぶつけて、カオス状況を、創ること。
そこから、何かが発生する。


              *

■ついでに言えば、
われわれ「群系」同人は、昨年、
あるヒントを得た。

~とある奇縁により、
四国山中の「秘境」といわれる祖谷の里、
日本人にすら、あまり知られていなかった平家の隠れ里に、
外人観光客が「旅の思い出ノート」かなんかに、英語や中国語で、熱烈な書き込みをしていることを発見して、
驚愕した。

まあ、その地方都市は、同人誌に賞を与えるなぞして、町起こしをするという、
はなはだ、奇特な、風変わりな、地方公共団体では、あるのだが、
何というのか、
たくまざる、村おこし、町おこし……の実例、成功例を、見た感触。
「秘境/平家の隠れ里」という〈物語〉が、
つくられたコンセプトではなく、歴史の紆余曲折によって、おのずと発生したコアを持つ〈物語〉が、
インターナショナルな磁力を持ってしまった、
しかもちゃんと、経済効果まで派生させている、という実例を垣間見た。
     (「物語/幻想/神話」を、わたくしが、決して否定的に見ているわけではないのは、この通り。
       だから要は、「物語-批評」のバランスなんですね。)

これは、いわゆる「電通マーケティング」の通り一遍の手法とは、まったく別の潮流が、
現在、澎湃として自然発生的に、起っているのかも知れない……という印象でありました。

■まあ、結局のところ、
そんで、何が言いたいのかというと、「文学の危機」というのは、
それ自体が重層的構造を持ち、
もっともらしい理念的な層から、
きわめてしみったれた下部構造的な、ウサンクサイ層まで、
いろいろある……ということですね。

 

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