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  1. パソコンクラッシュ(>_<)(6)
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うれしい!!

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月12日(木)20時08分22秒
編集済
    あ、名和くん、ありがと。
  ほんとう、Ciniiにも乗るようになりましたね。苦節?30年ではありませんが、ついに、お上を動かすことになったのですね。
   当方からの働きかけではないです(したってムダ)。これは、一つには、富士正晴全国同人雑誌大賞もあずかっているのでしょうかね。久々の?いいニュースでした。
   皆さん、日本一の文芸雑誌です。野口さん特集もやりきれば、一層輝くことでしょう。
 
 

菊田求のこと

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月12日(木)19時40分43秒
編集済
     三つ前の投稿、偲ぶ会の動画アップに、追記したことだけれど、小生が、野口さんや菊田義孝さんなどと、付き合うきっかけになったのは、大学時代の同じ国文科の友人、菊田求の死がきっかけだ。彼が留年二年目になって、病気で遅れた当方も含めもう皆が卒業してしまった時だった。学生運動で単位が足りないことよりも、皆いなくなってしまった寂寥感が、彼の自殺になかったともいえないだろう。
   菊田求~今更に彼を思うのはあまりにいい人だったし、人がしない、できない行動をとってきもしたからだ。時代があの全共闘運動の直後、その余波がさめやらぬ、東京から少し外れた千葉の地では、まさに運動の渦が残っていたようだ。菊田は、千葉大で圧倒的な威勢の民青ではなく、TL連合と呼んだ、工学部と文学部(当時は人文学部)の混成部隊の一員となり、活動を続けていた。食堂の前で、拡声器をもってアジテートしていた姿をよく見かけた。決してうまい演説ではなく、訥々とした感じで訴えていた。折もおり、成田闘争もまっさかりであったが、彼のアピールはそれだけでないテーマもあった。詳しくはわからないが、ひとを人格差別する心理テスト粉砕とか、があった。
   ときに、授業中に遅れてやってきて、教授にこの問題に回答してください、と詰め寄り、われわれをひやひやさせた。教授は怒って、「君はそもそも、授業に出ているのか」など大声を上げると、菊田はそのままでていった。

   実は菊田とは、当時の学寮でも一緒だった。それも一階の隣同士だった。一緒に朝の食を取ることもあった。ほとんど当方のおごりで呼びかけたのだったが、彼はそんな朝食時にも、もう早くも部屋を出ている時も多かった。政治活動家、には反してたいへん詩的なところがあって、寮の部屋にはボブ・ディランの詩句と彼の思いが刻まれてもいた。(彼が詩集を残していたのは、死後知ったことだ)。
   彼は、劇団にも所属していて、その「舞台裏」という劇団の公演を観たこともある。二年生くらいのときか、その時は、安部公房の「友達」をやり、菊田は主役の「僕」をやっていた。
    菊田の父君が太宰治の弟子に当たる文芸評論家だということを後輩からきいて、俄然興味をもって、ある時、寮の夕食時に一緒になったのでそことを聞いてみたりもした(寮の食堂といっても、学生は随時なので人はまばらだった)。「永野のお父さんは?」と逆に聞かれたが、「ウチの親父はサラリーマンさ。ただの中小企業の」。ふつうならあまりいいことでもない質問が、このふだんは寡黙な菊田くんから問われたことに、妙にうれしかったことを覚えている。
   彼の自殺の動機には、ある友人の死もあったが、いまはおく。

   後年、友人の星野光徳が、河出書房「文藝」賞になったとき、授賞式に友人の一人としていっしょに会場の霞が関ビルに行った時、菊田の遺稿集のオビに推薦文を書いてくれる人はいないかな、と思っていたところ、かっこうの作家が目の前にいた。井上光晴だった。結局ただで、オビ文を書いてもらった。それが、『反逆と愛のはざまに』(検索)という本である。
  好きだった友の通夜に出たこと、それが、菊田義孝、その畏友の野口存彌、との出会いであった。
  
 

Ciniiに群系が

 投稿者:名和哲夫  投稿日:2017年10月12日(木)19時32分39秒
編集済
  名和です。国立情報学研究所の学術論文検索システムのCINII で群系の評論がヒットするようになってますね。前はなかったので最近のことでしょうか。

http://ci.nii.ac.jp/

 

明後日から、秋の長雨のようです。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月11日(水)23時01分42秒
編集済
     天気予報を見ると、当方が入院する今週の金曜から、ずっと傘マークですね。金曜、土曜、日曜、月曜、火曜と、今年では初めてではない? (ま、今年夏も雨っぽかったですけどね)。当方はその間、病院の中なので、自転車通院で雨に濡れることがない、それだけはよかったかな。

   お原稿、入稿されたひとの、最近はこのiPadにもゲラが着いて、ページの入り具合が見られます。あと何行入るとか、何行、次ページにはみ出している、とか。龍書房さんは、最近は投稿者と編集部(私)に、ともにゲラを送っているようです。ま、当方のデスクトップPCが添付ファイル不具合なので、投稿者自ら、版元へ送っているので、こういう次第なのですね。

   20日以降、編集会議など開いて、原稿のページ数についても話し合う予定です。
   とりあえず、質問、ご相談の向きは、当方への場合は以下の、iPadのアドレスにお願いします。

   uf2gmpzkmt@i.softbank.jp    永野のiPadのメールアドレス、です。
 

文学にいそしんだ方々

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月11日(水)19時27分9秒
編集済
     動画のアップなどをしている際、過去の群系パーティー動画を見てはっと気づくことがあった。お祝いの挨拶の場で亡くなった方を紹介しているご発言があり、今更に感じ入ったからである。それは30号パーティーの時の、勝原晴希氏のご挨拶の中であったー。
    群系が文学を愛する人びとの雑誌としてこんなにも大きくなったことに感動しているとして、ご自身の過去の同人誌のことについて触れられたのだが、その際、何度も芥川賞候補になりながら、自ら命を落とした仲間の同人のことに言及されたのである。それは佐藤泰志という、当方もその名前とその由来を知ってはいる方だった。なかなか報いれられない創作の苦労、当方は作品鑑賞・研究の方で、小説の苦労はアタマでしかわからない。だが、そのひとの死をもって人はその作品に注目するものか。作品の再評価がそれから進み、作品に材を取った映画も作られた(「海炭市叙景」)。故郷の函館を舞台にしたリリカルな映画なのだろうと思ってはいたが、そのままそれを観ることも、作品を読むこともなく今日まできている(今は他の作品も映像化されているようだ)。
   ここまでのご発言は当時も一応理解していたが、勝原氏はもう一人、鬼籍に入られた方を紹介していた。それは堤玄太さんという、氏と同様、萩原朔太郎を研究していた学窓の研究会のお一人であ った。この方は病気で、44歳という若さであったそうだ。父君も同じ国文学徒の堤精ニ氏で、当方は、受験参考書などでそのお名前を知っていたので、なるほどと思った。
   実はこちらもご発言当時、わかっていたが、改めて、こういう場でのご発言、ご紹介があって、ひとは改めて、そういう人の存在を知るのだな、と思った。拙い動画撮影ではあったが、多くの人が見聞きし。いろいろの感触、感じを持たれたと思うが、一つのきっかけとして、これらもあるのだろうと思った次第である。
 

野口さんを偲ぶ会 別ヴァージョン

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月11日(水)14時38分50秒
編集済
     古典から心に残っている惜別の場面を掲出させていただきました。ま、こういう気持ちに誘われて、コピペに及んだのですね。

   その関連というわけではありませんが、デスクトップにうつしておいたビデオ、たまさか、パソコンの調子がよかったので、You tubeにアップさせていただきました。もう2年以上前なのですね。

   https://www.youtube.com/watch?v=8q3w1urZCRQ&t=167s


以下、11日深夜の追加です。
   リンク、偲ぶ会の冒頭で小生が言っていることの趣旨、ですが、要するに、昭和63年創刊の群系という雑誌は、その前昭和60年頃からの隔月の読書会(葦の会)が礎だったこと、あの頃はまだ小生らも30~40代だったけど、お一人50代で参加された方、それが野口さんだったわけで、それだけ勉強しようという姿勢だった。群系が創刊されても、毎回ほとんど欠かさず書いていたのが野口さんで(当方でも書けないときがあったのに)、それも毎号とびっきり長く、20~30ページ書かれていました。それが、269pにあるように、ご著書などになっていったわけですね。
   野口さんと群系の関わりでしたが、当方にとって、野口さんとの出逢いを作ったのは、千葉大の当時の友人の自殺でした。それが菊田求で、彼が亡くなった夜、お通夜の席に国立の菊田義孝さん(求の父)にお会いしたのですね。その席に野口さんがいらしたのです。それが今日まで続いたすべての淵源です。菊田求の自死、1975年6月20日のことでした(この日は奇しくも、太宰治の遺体が発見された日でもありました)。

※ 左翼運動と演劇をやっていた菊田求については、母校の立川高校の方が遺稿集をまとめています、
「菊田求」で検索すれば、出てきます。
 

源氏物語「桐壺」の巻

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月10日(火)18時47分52秒
編集済
      更衣が亡くなって、帝は、その母君のところに、靭負の命婦を弔問に遣わす。蓬の露を我が娘を失った更衣の母君の涙に例えるところは、ぐっとくるところである。

   野分(のわき)だちて俄(にはか)に膚寒き夕暮のほど、常よりもおぼしいづること多くて、靱負(ゆげひ)の命婦(みやうぶ)といふを遣はす。夕月夜(ゆふづくよ)のをかしき程にいだし立てさせ給うて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音(ね)をかき鳴らし、はかなく聞えいづる言の葉も、人よりは殊なりしけはひかたちの、面影につと添ひておぼさるるも、闇の現(うつつ)にはなほ劣りけり。命婦かしこにまかでつきて、門(かど)引き入るるより、けはひあはれなり。やもめずみなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、目やすき程にて過ぐし給へるを、闇にくれて臥し沈み給へる程に、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎(やへむぐら)にもさはらずさし入りたる。みんなみおもてにおろして。母君もとみにえ物も宣はず。「今までとまり侍るがいと憂きを、かかる御使の、蓬生(よもぎふ)の露分け入り給ふにつけても、恥かしうなむ」とて、げにえ堪ふまじく泣い給ふ
 

柿本人麿の長歌と反歌

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 9日(月)22時35分15秒
編集済
  柿本朝臣人麻呂、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌二首 并に短歌

天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど
あまとぶや かるのみちは わぎもこが さとにしあれば ねもころに みまくほしけど

やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ
やまずゆかば ひとめをおほみ まねくゆかば ひとしりぬべみ

狭根葛 後も逢はむと 大船の 思ひ憑みて 玉かぎる 磐垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに
さねかづら のちもあはむと おほぶねの おもひたのみて たまかぎる いはかきふちの こもりのみ こひつつあるに

渡る日の 暮れぬるが如 照る月の 雲隠る如 沖つ藻の 靡きし妹は
わたるひの くれぬるがごと てるつきの くもがくるごと おきつもの なびきしいもは

黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば
もみちばの すぎていにきと たまづさの つかひのいへば

梓弓 音に聞きて 言はむすべ 為むすべ知らに 聲のみを 聞きてあり得ねば
あづさゆみ おとにききて いはむすべ せむすべしらに おとのみを ききてありえねば

我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 情もありやと 我妹子が 止まず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば
あがこふる ちへのひとへも なぐさもる こころもありやと わぎもこが やまずいでみし かるのいちに わがたちきけば

玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば
たまたすき うねびのやまに なくとりの こゑもきこえず たまほこの みちゆくひとも ひとりだに にてしゆかねば

すべをなみ 妹が名喚びて 袖ぞ振りつる
すべをなみ いもがなよびて そでぞふりつる

                                                              巻2 207

短歌二首

秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる
あきやまの もみちをしげみ まどひぬる

            妹を求めむ 山道知らずも
            いもをもとめむ やまぢしらずも

                  巻2 208

黄葉の 散りゆくなへに 玉梓の
もみちばの ちりゆくなへに たまづさの

            使を見れば 逢ひし日思ほゆ
            つかひをみれば あひしひおもほゆ

                   巻2 20

■大意
 軽の路は吾妹子の里であるから、よくよく見たいと思うけれど、いつも行ったら、人目が多いので人目につくし、しばしば行ったらきっと人が知るだろうからうるさいし、まあまあ後になってでも逢おうと、大船のように頼みにして、心の中でのみ恋しく思いつづけていたのに、空を渡る日が暮れて行くように、照る月が雲隠れてしまうように、靡き寄った妹は、亡くなってしまったと、使いの者が来て言うので、それを聞いて何と言ってよいやら、どうしてよいやら分らず、報せだけを聞いてじっとしてはいられないので、自分の恋しく思う心の千分の一でも、なぐさめられるだろうかと、吾妹子がいつも出て見ていた軽の市に、たたずんで耳をすましてみると、なつかしい人の声も聞こえず、道行く人も、一人も似た人が通らないので、何とも仕方がなく、妹の名を呼んで、袖を振ったことである。

短歌二首
秋の山の黄葉があまりに茂っているので、迷い入ってしまった恋しい妹を探し求める山道が分らないことだ。

黄葉の散って行くとともに使の者の来るのを見ると、ああこのようにして、懐しい便りが来たのだと、妹に逢った日が思い出される。(209)


■妹が名喚びて 袖ぞ振りつる
 柿本人麻呂、妻が亡くなった後、血の涙が出るほどに慟哭して作る歌という題詞の付いた歌です。

いつも逢いたくてしょうがない、でも逢えない。
逢いたい気持ちを押さえ、次の機会にはきっと・・・。
なぜか、人目をしのんで逢わなければならない妻なのです。

そんな愛する妻の突然の訃報。
自失呆然
いてもたってもいられず、人麻呂は妻の姿を求めて妻がよく出かけていた軽の市をさまよう・・・
人でにぎわう軽の市、物売りの声や笑い声、話し込む人々。
しかし妻に似た声は聞こえない、妻に似た人にさえあわない。
どうしょうもない悲しみ・・・
軽の市の喧騒の中に立ちつくし、思いあまり
人麻呂は愛する妻の名を呼び、何度も何度も袖を振る。


■秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる
 人麿はいとしい妻が死んで葬られることを「秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる」、黄葉が茂きがため秋山に迷い込んでしまったという風に表現しています。現世から黄泉国(よもつくに)へ通じる山道が秋山のどこかにあって、その山道の遠くにはいとしい妻がいる、その山道を探すが分からないというのです。
当時は、このような事が本当に信じられていたのでしょう。

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/56.htm

 

ちょっと入院してきます。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 9日(月)19時12分49秒
編集済
  各位へ
  小生、今週の金曜、13日から1週間入院します。脚のカテーテル挿入の結果、大動脈も見ておこうということでの、精密検査入院です。ま、二泊三日の予定が少し伸びたものですが、三年前の心臓弁置換の三ヶ月入院に比べれば、あっという間ですね。
   しかし、同時並行の白内障手術の方を先にすればよかったかなと、多少感じています。視力は日毎に落ちており、左目では活字は全く読めず、頼りの右目も目をそばめて活字を追っていますが、文字の識別に以前の三倍はかかり、自然、本や雑誌、つまり活字から離れていってます。パソコンの文字はバックライトなので、比較的よく見えるのですが(本を読まず、掲示板投稿になる理由ですね)。

   ま、いつも通院している女子医大なので、毎度お馴染みです。西病棟は以前にも入り、そこのデイルームなどは何か懐かしい感じです。場所への愛着、トポスの親和は、生きる慰め、喜びになりますね。

    というわけで、ご投稿は、20日以降にお願いします(ま、龍書房さんに留置でもいいのですが、ご迷惑なので)。
 

もっと、皆様もご投稿下さい。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 9日(月)11時51分6秒
編集済
    さすが、土倉姉の投稿は、教養と品がありますね。当方のようなグチではない。

   今回のカズオ・イシグロについては、同人のなかでもだいぶ前からの読者がいらっしゃいました。メールでご本人に確認したのですが、浜松在住の名和哲夫さんです。どちらでも、次号に授賞ノートとでもして1ページ書いてくださるといいですね。

   さいきん、当掲示板は当方ばかり書いていて申し訳ないです。iPadは、ほんと書きやすいので、思いついたこと、打ってますが、どうぞ皆様も思いついたこと、よろしく。
   草原氏がホームグラウンドの、カプリチョ掲示板に書くようになり、当板にはそのぶん、手薄になりました。
  http://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs

   ま、その他、いまは次号の原稿に勤しんでいる方が多いのでしょうね。
 

『日の名残り』カズオ・イシグロは名作です。

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2017年10月 9日(月)06時50分13秒
   この度の選挙は重要ですが、冷静に選ぶためにも、カズオ・イシグロの原作と映画もご覧になってみてください。我が家ではイシグロの評価は高く、代表作は読んでいます。特に『日の名残り』は文学的悦楽の最高のものでした。
 映画の方もアンソニーポプキンスの執事役と女中頭のエマ・トンプソンが最高の演技でした。今日の休みに是非「つたや」で借りてごらんにになってみて・・・深い感銘があるはずです。

 私もケガから一か月たち、左手を駆使しての生活です。今もこうしてキーボードを叩いていますが、左手です。右手が思うように上がらない。前、横の動きに痛みが走ります。

 今回の芥川賞に関心がるので(「影裏」)何とかかきたいのですが、どうなりますか・・・

 皆さまの作品に期待してます。
 

政治というものには進歩がない。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 8日(日)17時13分27秒
編集済
     当方の前からの疑問は、政治というもんはどうして、こうも停滞、あるいは復古というものがあるのか、ということだ。今世紀になって、政治の世界は、前の時代に逆戻りしていないか。北朝鮮の旧時代的な、核ミサイル、はその最たるもんだが、それを迎える、米国も元の昔に戻ったかのようだ。マスコミも国民もみな、クリントン体制になると思っていた。それがリベラリズムの約束する平和と共存の歴史の筋道だと信じていたからである。だが、思わぬことで、歴史は逆戻りの舵を取り出した。プアホワイトの存在、それによって、アメリカ第一の保護政策がいきなり出てきたのである。この保護主義がアナクロニズムなのは、環境問題において確認された。地球の有限化の認識、そうして獲得したグローバリズムの視点を、トランプ政権はないものにした。前の政権が表明した段階的非核化のもないがしろにした。せっかくの達成を元に戻したのである。
   あるいは英国のEU離脱。欧州の一体化は、西洋近代の夢ではなかったのか。欧州石炭共同体から、EEC、そしてEU、へと。歴史はリニアに進むかと思えたのだったが。
   歴史に逆戻りはあるものなのか。例えば技術革新に後戻りはふつうはない。獲得したより優れた技術を捨てて、以前の非効率な、ムダな少生産に戻るか。だが、歴史にも、前進ということはあるはずだった。進歩主義の歴史観はそれだった。
   前世紀の前半、植民地争奪の帝国主義がその最終段階、帝国主義同士の衝突・殲滅戦を迎えその成り上がりの枢軸国の壊滅的破壊を経て、あの平和と民主主義を得たのある。植民地がそれぞれ独立し、大きな世界戦争はとりあえず打ち止めになった。これは歴史的にも空前のことではなかったか。民主主義的な復興は敗戦国にまで浸透し、国連は大きな世界的組織になり、食糧生産もはかられ、産業や民生の基礎となる技術革新もはかられ、豊かな社会を人類は所有することが出来たのである。特に我が国やドイツは有史以来ともいえる平和と繁栄をわがものにした。
    だが、唯物史観は足元(?)から揺らぎ出した。北朝鮮、金王朝の存在である。当初、抗日戦争に打ち勝って朝鮮民主主義共和国を建国したときは、ほんとうに幸福な共和社会が生まれた、と信じた人は多かろう。我が国でも、北をそのように見ていた人は、いわゆる民主勢力にいた(典型的にそれがうかがえるのは、映画「キューポラのある街」だ。あそこに見られる北朝鮮は、王道楽土のようだった)。
   ま、金王朝というのは歴史の外れコマ、いわば例外中の例外、歴史の鬼っ子なのかもしれない。だが、我が国、この日本は果たして歴史は進歩の道を進んでいるか。
  戦後の日本政治は、確かに一時、地方における革新派首長の誕生が続いた時があった。しかし、それも80年代になると、景気や世界的なうねりもあって、消滅していった。中央政治においても一時は細川政権など、非自民党政権が出来たが、短い時期でしかなかった。
   今世紀になって小泉政治は上からの改革そのものだった(そも郵政改革は何だったかわからない)。ましてや竹中経済改革は、戦後続いてきた雇用の伝統的温情を切り裂き、派遣を雇用契約の根底に据えるトンデモ改革だった。これで若者を中心に雇用の不安定、低所得が恒常化ぢた。これの余波は大きく、結婚が出来ない、いわゆる少子高齢化、という将来の国家的・民族的危機まで招来する危機をはらむことになったのである。
   わが身に寄せて感がてみればわかりやすかろう。年収300万円未満だと、住宅の所有も、結婚のための貯蓄も出来ない。これは好きな人と生涯一緒に生きる、という、ヒトの根本的な基礎を壊したと同然である。前世紀においては好景気もあったからまだよかった。しかし不景気が続いていた今世紀初頭以来、好況の恩恵もなかったのである。いまの若者が草食系になり、身近なゲームやアニメに夢(?)を託すのもわからないではない。たまさか、インターネットの普及、携帯でLINEを楽しむなどは、本質的な問題ではなかろう。本当の幸せのための政治は成り立ちうるのか。東京オリンピックを成功させよう、は国民のための政策なのかー。
 

政治の平板、文学の豊饒

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 8日(日)16時15分13秒
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     先ほど、記者クラブ主催の党首討論を、本の整理をしながら、二時間見ました。まあ、どういうのでしょうね、何かはっきりしない。その前のTVタックルの快刀乱麻の意見の飛び交いに対して、きれいごとで終わった感じ。
   いつも思うのですが、政治やその討論って、どこか面白くない。いつも情勢論に跼蹐した、いわば迎合的な現実論(それが本当に現実的かはおいて)ばかりが出てくる。もっと高邁な、高いレベルの政治議論ってないの、と思う。むかし、プラトンやロック、デカルトなどは高い理想郷をとうとうと説いたではないか。ー。憲法に関しても、北朝鮮の脅威論からのリアクションでしかないし、護憲勢力も、改憲を許すなの頑固一点張りで、そこにもう少し何か創造的な何かがないの、と言いたくなる。

   文学の方が、はるかに面白い。いま、特集しようとしている、明治大正期の文学にしたって、浪漫主義から自然主義、明星からスバル、そして白樺派といろいろある。過渡期の作家はもっと面白い。国木田独歩などは、「武蔵野」を書き、「源叔父」の死などの浪漫的な作品を書いているか、とおもうと、日露開戦争にあたっては、初のグラビア誌を刊行し、戦意を煽るし、また晩年などは、「窮死」を書いて、自然主義の橋渡しをしている。そも、浪漫的な資質の作家詩人だったのが、これほど時代にほんろうされたのか、とも思える。
   明治の疾風怒濤は、大逆事件でその頂点を迎えるが、体制の締め付けに、人々がどう反応したか、
メディアと文学者、そして法曹界と、それぞれみてゆくと、もっと面白い。今日のメディアの玉虫色と違って、新聞界などは征露一色であった(唯一反戦だった「萬朝報」も、参戦に切り替わった)。国民の目線で書いて、ナショナリズムを醸成した(ま、それの是非はおくが)。
   大逆事件一つとっても、それに文壇はどう反応したか、は興味深い。その事件の中心を覗く位置にいた森鴎外の反応、遠巻きに新聞論調から、幸徳秋水を見張る刑事や記者を書いていた漱石(「それから」など)。むろん、啄木の動向は日本近代文学の焦点の一つともいえる。対して知識人はどうだったか。検事や予審判事たちのように、法曹界はそんな時流に乗る迎合的なやからばかりだったのか。司法の独立なんてのは当時はなかったのか。ま、帝大七博士の日露開戦提言もあるくらいだから、当時の学問は、その独立もあったものではなかろう(だから逆に中江兆民らはエライj..

  翻っていまの政治、政局論議をみるに、彼らから日本近代史の事柄が口に出ることはまずない。むろん、明治憲法下と、いまの平和憲法下では、議論が違うということもあろうが、歴史的事項を取り入れた方が議論に深みが出るのではないか。
   皆、法学部や政経学部を出て、法律や政治の手続きの技術には長けているのかもしれない。しかしそれらをささえる、もっと根本的な知識・教養が足りないといわざるをえない。皆、文学部を一度は通って勉強して、といいたいが、そうでなくとも、読書によるロマティシズムの情勢は必要だった。
   今さら学生闘争の時代のことを言うのはためらいもあるが、当時の標語、「左手朝日ジャーナル、みぎてに少年マガジン」、は言いえて妙なことだった。それらを両手に知識と理想を醸成したのである。
   北朝鮮の核・ミサイル、に対抗して、我が国も軍事武装を、というのはあまりに情勢に跼蹐した前世紀的反応である(思考ではない)。

 

情けない現下の政治情勢

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 7日(土)21時54分52秒
編集済
    リベラルや左派がいつの間に、マイナスイメージになってしまったのかー?

   新大久保あたりから始まった、ヘイトスピーチ、最近は多少、鳴りを潜めているが、こんなものは、戦後の風景の中では、以前ありえなかったことだ。我々日本人が過去の戦争の中で、朝鮮半島や大陸のひとにどんなことをしてきたか、その事実と反省を出発点とするなら、ヘイトスピーチや、リベラル・左派がマイナスなんてことはないはずだ。

   たしかに、愛国の心や伝統を重んじようするのは、大事だ。しかし、現下の政治情勢はうさんくさいの一言である。小池氏の党が、いみじくも希望の党といったが、このネイミングに、そこに蝟集する人々は違和を感じなかったのか。特に民進党からの元議員は、自分たちの「民主」党という、政治的なアジェンダを投げ捨て、何の意味の希望ににじり寄ったのか。民進党ではダメだから、都議選で人気だった新政党に相乗りする、政治家としてなさけなくないか。
   希望の党と維新の党は連帯するという。今日のニュースに、銀座で小池氏と、大阪の松井知事、名古屋の河村たかし市長がそろって演説したとある。ひとこと、うさんくさい。この大阪の維新の会、の松井一郎ってやつは、そのもったいぶった話し方、人品から、信用できない。大阪府民はよくあんあものを首長にいただいたな、と思う。
   この国の戦後は、戦争への反省、自由と民主主義を原点としてはじまったはずだ。戦後文学も安保闘争もその延長にあった。しかし時は流れ、衣食立って礼節を失う、ではないが、そうした戦後の原点も、戦後文学も知らない脇世代が増えてきた。マンガとげーむ、暴力とセックスがメインのそんな仮想世界に幼い頃から身を浸してきた世代に、本当の歴史、自由と民主主義のを教えてこなかったのも、その上の世代の責任であろう。
   北朝鮮の動向がやばいから、憲法を改正しよう、軍隊を増強しようでは、あまりに情勢論に跼蹐した姿勢である。そこには政治家としてのしっかりした信念も見識もない。もっと深く議論すべきである。

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断捨離される党はどこか?

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年10月 7日(土)20時32分6秒
編集済
  ~「断捨離入門」とか、「捨てる!」とかいうタイトルの本が、
本棚にどんどん、増えていったりして。

               *

■立憲君主党、じゃなかった立憲民主党、
数日でフォロアー15万で、自民、希望の党を抜いて、トップに。


一方で、前原は、京都で批判続出。

【地元京都で前原誠司に「帰れ」コール 2017 10 4 】
https://www.youtube.com/watch?v=_VI0vzWmUg0
■演説している内容は、モリ・カケ問題で安倍批判など、枝野と同じだったりする……。
そういえば、せっかくあの老獪な鄧小平が、「解決しないままにするという解決策もありえる」とかいって、
わざわざ曖昧にしておいた尖閣問題のとうとつな火付け役も、確かこの男だったような。

 

書物の整理

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年10月 7日(土)08時59分5秒
  退職してやりたかったことは文庫の整理で、著者別アイウエオで並び替えました、一週間かけて。そして五年たつとまたまた乱雑になったので先月にふたたび並び替え。出ました、二重買い、もったいないことをしてしまった!!
もう読まないであろう全集は捨ててしまいました。なにせ狭い自室なので本はなるたけ増やさないように心がけています。それでもジワリジワリ増えてきて今はパソコンデスクに侵入しようとしております。
捨てるべきか置いておくべきか。本の断捨離は難しいですね。
 

きょう、本・雑誌の整理やりました。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 6日(金)19時06分35秒
編集済
    今日は雨だったので一日部屋に閉じこもり、本の整理をしていました。
  主に雑誌の大整理でしたが、まぁ、廃棄する本や雑誌のヤマ、七つもつくりました!これはわが人生で初めての快挙です!
   なぜ、整理しだしたか、というと、野口存彌氏の年譜を作るにあたり、論文・小説などの掲載雑誌を調べるためでした。「群系」以前に定期的に関わっていた同人誌には、主に菊田義孝氏と出していた「眼」というのがあり、研究誌としては、父君・雨情研究の、その名も「枯れすすき」というのがありました(これは存彌さん主宰で費用も持っていました)。ともに前世紀に、出していたのだが、当方にはその度にいただいていたものです。
   その他、定期刊行の雑誌は、この際、廃棄するものと、とっておこうとしたものがありました。当方がほとんど関わっていない同人誌は申し訳ないが、処分。逆にあまり投稿はしていなかったが、「みとす」と「芸術至上文芸」は取り置き継続になりました。その他、いい雑誌だと思える「人物研究」誌や、崎村裕氏主宰の「構想」誌も取り置き。その他、「白雲」や「風」、「木偶」、「陸」などは薄いし、現在進行形なので、取り置き、ですね(同人、関係者のは捨てられない)。
   今回、大処分したのは、「群像」や、「文学界」などの商業文芸誌、受験関係の雑誌や問題集、そして、古くなって使えないパソコン関係のムック本、などですね。  取り置き継続になったのは、「國文學」「解釈と鑑賞」ですね。もうこれらは稀覯本、ですね。
  いやあ、昼過ぎから、今ちょっと前まで、我ながらよくやりました。ふつうなら腰が痛くなって、一時間もできない作業でした。

   当方は、片付けをしない方ではないが、普段の生活ゴミと違って、本・雑誌類はそれぞれ思い出があって捨てられないのである。とくに、論文や研究批評類は、いつか参考になるだろうと思って、捨てられない。
   しかし、野口先生は捨てられないタイプの最右翼で、大きなお家には汗牛充棟だった。それでも一軒家、書庫まであるからいい。当方始め、集合住宅住まいの方は、整理整頓、処理廃棄は不可欠でしょう。今回、目的があったので、この様うに気張ることが出来た。やはり、処分には、明解な理由付けは不可欠かも。
 

「群系」39号投稿見込み

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 5日(木)20時28分43秒
編集済
  39号原稿、投稿の見込み
                          (現在までのところ)
《特集》日本近代文学の展開
  島崎藤村
  夏目漱石
  頭山  滿
  没理想論争について
  国木田独歩
  鈴木三重吉(あるいは与謝野晶子)
  戦争×文学
  田山花袋

《野口存彌と日本近代文学》野口論文の紹介・批評
  森   鴎外
  夏目漱石
  芥川龍之介
  佐藤春夫
   鴎外「大塩平八郎」について
   明治期の詩人について
   野口雨情
   野口さんの思い出
   年譜と家系図

《自由論考》
   島尾敏雄
   石原吉郎
   伊藤桂一
   村上春樹
   久坂葉子

《創作》
   中編
   小品
   長編
   その他、ノート類数編
 

P(リン)こそが寿命を決める!

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 5日(木)19時15分5秒
編集済
     さて、腎臓が生命の寿命に関係しているという話だが、これは要するに血液中の電解質を腎臓が微妙にバランスをとっていることに関係する。例えば血液中のNa(ナトリウム)濃度があがれば、血圧はあがる(これはレニン以前の血圧上昇の仕組みで、Naが濃くなれば、それを薄めようと、水を飲む。すると、全身の循環血漿量があがり、血圧があがるのだ)。
   同じくK(カリウム)も腎臓が量を調節している電解質で、Kは、少なくとも多くとも、心臓の働きをおかしくする。バナナだとか、Kの多い食べ物を腎不全の人が多く摂ると、いわゆる高カリウム血症となって、最悪の場合は心停止をきたす。健康な人は、Kを多く取っても、腎臓が排泄してくれるのだが。
   このように電解質は人体に影響を及ぼす。ここで、NaやKほど急激ではないが、人体に及ぼすものとしては、CaとP(リン)がある。Caのことは骨の問題もあるし、なんとなく納得できよう。問題はPで、今回の番組でも、これが寿命に関係すると言っていた(当方もリンのコントロールが大事なことは、さんざ言われてきたが、寿命に関係するという主張は驚きであり、身が引き締まる思いだった)。
   どういうことか。実は血液中のP濃度があがるにつれ、寿命が短くなるというのだ。リンは骨の成分でもあり、一定の濃度は必要だが、過剰になると、血液中のカルシウムと結びついて、骨以外のところに沈着する。いわゆる異所性石灰化、だ。これが血管に起こると、血管の硬化、すなわち動脈硬化をきたす。これが悪いことは諸氏においても理解されよう。硬いということは、脆いということで、この硬化が心臓に起これば心筋梗塞であり、脳に起これば脳卒中になる。
   透析患者は老廃物は透析中に排泄する。透析機の能力は腎臓の何倍もあるが、残念なことに、透析は、48時間のうち、たった4時間である。後の時間は、食べたものなどの不要なものは排泄できない。どうするか。ここで登場するのが薬である。?高カリウムには、カリウムの吸着剤、そして、リンについては、リン吸着剤がある。いわゆる炭酸カルシウムがそれで、食事のたびに、その白い粉(黒板の白い粉と同じだ)。これをきちんと飲むか否かで、余生を決める。当方は理屈を知ったら、基本的に守るほうだ(だから34年も生きている)。
   血中のリン濃度が寿命を決めているというのが番組の主張で、なるほどと思った。
   しかし、リンというのはあらゆる食品にあるもので、特に肉類や牛乳など、栄養価が高いとされるものは、比例してリンも多く含まれている。ま、健常者は、腎臓から排泄されるが、腎不全患者は注意しなければならない。それらを多く取り過ぎなことと、炭酸カルシウムをしっかり服用することである。
   最近は医学が進歩して、石灰化した動脈を、血管の内部から削るという治療がある。それがカテーテルで、鼠径部などから、レントゲンで患部をみながら、ローターで削るのである。当方は数年前にその治療を受け、「120パーセント、いい」と医師が言ったように、心筋梗塞は完治した。ま、今度はちかく、脚部にカテーテルを入れる予定である。

   健康な腎臓を持っているには何よりである。しかし、それをまったく失っても現代はその代替のことがあるのである。番組では透析者のことには言及しなかったが、当方はそのいい見本になりたいと思っている。なにせ東京女子医大は我が国の腎臓病治療・透析の草分け、おそらく世界的にも最高水準の施設なのだから(医師も技師も看護師も、皆素晴らしい)。当方が、日々元気でいられるのは、そのおかげである。


 

腎臓は寿命に関係している

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年10月 5日(木)14時01分22秒
編集済
  という、NHKスペシャルを、昨晩見た。ホストのタモリも最初言っていたように、おしっこを作るくらいの地味な臓器という認識が一般だが、どうして、腎臓は生命調節を身体の各臓器と連携して果たしている、重要な臓器だということが、今世界中の研究者が言い出しているようだ。
   腎臓が尿を作るだけでないことは、腎不全で長いこと、この病気を患っている当方には、周知のことだ。特に血圧に調節に関係していることは、もう半世紀も前からわかっていた。心臓が全身に送る血液のうち、四分の一が両方の腎臓に行く。それで全身からの老廃物排泄をしているのだ。そこでなんらかのことで、もっと排泄をしなくてはならなくなった時、腎臓はどうするか。すなわち血圧を上げて、腎血流量をふやすのである。それで役割を果たす。そこで腎臓から分泌されるのが、昇圧物質レニンである。
   排泄する量は多くなくとも、腎臓に障害がでると、腎臓はレニンを出す一方だ。すなわち腎炎などなると、血圧は驚くほど上がる。腎臓病か否かの診断にタンパク尿とこの高血圧が大きな目安となるわけだ。腎性高血圧は、いわゆる普通の高血圧と違って、そのレベルがひどいのと、治療が当時は難しかった。血圧値が上が180はざらで、200以上も多い。当方は一時250という値を出したことがあった。幸い、20代で若かったせいか、脳卒中などにはならなかった。
   70年代当時、千葉大病院にかかっていたが、処方された降圧剤、アルドメットもアプレゾリンも全く聞かなくて、患者としての悩みだった。がここで福音となったfpが、新薬の登場だった。開発されたアダラートは劇的にきいた。いまもロングアダラートなど、長時間効くのが出ていて、高血圧治療のおそらく定番である。
   この高血圧、腎保存療法中は、コントロールが課題だったが、ついに腎機能が10パーセント以下、透析導入になると、この血圧は穏やかに下がって、140くらいになる。ま、それでも、腎臓からレニンは出ていて、一定のレベルを維持しているのだ。
   透析になっても、薄い尿でも出ている初期はいい。それが半年もすると、腎臓の糸球体がいわば目詰まりして、尿が出なくなる。一日で2リットル出ていた尿がでなくなれば、当然水分制限が課される。二日に一度の透析四時間で、まあ3リットルは除水されるが、それ以上引くとカラダ全体への負担となる。
   さて、問題は透析が長くなって、腎臓がその機能を果たさなくなった時はどうなるか、である。二〇年以上の透析になれば、腎はほぼ死に体、である。人によっては、後々腎癌になるかもしれないので、クタクタの腎臓を摘出してしまう。小生もとうに、両方の腎を取ってしまった。すると、レニンの出どころがなくなったせいか。血圧が100以下になって、帰宅がしんどく大変だった時があった。だが、人間の体はよくしたもので、そうなったら、カラダは恒常性維持のために、腎臓以外から、レニンを出しだしたそうである。透析34年の当方は、いま130/70、脈も65くらいと、適切になっています。

   さて、これは実は透析中に打っているのです。肝心の寿命の問題はまた、後で投稿します。
 

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