teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. パソコンクラッシュ(>_<)(6)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


"聖し、この夜"

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年12月25日(月)08時49分48秒
  クリスマスソングの定番"Silent Night"。
サイモンとガーファンクルの歌唱によるこの名曲は素晴らしい。
https://youtu.be/_2AckZodB1c
 
 

Only You. は意味深な曲ですね。

 投稿者:管理人 iPad 235  投稿日:2017年12月25日(月)00時59分14秒
編集済
     調子に乗って、外国の歌をコピペでまた紹介。
the platters  による、Only  You. です。

https://m.youtube.com/watch?v=L0mWVVSkYHo

歌詞
Only you can make all this world seem right
Only you can make the darkness bright
Only you and you alone can thrill me like you do
And fill my heart with love for only you

Only you can make all this change in me
For it's true, you are my destiny
When you hold my hand I understand the magic that you do
You're my dream come true, my one and only you

Only you can make this change in me
For it's true, you are my destiny
When you hold my hand I understand the magic that you do
You're my dream come true, my one and only you

    ついでに、この曲の日本人ヴァージョンも。
(こちらも面白いですよ。後の方の歌詞付きの歌い方で、歌詞の意味深、がわかりました)ーだからアップしたくなりました。

https://m.youtube.com/watch?v=7HP1Z8GzfK4

https://m.youtube.com/watch?v=P6JGtwkh-NY
 

イブの夜と、七夕の夕べ

 投稿者:管理人 iPad 235  投稿日:2017年12月24日(日)22時57分11秒
編集済
     きょうは、考えてみればクリスマスイブでしたね。今さら我々がクリスマスを祝うなんてことはないのですが、よく歌われるクリスマスソングは、どこかうきうきしたところと、荘厳なところがありますね。ここで、それらの歌に注目したい箇所がありますので、それをあげてみますね。

White Christmas
ケリー・クラークソン
歌詞
I'm dreaming of a white Christmas
Just like the ones I used to know
Where the treetops glisten, and
Children listen to hear
Sleigh bells in the snow

I'm dreaming of a white Christmas
With every Christmas card I write
May your days be merry and bright
And may all your Christmases be white


たなばたさま
作詞/権藤はなよ 補作詞/林柳波 作曲/下総皖一

笹の葉さらさら
のきばにゆれる
お星さまきらきら
きんぎん砂子

五色のたんざく
わたしがかいた
お星さまきらきら
空からみてる

   ぜんぜん季節は逆ですが、季節のめぐりを祝い、あなたの幸せを願う点は共通しています。
ほんとに偶然かわかりませんが、たなばたさまの、「五色のたんざく  わたしがかいた」とあるところと、
White Christmas の「With every Christmas card I write   May your days be merry and bright」
は、ともに、わたしが書いたというところが同じで、単なるお祭りだけでなく、願いがこもっていていいなと思いました。
 

野口存彌氏の三鷹生涯講座

 投稿者:管理人 デスクトップ 189  投稿日:2017年12月24日(日)18時11分35秒
編集済
   年末の部屋の整理をしていましたら、またまたディスクが出てきました。
野口さんの武蔵野大学生涯講座の一つです。いくつかあったのですが、これは太宰治についてです。
三つで一時間半です。最後に、同人らと三鷹駅へ歩いてゆく野口存彌氏と聴講していた同人の姿があります。
 他に佐多稲子のものもあったですが、ちょっと画質が今一つでした。


その1
 https://www.youtube.com/watch?v=g2UmyM-dMj0&feature=youtu.be

その2
https://www.youtube.com/watch?v=Wii7jwuu_Ro

その3
https://www.youtube.com/watch?v=gKt-3QXU4h4&t=70s

講義が終わって、三鷹駅へ歩く野口存彌氏と、同人一行の様子が終わりにあります。

 
 

純…文学?

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年12月23日(土)21時27分7秒
編集済
  ■日本の「純文学」って言葉、いつ頃発生したんですかね。
明治?
大正?
円本ブーム以降?

たしか漱石も使っていたけど、
その用法は「学問的ではなく、純文学的に」というような言い回しだったと思う。
つまり、「大衆小説 - 純文学」の対比ではなく、「学者的仕事 - 小説家的仕事」の意味区分だったような。

■この「純文学」という言葉の「純」が、クセ者。
「文学」だけで十分なものを、なぜかそれをさらにpurifyしなければならないかのように、洗脳されてきた。
その結果、
日本の純文学では、生き生きとした俗物が描けない。
なぜかというと、超俗的な人間じゃないから。生臭い、欲っ気のある人間だから。
作者の想像力が、奇妙に禁欲的に、金縛りに、なってしまった。
(~ヘンな親分が支配する家元制度的同人誌の世界では、まるで作為を凝らしてはいけないかのような同調圧力が漂う。)

しかし、俗物を、俗物らしく客体化して、イロニーやユーモアを含めて造型することは、
決して俗ではないのであって、
それはすでに、"通俗"的な精神の所産ではないのであって、
それこそが、小説の本道……なのではないでしょうかね。つまり、バルザック。


同人誌の合評会でも、
あまりに氾濫しすぎている造型以前の水墨画的、鉛筆画的人物に、むしろ馴染み過ぎてしまい、
いつのまにか、その、議論もしない、自己主張もしない、庭木を眺めて独り言を言っているだけみたいなかそけき人物の
しんみりとした風情こそが、純文学小説のリアリティであるかのような感触にならされ過ぎて、
逆に、輪郭線の強い人物は、"類型的"だとか批判される始末。
それを言っているご本人、類型の意味がまるで解っていない。むろん、典型の意味もわからない。
十年一日の如く、身につまされるまでの"しんみりさ加減"、
これぞ、同人誌純文学の崇高なる美学の極意らしい!

~結局、
横光利一の『純粋小説論』の問題提起から、何も変わっていないのでは?


----------------------------------------------

《追記》
しかも、この横光の『純粋小説論』の"純粋"という語彙にも、またまた、物凄ォ~い、モンダイがある。
なにせ、内容としては「不純文学小説へ!」という問題提起なのだから。

 

通俗小説t芸術派の娯楽性を比べてみよう

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2017年12月23日(土)16時36分28秒
   倉橋由美子のいわゆる「桂子」さんもの。の数編の長編小説がある。代表的なものは『夢の浮橋』だが、この作品、物語としては手の込んだ作品で通俗に陥る穴が随所に出て来る。近親相姦、スワッピングなど。通俗小説家が好んで描いてきた主題だ。ところが、ヒロイン桂子はじつに優雅に通俗を飛び越えてゆく。なぜだ。それは古典。古今東西の古典が物語の底をささえ、光をはなっている。文体しかり。構成しかり。究極、小説を引っ張ってゆくのは文体だろう。文体は伝統からつくられる。倉橋がデビューしたころ、カミユ、カフカの物まねだといわれた。それはそうだろう。彼女はカミユの文章を何回も引き写したという。それは、小説家の習作時代にはだれでもしたこと。それを経て自分の文体を発見してゆく。読者は一人の作家の文学の足跡を感じながらリアルタイムの作品を読んでゆく。それも文学を味わう一つの楽しみではないだろうか。  

燃え上がる文学論

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2017年12月23日(土)14時45分16秒
   文学論で燃え上がり取っ組み合いの喧嘩したのは、何時の頃であったか・・・実感できるのは60年代の政治と文学の時代だったか。柴田翔『されどわれらが日々』の登場人物に扮して演劇的議論をしたのも懐かしい。同人誌なるものを初めて作った仲間である。卒業後は一人は新聞社、一人は出版社へと就職した。新潮社に就職した彼は井伏の担当で、今でも井伏の生原稿を持っているとか。そんな話を今になっても話題にできるのは何よりの宝。
 結局、文学の衰退は「言葉」の衰退に他ならないかと思っています。
 文学に代わる他のものが台頭してきたからとの言い分があるが、私は「言葉」自体の衰退が原因と考える。細々と続いている現代詩に代わって中島みゆき、桑田、加藤登紀子などのシンガーソングライターのライブが満席になる要因を考えてみよう。大衆性と文学性を兼ね備えた上質の内容をもっていると。純、純、純とは何か?谷崎、円地を愛読してきた身としては、「純文学」
そんなもの!!といいたい。「純文学」イコール「私小説」という議論のどうどう巡りか・・・
 

プロとアマの分断

 投稿者:管理人 iPad 992  投稿日:2017年12月23日(土)10時43分20秒
編集済
  〉いわゆるプロ批評家はあまりあてにしないほうが良いように思います。彼らはプロの小説家の評価業務に忙しくて時間が無く、アマチュアに無関心であろうと思われるからです。

   ここにははしなくも、プロとアマとの分断が語られている。戦後このかた、この国の文学は、思えば大出版社・新聞社に牛耳られてきた。五大文芸誌、つまり「群像」「文学界」「新潮」「文芸」「すばる」ー、これらに掲載されたものでなくては、優れた文芸作品とはみなされない、文学史に残るものではない。そういう感覚が、文学への見方として、一般のみならず、文学に関心あるもの、文学者にも染み付いてきた。
   ここで取り残されたものが、同人誌とそこに掲出されてきた作品である。同人誌からの登場、例えば芥川賞などは、74年の中上健次が同人誌「文芸首都」から出た最後の作家となって、以降、芥川賞の候補は、先の五大誌掲出の作品ということになってしまった。同人誌からメジャーへ、の道は閉ざされたのである。※これが、戦前とは違う大きな特徴である。
    明治大正以来、この国の文学を牽引してきたものは、同人誌であった。「文学界」「明星」「すばる」「白樺」「新思潮」ー名だたる雑誌は皆同人誌だった。それを突き崩したのは、菊池寛創業の文藝春秋社だった。戦中のペン部隊派遣も含め、この社の功罪は改めて論じるべきだろう(はしなくも、先の芥川賞は、この社が主催している)。
   これは、大正の大震災以来の近代化・情報化の走り、いわば前時代とは違った転換期の現れの一つであろうが、これがさらに資本寡占と相まって、戦後、ついにこの商業主義的寡占が、文学の登場の舞台にまで及んだのである(戦後の「近代文学」誌、これは名だたる戦後文学作品をその初期に生んできた同人誌であったが、これもついに、昭和38年に休刊の仕儀となった)。

   それでも、一般の文学熱は下からあまねくあったので、全国津々浦々に、文芸同人誌なるものはうまれたのである。しかし、如上の経過のように、これらに掲出の文芸作品は、上に吸い上げられず(実際、この欄で紹介したように、商業誌の同人誌紹介は風前の灯にまでなって)、文学作品は、一層、二つに分断されてしまった。
   唯一の救いは、インターネットでの紹介であろうが、こうした商業メディアによる文学の寡占に文句を言う、評論家、文学者はとんといなくなった。なぜなら、彼らもそうした大メディアに乗っかって彼らなりの文学活動を続けているのだから、今さら下にある(と見なされる)同人誌のことに触れるのは、今の自分の足元を崩すかもしれないので、そうした藪蛇は君子、あえてしないのだ。
  ※ 芥川賞に5度もノミネートされながら、ついに自裁してしまった作家に佐藤泰志がいる。これこそ、このプロアマの分断の犠牲例といえるのではないか。それでも小さな同人誌からノミネートされた経緯があっただけいいかとも思われる。その原作になる「海炭市叙景」は、佐藤の故郷・函館を舞台にしたもので、2010年に映画化された。

https://m.youtube.com/watch?v=9XtAxc-0gF8

 

管理人さんの嘆きに思うこと

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年12月23日(土)10時01分36秒
編集済
  「群系」の送付先一覧を見て思うことですが、いわゆるプロ批評家はあまりあてにしないほうが良いように思います。彼らはプロの小説家の評価業務に忙しくて時間が無く、アマチュアに無関心であろうと思われるからです。それと昔の批評家と異なるのは(一部の現代詩人もそうですが)やたらに思想的に小説批評を延伸して語りがたる傾向に「いまだに」あるからです。現代フランス哲学が日本を軽薄に席巻して以来、さっぱりご無沙汰の、熱く語られたそれらの理論と言葉、いわゆるディスクールは衰退しています。(一部の嗜好家、一部の大学内でも閉じこもり研究家たちの間ではひっそりと探求されていますが・・・。現代詩手帖を見るにつけ「まだこんなことをしている」とこの40年の虚無が判っていない。停滞です。)だからアマチュア文学どころではない。

また一方メジャーの文芸誌はかなり前からそれら版元のブランドのために印刷されている紙ごみに相当していますから、寄稿する批評家諸氏もなんとなくわかっているのではないかなと勘繰りたくなりますね。稼ぐがための寄稿のように見えて仕方がありません。真実「文学は”自分にとり”何なのだろうか?」と考えるプロの作家はいったいこの世にいるのかなと、本屋で立ち読みするたびに思います。もちろんすべての作品がそうだとは思いませんが。

管理人さんのジレンマは「群系」がプロの批評家に読まれること、評価されること、そして購読されることが遅々として進まないことでしょうが、まずそれはどうかな?と思います。

提案ですが――Amazonなどのネット通販を利用してみてはどうでしょうか。登録料と、62円かかりますが感想のための葉書を注文あるたびに添付するのです。売ることの理由のみでなく「読まれる可能性」という理由。
もうこうなったら「草の根」的に工夫するしかないのではないでしようか??
 

「文学」の奥深い魅力とは。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年12月23日(土)09時00分35秒
編集済
  〉あまりその魅力の核心部分については、その「毒」や「恐ろしさ」の部分も含めて、
語ってこなかったんじゃないですか。とくに、映画やら、ゲームやら、アニメやら、流行歌やら、諸々の他のエンターテインメント類と、その面白さ、魅力が、どう違うのか。

   文学の「魅力」はどういうものであるのか、確かに正面切って語ってくれた評論家なり、文芸研究者の文章はあまりないのかもしれない。だが、われわれはどこかの感覚で、文学が、そこらの「映画やら、ゲームやら、アニメやら、流行歌やら」とは絶対違う、という自恃の気持ちを抱いて、文学に関心を抱いてきた。どこがちがうのか。
   ここで当職がいうのは、いわゆる「純文学」であって、推理小説や、娯楽小説の類いではない。確かにそこには、批評家・評論家が持していたような、「軽蔑」の気持ちがあったかもしれない。君らがただ楽しんでいるばかりなのと違って、文学に携わるのは、人間の生き方、社会のあり方まで問うのであって、いわば哲学・思想も内包されている。なまじっかなことゃない、知的にハイブロウなのだ。
   正面切って、こんなことを開陳する文芸批評家は今さらおるまいが、確かにそんな部分、気負いがあったかもしれぬ。いわば、皆がやれぬことを俺らはやっているのだ、と。

   しかし、70年代までならともかく、それ以降は、先ほど上げた推理小説や、映画や、アニメなど、前は単なる娯楽として扱っていたものに、いわば、「文学」風に対処する感覚が見られるようになってきた。これは、先の気負いの関連からのいうとどう見るのか。気負いをおいて、いわば自分の関心を素直に出せる環境が出来てきた、今までの純文学だけでなく、今までは軽んじられてきたもの、それをいわば純文学風にアレンジすれば、正面切って扱えるのでは、とそんな気風が生まれてきた、
   ま、これは、情報化社会の進展とともに出てきた状況であって、いわば自分の考えを、今までの文芸誌や研究誌などではなく、ブログなど、簡単な手段で公にに出来るようになったことと関連しているかもしれない。いわば、「文学研究」の大衆化、一般化、というものか。

   こういう点から考えると、いわゆる文学の衰退、相対的衰退はわかる気もする。いわば情報化の進展に伴って、他の面白いものが、とりあえず目につきやすくなったのである。映画もパソコンで気軽に見られる。スマホやタブレットでファッションを検索したり、街のどこで面白いことがあるのか検索する楽しさで、その瞬間瞬間を費やせるー。

   しかし、それでも、文学のもっと奥深い魅力は、こうしたトランジャントな気やりとは違うものとしてある。われわれはそれを知っている。それを説くべく、文芸同人誌、をやっているのだ。

http://9301.teacup.com/douzinnnzassi/bbs

 

管理人氏の嘆きへ

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年12月23日(土)07時24分57秒
編集済
  ■文学を"真面目"に研究されている方々が、
あまりその魅力の核心部分については、その「毒」や「恐ろしさ」の部分も含めて、
語ってこなかったんじゃないですか。
とくに、映画やら、ゲームやら、アニメやら、流行歌やら、諸々の他のエンターテインメント類と、
その面白さ、魅力が、どう違うのか。

個人的な経験からも、「文学とは何か」というタイトルの本は多いけれども、
著者の知識やウンチクの披露だけで、肝心の文学とは何かが、わかったためしがない。
~巷の匂いがしない。
 人間の血腥さが伝わらない。
 散文を通した詩がない。
 教員室臭ばかりする。
あるいは、批評家・評論家は、小説や小説家を軽蔑してみせることから、始まっている。


>どこかの大学の職分につけば、もう文学とはおさらば、そういう人が多い気がする。
■それが目的のすべてなのでは――。


-------------------------------------------


掲示板小説
関谷雄孝『泡沫のキリスト』、いよいよ主題が明確になってきました。
http://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs




 

デモクラTVの中継です。

 投稿者:管理人 デスクトップ  投稿日:2017年12月22日(金)21時03分57秒
編集済
      内田誠さんからのメールです。

今夜8時~10時
「内田誠さんのラジオ、ウッチーのデモくらジオ」です。
この番組はデモクラTVのトップページからどうぞ!
『デモクラTV』  

http://dmcr.tv/

 

発行部数を減らすことも。

 投稿者:管理人 iPad 890  投稿日:2017年12月22日(金)17時56分40秒
編集済
    このところ、会費納入がさっぱりである。昨日一通、今日も一通、で、こういう方は常連の会員の方で、新規の方は本当に少ない。あまりこう言う事実を公けにするのは、執筆者の手前控えてきたが、今回がっくりしているのは、野口文学特集を組んで、このことに注目していただくために、「挨拶文」なるものを同封し、ついでに購読会員にできればなってください、とお願い文と振込用紙を入れておいたのだが、さっぱりである。
   印刷・発送経費もずっと赤字で、これらは累積しているので、方々にお願いをしていたのだが通じない。こうなれば、発行部数を格段に減らして現状に対処するしかないかもしれない。
   むろん、会員にすべての人がなってくれと言うわけではない。ハガキでもメールでもいただけばそれは理解していただいているということで了承である。また、小生と職場が同じだったなど、交友関係の方も、これはこちらが勝手に送っているのだから、会員になることとは別個のことである。

   特にがっくりなのは、文学研究者、評論家の先生たちである。この十年間、うんともすんともの人が多い。むろん、一同人誌のことなど、忙しい彼らに振り向いてもらうのは難しいことだろう、と思ってとにかく黙ってせっせと送ってきた。当職のところにも同人誌がいろいろ来るので煩わしいことはわかる。だが、小誌は世にあるふつうの同人誌とは違う。そのことはこの欄で今まで言ってきたことだから繰り返さないが、こういう奇特な雑誌に、一言でえもあってほしい、まこれが個人的な気持ちだ。

   もうずっと考えてきたことだが、このことは何を表すかというと、一言、文学の衰退である。若い時には頑張って文学研究や評論を書いたが、本を出したり、どこかの大学の職分につけば、もう文学とはおさらば、そういう人が多い気がする。本当に文学が好きなら、小誌のようなものには関心を持ったり、あるいは苦言でもいい、文句を言ったりするものである。
   当方が個人的にほんとに残念に思っているのは以前には、こちらがすごいと思う論文なり、批評を書いていたのに、この数年さっぱり、という方々である。体調がよくない、家庭の事情、などなどいろいろあろうが、当職は透析35年、心臓弁の置換手術も、カテーテルも、白内障もいろいろやってきた。それでも、書き足りない思いがあり、書いていくことの情熱はある。
   亡き野口さんは泣き事もいわず、営々とこの道に 続いていた。人生の道を普通に知っていたのである。


   いまの世の中 、いっそう文学や批評など、不要な時代に入っている。当職の嘆きは嘆きではないと思える。いわば真実だ。文学が無用の時代空間、その中で日々自足して生きている人に、今さら文学同人誌など無用であろう。子供がデイズニーランドに興じるように、今のテレビやマスメディア、あるいはネットの世界に何かないかと漁っているのが、この国の大方の大人の姿であろう。それはそれでいい。ただ、少しでも文学に関心あった人の無関心が、多少悔しいのである。
  
 

崩壊期の作家たち

 投稿者:管理人 iPad 792  投稿日:2017年12月21日(木)19時20分54秒
編集済
     ついでに追加して書くと、やはり人気作家である太宰治は、この時期でもいいのですが、その処女作品集『晩年』は昭和11年刊行ですので、次の時期、すなわち日本近代文学の第Ⅳ期、崩壊期に当たりましょう。同じく坂口安吾や石川淳、織田作之助も該当しましょう。
   もう一人の人気作家、堀辰雄もこの時期にあたり、伊藤整などもそうでしょう。
   この時期の重要な特徴は、戦争文学ですね。特に日中戦争がやや膠着状態になった頃、いわゆる従軍作家というものが出てきました。菊池寛の文藝春秋社が募ったいわゆるペン部隊では、尾崎士郎や林芙美子などがいましたし、ジャーナリストとして戦地に行った石川達三や、軍部から派遣された丹羽文雄などの現地報告もありました。応召した作家として、日比野士郎や榊山潤なども戦場ルポルタージュも書いていましたが、特筆すべきなのは、一兵卒として支那大陸の戦場を書いた火野葦平でしょう。彼の兵隊三部作と、戦後の去就はこの国の文学風土として、たいへん重要です。
   また、この頃批評活動を続けていた保田與重郎も、今一度考察すべきでしょう。
 

次号の特集は、投稿希望をとります。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年12月21日(木)18時45分56秒
編集済
     次号の特集には多くの人が応募されるかもしれない。何となれば、下に示したような「芳醇な」作家・詩人が対象だからである。これらを論じないでは文学をやっている意味がない、まそこまではいわないけれど、人気の文学者たちであるのは、本誌や周辺の方がその会員であるところの作家の研究会があるからでもわかる。川端康成研究会、室生犀星学会がそれだが、他にも芸術至上主義文芸学会では、谷崎潤一郎は川端と並んで定番作家だ。社会文学会では、中野重治や小林多喜二は欠くことができないだろうし、ここにはないが平林初之輔や葉山嘉樹も、転換期の重要作家であろう。  むろん、芥川龍之介や、彼を論じた宮本顕治や小林秀雄は、時代の典型として欠かすことはできないだろう。新しい芥川論など、この特集で生まれれば最高である。
   そして何よりこの時期には、文学史の流派には入らない、人気の重要文学者がいる。宮澤賢治と梶井基次郎だが、これらにも新たな視点からの論稿が出てくれば素晴らしい。

   多少の懸念は同じ作家に複数の投稿論者が現れることだ。でも、二人くらいなら問題ないだろう。ま、しいていえば編集部の調整を入れるなら、あらかじめ投稿希望をとっておくことだろう。ということで、締切は来年四月末ですが、一月末までに、投稿希望を今回はメールなどで打診するつもりです。
   特集Ⅱの「野口存彌と日本近代文学」の方も、野口さんの著作や論稿を示して、投稿者を募る予定です。自由論稿、創作も含めて、同人・会員の皆様には、そういうことで、よろしく心つもり下さい。

   あもう一つ言い忘れましたが、次号四〇号は、創刊三〇周年にも当たりますので、「同人誌の思い出」(仮題)とでもして、一人1ページ(千字)程度のエッセイ特集を組む予定です。創刊号に書いている方、長く投稿されている方、他の同人誌(「ミトス」など)の同人だった人など、いろいろ思い(出)をお寄せ下さい。これも、ご意向をききます。
 

転換期の文学者たち

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年12月20日(水)19時03分46秒
編集済
    「群系会報」をご覧になっての感想も、まだ少しですが来ています。
    同人諸氏のそれぞれの側面を垣間見て、なるほど、真面目に人生に向き合っているなあ、と言うのが当職の感想ですが、我が意を得た感想としてあったのは、最終ページ、すなわち冊子にしたら裏表紙にあたるところに掲出した、次号四〇号の特集についての募集案内ですが、特にその下段に並べた、いわゆる転換期の作家・詩人に対しての感想でした。
    関東大震災の大正十二年から国際連盟脱退の昭和八年までは、たった十年なのですが、その時期に文学活動をしていた作家・詩人の、なんとも「芳醇な」ること。この形容には我が意を得ました。下に再掲出しましたが、こんな名前は、戦後七〇年余を経た現在でも、そうは列ねることができないでしょう。すごい作家・詩人ばかりです(一部、冊子とは異動があります)。

有島 武郎   1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日
志賀 直哉   1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日
谷崎 潤一郎1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日
萩原 朔太郎1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日
折口 信夫    1887年(明治20年)2月11日 - 1953年(昭和28年)9月3日
加藤 一夫    1887年(明治20年)2月28日 - 1951年(昭和26年)1月25日
室生 犀星    1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日
佐藤 春夫    1892年(明治25年)4月9日 - 1964年(昭和39年)5月6日
芥川 龍之介1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日
宮澤賢治、 1896年  (明治29年)   8月27日 - 1933年(昭和8年)9月21日
横光 利一    1898年(明治31年)3月17日 - 1947年(昭和22年)12月30日
川端 康成    1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年) 4月16日
梶井 基次郎 1901年(明治34年)2月17日 - 1932年(昭和7年)3月24日
中野 重治     1902年(明治35年)1月25日 - 1979年(昭和54年)8月24 日
小林 秀雄     1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日
小林 多喜二 1903年(明治36年)12月1日 - 1933年(昭和8年)2月20日
中原 中也     1907年(明治40年)4月29日 - 1937年(昭和12年)10月22日
宮本 顕治     1908年(明治41年)10月17日 - 2007年(平成19年)7月18日
大岡 昇平     1909年(明治42年)  3月6日 - 1988年(昭和63年)12月25日
 

「メールの割り当て総量

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年12月20日(水)13時07分34秒
編集済
  を越えているため、メッセージを送ることができませんでしたー。」

  「群系会報」を、一回に付き5人の方に、添付ファイルで送ってるいるうちに、以上のようなダイアローグが出ました。まあ、百人近く(あ、そんなでもないか、七〇人くらい)送っていて、最後の方でしたから、一応送り終わった時ですが、こんな割り当て総量なんて、あるのですか、初めてでした。

    何人かの方から、その場で着いた旨のご返信もいただきました。
  (中には、嬉しい人も)

    メール添付出来なかった人など、郵送分は印刷したのですが、こちらも追加しようとすると、不具合が。インク切れです。ブラックは用意していたのだけれど、イエローが切れて。そんなにこの色使ってないのに、一部写真に使用されていたのですね。でも一色でも切れると、全く印刷が出来ないのは不便。また当方のは、brother製なので、近くのダイエーでは売っていません。秋葉原か錦糸町のヨドバシ、行かなくては。
   行くのは、いやではないけど、寒いのがイマイチ、ですね(それでも東京の中ほどに住んでいるのは結構なこと、地方を考えよ、ですね)。今日の郵送分は10冊ですが、もう10人の方に送ります。少しだけご猶予を。

   しかし、当方はこういう雑事が好きなんですね。嫌ではないのです。特にパソコン周りは不具合があったら、いろいろやって、出来たら、うれしい。今回、「会報」を作っていたら、wordの期限切れ、と言うのもあって(使用していると、危険とまで出た)、代わりにポップアップで出た広告のソースネクスト製の、1,700円の安いOfficeがあったので、その場でダウンロード、インストールしたら、今まで作った冊子の割付がくずれて修復するのに、手間取りました。安もの、インストールするんじゃなかった、と当初は後悔しましたが、最終的に上手くいって、ああ日本製は安くても、すごうい、と認識!
 

陰ながらの活動

 投稿者:管理人 iPad 621  投稿日:2017年12月20日(水)09時59分37秒
編集済
    今朝早くお電話があった。ある年配の篤実な文芸研究者の方からで、内容は開口一番、「群系はすごいですねえ。毎回毎回、中身のあるものをこんなにも厚くして出している。今度のも感動しました」。「いえいえ、今回などは、野口先生のことなど、核があったからですよ」と応答すると、「いや専門の雑誌はこうは続かないですよ。私どもも頑張ってやってたのですが、休刊しました」ー。
   いつも、おハガキをくれる人はだいたい決まっていて、丁寧な感想を書いてきていただいていますが、お電話の方も稀にいます。この方は、本当に熱心に、研究対象の作家の足跡を各地に訪ね歩き、各地の当該の新聞記事まで集めて、それを私家版のファイルにして、会合などで、コピーして配布されているようです。ご著はあるかわかりませんが、こうした執念の活動には、当職も前から感心してご連絡など時に差し上げていたのでした。

  「陰徳」という言葉は、文学の研究活動には適当でないかもしれませんが、この方や、野口存彌氏の研究活動は、まさに地道な、陰ながらの活動であったことでしょう(そうでもなければ、『沖野岩三郎』などという、それこそこの国の近代の陰の大きな存在に注目して、こんな大きな著作にはしなかったでしょう)。
   野口氏の生前も、そのお人柄上、目立った感じはありませんでした。いつも静かに、そしてお書きになった論稿のある雑誌を送ってくれていました。しかし、研究発表や講演となると、何か熱をおびてくる、そんな感じでした。野口先生がある女子大の教壇に立つと聞いた時、正直大丈夫かな、相手は女子学生、初老の平板な話に共感してくれるかな、と当時予備校講師の職に会った当職は気にしたものでした。でも、それは杞憂、氏の話に共感していた学生は少なくなかったようでした。その一つの証左に、インターネットの書き込みがありました。今で言うとブログになるのでしょうか、その女子大に学ぶ学生さんの日記のようなもので、ある日のにこうありました。ー「あ今日は野口先生の講義。これは受けなくっちゃ 」ー。簡単な書き込みですが、ここには若い人の琴線に触れた何かが、野口氏の講義にあったことが推測されます。
   年譜にも書きましたが、時に「動画公開中」とあるのは、小職も野口氏の講義に何かしらを感じていたからでしょう。このiPadの前はデジカメでしたが、敬愛していないものに、長くカメラを向けることはないでしょう。

  「群系」誌は、そうした野口氏の遺髪を継いだ(古い!)気持ちでやっているものでもありましょうが、その気組みは同人にも継がれているのか、本誌のみならず、「会報」もなかなか読んで、心にしみます。18ページの冊子が出来上がりました。昨晩中に、print outを10冊ほど作りましたので、後で郵便局へ行きます。その他の方は、電子メールの添付ファイルで送ります。
 

購読会員になって下さいませんか。

 投稿者:管理人 iPad 517  投稿日:2017年12月19日(火)11時01分15秒
編集済
    「群系」誌も39号をだし、次号は40号、また創刊三〇周年となります。継続的に刊行してきており、この間、「読書人」紙や、「図書新聞」、に何度も本誌作品や特集が紹介されてきました。また東京新聞の「大波小波」コラムでも、本誌の特集などについて、他に見られない雑誌と顕彰されて来ました。実際昨年には、富士正晴全国同人誌大賞を授賞されました。その選考委員の一人である勝又浩先生も仰せのように、こうした「研究論文と小説が一緒になっているのは、多分全国でも『群系』だけではないかと思う」(38号本誌)とあります。

   しかし、先の「大波小波」の最近の記事によりますと、同人誌をめぐる情勢は厳しくなっており、「読書人」紙の「文芸同人誌評」(白川正芳氏担当)がこの12月1日号をもって終了したそうで、九年前、「文学界」の同人誌批評欄がなくなり、「三田文学」の同欄も2ページ縮小され、いまは、「図書新聞」と「季刊文科」しか、公的な同人誌紹介の雑誌は無くなってしまった、現下の寥々たる現実を報告しております。
   もうだいぶ前に、国文学研究誌であった、「國文學」と、「解釈と鑑賞」が廃刊になり、岩波「文学」も休刊、ほんとに物寂しい限りでした。
   その中にあって、「ひとり気を吐いている」(「大波小波」)のが、本誌「群系」ということでした。

   同人誌や、国文学研究の根をたやさないためにも、投稿者のみならず、読者諸氏のお力添えが今こそ必要だと、この欄を借りて訴えるものです。よろしくお願いいたします。
 

会報、明日発送へ。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年12月19日(火)00時46分46秒
編集済
    下の次第で、群系会報の原稿募集は終わらせていただきます。現在、最終調整をしていますので、早ければ、明日にでも、本誌39号付録、群系会報第26号を、メール添付で送らせていただきます(一部は、郵送)。
   あ、18ページにいたしました。なんとかこのサイズなら、メール添付で送れるようです。
 

レンタル掲示板
/437