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スレッド一覧

  1. パソコンクラッシュ(>_<)(6)
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*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


フェイクには御用心

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2017年 8月 9日(水)18時03分55秒
編集済
  皮疹にはステロイド軟膏。驚かれた人がいるかもしれません。

皮疹といっても原因はいろいろで、原因に応じた対処をしないと効果はありません。
多くの場合、ステロイドは必要ありませんが、他の薬剤では効果がないこともあります。適切に使っていれば、まず心配はないのでした。ステロイドは怖いなどという怪しげな情報モドキには、惑わされない方がいいでしょう。

がんを治療するということは、がん細胞を殲滅するということ、それが困難な場合はがん細胞の影響をできるだけ小さくすること、になります。代替治療に効果はありません。単純でわかりきったことなのですが、だからこそ騙されやすいところでもあるのでしょう。あるいは、騙してほしい願望にとりつかれやすいところなのかもしれません。

病を選ぶことはできませんし、経過を選ぶこともできません。自分を突き放し、冷静に判断していくこと、死ぬ可能性が小さくない場合は、死ぬという現実を見つめていくこと、そしてここから、などと言い出しそうになったら御用心というもの。これが正解とかいうのはないのではないかと思われます。それぞれがそれぞれであること、ここを大切にしていくことでしょうか。

それはともあれ、浮世ではフェイクが好まれているように見受けられます。御用心ではありますが、好まれる文脈を眺めていくのも面白いですね。
 
 

牛乳石鹸の時

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2017年 8月 9日(水)16時47分17秒
編集済
  写真は二年前の夏に買った牛乳石鹸。愛用の赤箱。

二年前の秋、内科病棟に転棟となった時、毎日の入浴を勧められた。看護師さんからアドバイス。「ボディソープを使った方がいいですよ。」素直に従うのがよし。しばしの別れ。

一年前の春。半年振りに牛乳石鹸。さっぱりした洗後感がいい。
束の間の味わい。肌が突っ張る。痛いのか痒いのかわからない。気づくと、全身に皮疹。病気と治療の影響で皮膚が脆くなっていたみたい。こりゃいかん。ステロイド軟膏を塗って一息、今はまだ、ボディソープの時。

一昨日は恒例のツアー。血液検査。七月に受けたPET-CT画像を確認しながら診察。
正常例のサンプルをみているみたい。検査データは異常なし。
ところがどっこい。急に天候が変わると、両足が痛く痺れ、体がふらつく。左眼が乾き、皮疹がにぎやか。毎月の血液検査と三ヶ月に一回のMRI検査は、変わりなく続く。

旅に出ていたのかな?牛乳石鹸。戻ってきてくれるのかな?

さくらのバラード(「男はつらいよ」より)
https://www.youtube.com/watch?v=JUQZexaScIM

おっと。何を言っているのか、わからなくなってきた、この辺で一休み。

追記:勝手ながら、順序を入れ替えさせて頂きました。

 

昭和60年

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2017年 8月 9日(水)16時22分31秒
  阪神タイガースが優勝した年でしたね。西武球場で日本シリーズの試合がある時、前の晩から池袋の地下道は阪神の応援団でごったがえしていたものでした。

後に知り合いとなる大学の一学年後輩からの話。日航123便で大阪に帰る予定だったが、乗り遅れてしまい、新幹線に変更したが、帰りの車中で123便が行方不明だと聞き、何とも言えない気分になってしまった、とのことでした。

九月には夏目雅子さんが死去。死因は急性骨髄性白血病。同い年。
縁のない病気だろうと思っていましたが、三十年後にはお隣さん。同病ではありませんが、類病。治療と療養の多くは共通します。「こっちに来るな」と言われそうですから、「ありがとう。もっとゆっくり娑婆を楽しんでいくことにするよ。」
 

日航123便に関する

 投稿者:坂井瑞穂  投稿日:2017年 8月 9日(水)15時21分34秒
  まず問題なのが圧力隔壁の大破です。結局安部譲二さんも書きませんでしたが、事故をひきおこす原因はどこにあったのか、横田か、百里かということです。このままでは坂本さんほか五百人はうかばれません。

 

御巣鷹山の日航機事故のこと

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年 8月 9日(水)15時09分40秒
  もうずいぶんと昔のことになったんですね。あの事故機には、わたしが勤めていた会社の経済部長が乗りあわせていました。その部長は編集なのに気さくな人で、記者であるということをあまり押しつけない人柄。経済部のデスク(次長)が長く、ようやく念願の部長職についた年の不幸でした。記者手帳が見つかったものの、酷い状態の「そのひと」がそうであるかどうかの身元確認は、ようやく彼の通っていた歯科医院に残されていた歯のレントゲンで取れた記憶があります。手帳には家族への最後のメッセージが、ぶれる字体で書かれてあったそうです。
(当時よく使われた「ダッチロール」は、偶々、わたしの父が重篤な病床にいて、いつ死ぬかわからない不安な気持ちで、母と乗り合わせたタクシーのラジオで知りました。父も「ダッチロール」状態でした。)

不吉な寓意として思うに、あの機体番号、123便です。123の次は”4”・・・日本人が嫌う数字ですから、あのジャンボ機は”4”に向かってフライトしていたということなのか・・・という、忌まわしい空想が当時過った事でした。
 

坂本九 怪談

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年 8月 9日(水)07時32分54秒
編集済
  ■先日のパーティーでは、最後のあたりで坂本九のCDを流そうかとも思っていたりしたのですが、
案外あわただしくて、ホテルの支配人みたいなダークスーツを着たおじさんに、
ていよく、追い出されてしまいました。

坂本九が亡くなったのは、1985年8月12日、
通称、御巣鷹山での日航機墜落事故ですが、
今年ももうすぐ、その日がやってきます。
いま聴いても、その歌唱力は、レベルが高く、当時の全米ビルボード連続三週トップというのも、
単なるキワモノではない歌手としての実力が、評価されたかと思われます。

https://www.youtube.com/watch?v=Ts5-ksL9OM0

               *


■ついでにWikiを調べていて、その坂本九の死には、
奇妙な都市伝説があるのを、知りました。
ちょっと、納涼感覚で~。

>坂本の遺体が発見された時間が墜落から99時間後、棺番号が333、司会を務めていたクイズクロス5は
99回放送、北海道で放送されていた福祉番組サンデー九は9年間務めあげ、偶然にも9という数字が重なっていた。

>また、後に、永六輔は滞在していた北海道から坂本の法事に向かおうとしたところ、偶然となりに座った女性の夫が
医師で坂本の検死をしたと打ち明けられ、坂本の法事に出席するまで鳥肌が止まらなかったと語っている。


>事故翌日の8月13日には、事前収録の坂本本人が出演する、フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』200回記念が
放送された。この時点では安否不明の状態であったため敢えて放送され、番組の最後ではブラックバックに
「坂本九さんの無事をお祈りします」というコメントが寄せられた。

>墜落から99時間後の16日、家族らによって遺体が確認された遺体は損傷が激しかったが、普段から身に着けていた笠間稲荷のペンダントが胸に突き刺さっていた事と首の太さが確認の決め手となった。
また、墜落現場では両手で足首を掴み頭を膝の中に入れる「安全姿勢」をとった状態で発見されており、
即死状態であったという。


■そもそも、「上を向いて歩こう」のヒットが、19歳だったのですね。
若い。


               *


■これ、なんで笠間稲荷だったかというと

>戦争中の1943年10月26日に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両
に、疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。
ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。
成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、
「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。
後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる。
そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった。


>坂本は本来、国内移動には日本航空(JAL)ではなく必ず全日空(ANA)を使っており、所属プロダクション
や妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった。
しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、
仕方なく確保したのが日本航空123便であった

■遺体の胸に、お稲荷さんのペンダントが突き刺さっていたのは、
「だから、日航機は、やめろと言ったジャロ!」という、カサマイナリの戒めか…。
でも、死んじゃっちゃァ、しょうがない。
ちなみに、いまでも日航機では、坂本九の音楽は流せない――――とか。



■怪談系ではありませんが、

>坂本を記念して命名された、(6980) Kyusakamoto という小惑星がある(発見は1993年、命名は1998年)。
小惑星番号の6980を「六八九トリオ」にかけたものである。

~というのも面白い。


【ともだち】
http://www.dailymotion.com/video/x2kpwq3
■よくチャリティーコンサートでうたわれていた曲。
福祉や慈善事業に力を入れていた坂本の突然の死によって、
手話の普及が、五年以上は遅れたといわれているそうです。


                *


【坂本九さん最後の歌声 『心の瞳』収録 完全ノーカット版
(1985年:昭和60年8月12日:NHK505スタジオ) 】
https://www.youtube.com/watch?
v=liJBA8DEQmA

■まさに、死の直前の歌声ですね。
画像は笠間にあったという母親の実家でしょうか。


>坂本は、幼少時から兄弟や花街という土地柄や稼業などの影響で、邦楽はもとより、洋楽の影響も多分に
受けて育っていた。小学生の頃から「ハリー・ジェイムスのトランペットは色っぽい」「歌舞伎の所作がいいね」
などというほど、自然に芸事や洋楽に触れていて当時としてもとてもハイカラな環境で育った。
家族兄弟でいうと、ジャズ、シャンソン、芝居、日舞、三味線、邦楽など、一通りの影響を強く受けた。
また、兄弟の影響でヨーデルにも手を出して、のちにそれを生かしたファルセットボイスを
「ビキニスタイルのお嬢さん」「素敵なタイミング」などで生かしている。

>三味線片手にさのさも歌えば、小学生の頃からナット・キング・コールも歌い、中学生になると三味線を
ギターに持ち替えて当時最も新しい音楽のロックンロールに感化されていく。
「う~えをむ~いて」を「ウフエヘヲホムフイテ」というように言葉の裏の音「ウフ」「エヘ」「オホ」と、
邦楽の素養も、洋楽の要素も持ちながら表現した独特の歌い方は、だれもやっていない当時最も斬新な歌い方
であったと九重佑三子がのちに回想している。

>デビュー当時は、本人も大好きなアメリカンポップス、ロックをカバーして歌っていたこともあり、
カバー歌手はほかにもいたが、体の芯から理解して日本語を英語のようなグルーヴで歌うのも初めての歌手
だった。 また、キーが高めで軽いハスキーな声質も個性的であった。

■つまり、坂本九は、サザン桑田佳祐の先駆ってことか…。
このNHKの最後の歌を聴くと、子供の頃からのかなりの背景があったことが、わかるような気がします。

               *


■1985年8月12日の日航機墜落事故のあと、
9月にはニューヨークで、プラザ合意が結ばれ
いわゆる"日本の失われた30年"が始まりますが、
これについては、もっと、怖~い怪談・都市伝説も……。




 

すみません

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2017年 8月 9日(水)07時12分13秒
編集済
  昨夜、久し振りに焼酎を楽しんでいたのですが、酔いが回った頃「どうしようもない投稿をしたものだ」といった気分になってしまい、消してしまいました。すみません。牛乳石鹸については、もう少しまとめて、後ほど再投稿したいと思います。  

牛乳石鹸、なつかしい!

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年 8月 9日(水)00時49分10秒
編集済
     鎌田さん、牛乳石鹸の写真、どうされましたか?
ぜひ、今一度アップしてくださいさいな。
 

ザ・ピーナッツもいいですが

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年 8月 8日(火)15時57分51秒
  いっとき、あのビートルズをかなり追い詰めた「演奏できない」(ギターのマイク・ネスミスを除いて)”The Monkees”も懐メロでよろしいですね。ほとんどの曲は埋もれているようですが・・・。

わたしの妹がかなりのファンでして、誕生日に楽譜集を贈ってあげたものでした。もっとも彼女は別方面に関心が行ってしまい(恋愛だったかな)、悲しくもその楽譜集はピアノの上に置き去りにされてしまいました。良い曲はたくさんあります。ほとんどの曲は外部の作詞作曲家が作ったものですが、一人ギターのマイク・ネスミスは曲を書いたのです。彼はカントリー出身で(たしか)、モンキーズ解散の後、敢然とバンドを新たに組み音楽活動を継続しました。
わたしが好きな彼の曲、”The Girl that I knew somewhere”。懐かしのアメリカン・ポップ。

https://youtu.be/EZS8LJ7mVAg

写真は若き日のネスミス君。(甘いマスクですね)
 

間取り

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年 8月 8日(火)06時36分26秒
編集済
  >家の間取りを正確の書いておかなくては、今日の仕事は、それにしようか・・・

■V・ナボコフの大学での文学の講義は、
カフカやドストエフスキーの小説に出てくる室内の間取りを
明確に図解することから始められたようです(笑)。
 

先ずはデッサン?「夢のうつわ」

 投稿者:土倉ヒロ子  投稿日:2017年 8月 8日(火)05時42分57秒
   「お父さん・・・もう、この家を開放してもいいいでしょう」京子は広縁に置かれた夫の机に向かってつぶやいた。夫の節夫が亡くなって100日が過ぎていた。たっぷりと8帖はあろうかと思える板の間を節夫はこよなく愛していた。「僕がこの家に養子に入って良かったと思っていたのは、此の広縁だね。君のおじいちゃんの建てた、この家は傑作だね」と、もういない節夫の落ち着いた話ぶりが蘇ってくる。

 そう、この家は大正時代の終わりに建てられたもの。大正15年(1926年)から数えると91年になろうとしている。二度のリホームをしているが、基礎の柱がしっかりしていなければとっくに立て直しになっていたろう。

 この家にくるとほっとすると何人の人たちが言っていたことだろう。江戸町屋の良さと田舎家をミックスした家であった。玄関は3帖くらい式台から茶の間、奥座敷に続いている。この二間のまえに節夫の愛でていた広縁がある。子育てのころは、ここが格好の遊び場になっていた。

 玄関からすぐ左手は土間になっており台所に繋がっていた。これがおじいちゃん自慢のつくりで、親しいひとたちは「どうぞ、どうぞ」の招きに食堂へと直行することになる。下駄ばきのままで。この食堂のテーブルがまたじいちゃんの自慢の品で、祖父の笑顔がこぼれっぱなしになる時でもあった。
 檜の一枚板で作られたテーブルは広く長く12人は座れる。

 京子は、このテーブルと広縁をご近所さんに開放したいと思っている。特に、一人暮らしの老人たちに。



 と、「掲示板小説」のデッサンを始めました。郷愁ではなく、現代を悩みながら送る老人たちを描けたらと思っていますが・・・これ、まったく推敲なしだからどうなりますか。

 家の間取りを正確の書いておかなくては、今日の仕事は、それにしようか・・・
 

ザ・ピーナッツの歌

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年 8月 7日(月)21時15分29秒
編集済
     ザ・ピーナッツの歌のなかでも、ホッとするような思い出の曲といえば、「シャボン玉ホリデー」だろう、いま思うとこの童心そのもののタイトルの曲と、その音楽番組はどんなにか、思春期の僕らを慰めたことだろう、いきなり、「恋」とか、「裸のキス」という歌謡曲の世界に入るより、この番組とそこのメロディー・歌詞のクッションがどんなにか、青少年の情操に大事であったろうか。また彼女ら相手のハナ肇やクレージーキャッツのコントも楽しかった。
    しかし今思うとこんなにすごい国民的な番組が、牛乳石鹸一社の提供だったとは驚きだ。(今もあるのかな)。

http://www.uta-net.com/movie/189018/


   さらに、この番組最後にピーナッツが歌う「スターダスト」は、しっとりロマンチックで、これは大人の世界をうかがわせるものであった。確か日曜夜の番組で明日からの学校がそんなに嫌でなかった思いがある(これとは対照的に、もっと幼少の時に見た「ポパイ」の終わりは、「また来週」のアナウンスが恨めしく思えた)。

https://www.youtube.com/watch?v=u51l4-EJOf8&index=7&list=RD5LDJlsyY0cI



    ピーナッツの歌う歌が表題になった番組にはもう一つ、NHKの「若い季節」がある。タイトルのとおり、若く伸びやかで、まるで当時のテレビ放送の青春期を自ら寿いだような曲と番組内容だった。
出だしの、ウワーオは、印象的だった。


       ウワ ーオ     ウワーオ
       おなかの底から    ウワーオ
       若い風が    街をわたって行く
       青い空に   白い雲に
      よろこびを   苦しみを
       あなたも   あなたも   あなたも   あなたも
       あなたも   あなたも   あなたも   あなたも
        若い若い    季節を歌おう

http://www.uta-net.com/song/186447/




    
 

台風と過ごした日

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2017年 8月 7日(月)19時57分58秒
編集済
  千鳥足台風は酔いを覚まし、和歌山に上陸。

恒例のツアー。エンジンに点火。豪雨を楽しむ。車線が霞む。それがよし。

情景は変わらず。ちーすい丸くんの本陣へまっすぐ。

ちーすい丸のうた
https://www.youtube.com/watch?v=IPIsPOhEjTw

ちーすい丸くんは無愛想。表情と振る舞いがいい。

ともに確認。どこにも、何も、見当たりません。帰りはビーフカレー。

台風くんの置き土産。
 

移動、ありがとうございます

 投稿者:小川原健太  投稿日:2017年 8月 7日(月)10時36分34秒
  草原様  自転車の移動ありがとうございます。お手数かけました。  

ご批評、ありがとうございました

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年 8月 7日(月)06時37分4秒
編集済
  小川原健太様、「月下美人」についての長文のご批評、ありがとうございました。


~よく商店街の居酒屋などでは、
「自転車でお越しのお客様は、お隣のお店にはみ出さないよう、当店の前にご駐輪ください」
などとの貼り紙があったりいたしますが、
たいへん勝手乍ら、こちらで移動……いや、コピペ転載させていただきました。

よろしくご了承ください。

http://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs



                        *



「群系掲示板」管理人様、

   いつもお世話になっております。

   暑中お見舞い、申しあげます。

   納涼会は、いつでしょうか。




 

掲示板の投稿先、ご注意。

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年 8月 6日(日)23時15分55秒
編集済
     投稿先が違うのではないでしょうか、「月下美人」は、カプリチオの掲示板連載でしたね。
(第一回だけ、サンプルとして、群系掲示板に掲出されましたが、それ以降はリンクでカプリチオに飛んでいますね)。

http://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs
 

掲示板小説「月下美人」を読んで

 投稿者:小川原健太  投稿日:2017年 8月 6日(日)22時50分48秒
    谷口葉子「月下美人」読みました。近頃、こんな楽しんで、一気に読めたものはない。「楽しんで」などというと、内容的には気楽なものではないでしょうから、作者にとっては不本意かもしれないが、18年前の作品ですし、作者も動じることはないかともっぱら私の都合(読み)で書いてます。ご容赦を。
楽しんだのは、自分の勉強のための必要や合評会など義務的に読まなければならない(近頃、そういうのばかり)から解放されて気ままに読めたせいもある。当初は、こうした読後感を書くつもりは全然なかった。それが、いまこうして書いているのはやはり面白かった、楽しかったからです。
なにが面白かったか。ここでは虚実皮膜の間を描く、作家の技法、技量、つまり芸の力に感心したり、首を傾げたり……。挙句の果ては、自分ならこうは書かない、書けない。自分は「虚」を書けない。もっぱら「実」、この間書いたものにもっと「虚」を取り入れればよかったなどと、目は活字を追いながらあらぬことを考えている……。それではっと気がついて本文を遡って読むことしばしばであった(だから本文はちゃんと読んでます。2度くらい読んだ勘定になるか)。つまらない作品だったら、なんの刺激も受けず、こんなことは絶対起こらない。

主人公「みや」は、父の「実業」を継ぎ、店舗数を増やしたが、また縮小せざるを得なかったりと厳しいビジネスの現場で指揮を執るキャリアウーマン。スペイン語の翻訳家として湘南の別荘にひっそりと住み着いている夫の「いち矢」とは、たまに電話で連絡を取るくらいで、ほとんど存在を意識しないような関係にある。その夫が、「みや」には状況がよく分からないまま病変急で亡くなる。
それから1年9か月後、「みや」は、やっと3日間の休暇をとって、湘南の別荘に夫のものを整理するつもりで訪ねる。別荘に入る手前で、「あの男」に呼びとめられ月下美人を1株もらう。
別荘に入ると床下から伸びた若木が行く手を遮るばかりに枝を広げている。このままでは天井を突き抜けて屋根を破ってしまうだろう。
 夫の机の上にあったノート(「サザンタキウスの記録」)は、この木が、ここにある由来から成長を見守る記録だが、夫はこの木を「若い恋人」と見立てて心ときめかせているが、そこに若い「みや」の華やいだイメージと重なる。みやへの愛の告白の確認のような「遺書」であった。「いち矢」からするとサザンタキウスは若い「みや」の分身。「みや」からは、「いち矢」の分身のごとくせつない愛憎を発信してくる木で、切落としてしまえない。この木の葉を2枚紅茶に入れると、一種の麻薬なのか「みや」の時間感覚を大きく狂わせ、意識も混濁したものとなる。 怖くなって別荘から逃げ帰ろうとする「みや」をサザンタキウスが枝を伸ばしてきて「みや」の体をがんじがらめに拘束する。拘束であるが、「みや」に帰らないでくれと懇願し必死に抱きしめる「いち矢」の分身でもある。木の枝葉で「みや」は両足を開かされ、体の各部を愛撫されるごときで恍惚となって失神する。この描写はかなりマゾっぽいエロスに満ちているが、木だから草食系でいやらしくない(男性としてはちょっと物足らないが)。露骨を忌避する女流らしい、そういう持ち味なのだろう。だが、作者が肉食系を知らないのではない。死の迫った夫が、ノートに「みや」に「助けて」と必死に呼びかけていたとき、なんと「みや」は、自分の部下の「西谷友夫」と深夜のよく行く店でサーロイン・ステーキをむさぼり食っていたのだった。仕事に夫は頼りとならない時、「プラス思考」の西谷に助けられてピンチを乗り切ってきた。頭を下げて回った仕事の帰りの夜中、腹が空いた二人はよく外食した。西谷は、焼き肉、ステーキ、ホルモン焼きと肉類ばかり、見事な食べっぷりに見とれ、自分も少しずつ肉が食べられるようになる。これを食べた夜はぐっすり寝られるし、翌日は肌がしっとり……。


いち矢が病魔の危険にさらされることなど、想像もしなかった。ありえないことだった。いち矢のことは確かによぎらせたが、西谷の口腔にはいっていく肉片には奇妙な蠱惑があった。 私は確かにみとれていないとはいえなかった。


「西谷」はまさしく肉食(系)そのもの。だが「西谷≒にし矢」は、「いち矢」亡き後の本命ではない。本命は「あの男」、数時間の命の花の咲き誇るとき、「あああ、ああ」と官能的な声をあげる月下美人を2度にわたってくれた男「桐彦」であろう。
「桐彦」は、中学生の「みや」の上級生であったことに思い当たる。そのころの、あまりに暑い夏の日、森の中で「みや」は、ノースリーブの胸のボタンを外して、充分にふくらんだ乳房を確かめるように汗をぬぐった。だれもいない思った森の道に桐彦が立っていた。「見たわね」と、なぜか大胆な視線で桐彦を見あげ詰め寄った。
 桐彦は庭師で、「みや」の父の代から、別荘の庭の管理をしてきた。「いち矢」と「桐彦」は、サザンタキウスを通して「双子」的な関係である。双子の一方が死ぬとき、その妻も一度死ななければならない。死ななければ、新しい再生、復活はない。「月下美人」のクライマックスは、妻「みや」の死の儀式である。虚と実のスパークする最高の極致での恍惚の失神(死)と建物の崩壊。この設定が、どんなものか、草原さんのように首をかしげるところではあるが、とにかく1度「みや」は死ななければならない(作者は「みや」を殺さなければならない)。
「桐彦」は「きる男」。「いち矢」と「あや」の関係を切る男の謂いではないか。だから本作「月下美人」は、「あや」が一度死んで再生し、双子のもう一方の桐彦と新しい関係を築いていく。それこそ「月下美人」のタイトルに相応しい。本作まではむしろ「サザンタキウス」のタイトルが相応しいかもしれない。でも「サザンタキウス」では何のことか分かる人はいない。木の名前ではない。「いち矢」の「サザンタキウスの記録」には


なぜなら、まだこの木の存在が不明だった頃、静かな深夜に聞こえたそよぎが、サザン、サザン、キタキタ……キタキタ、キタ、サザン  だったのである。
この音でなん度も眼がさめ、考え込んだものだ。だれが自分を呼んでいるのか。


 それでこの木を「サザンタキウス」と勝手に命名した。「サザン」ってなに?湘南にサザンオールスターズというのがあるから、そこから採ってるのか、スペイン語で意味をもつのか、単なる擬態語なのか調べてもいないが、なにやら呪文みたいな効果はある(もう一か所ある)。それで「西谷」とか「桐彦」も、アナグラム的に考えてみたのだった。

 それでは、私が勝手に想像する本命の「月下美人」を書き継いだらどうなるか。100枚は下らないだろう。50枚書いて息切れした?締め切りがせまってとてもじゃないがそこまで行かなかった?「カプリチオ」は現在1枚が3000円。むかしだから2000円として、本命の「月下美人」100枚では20万円の自己負担、などと想像して、我ながらそのせこさ呆れて笑ってしまった。
「月下美人」のタイトルに相応しい続きがあるだろうなどというのは、こっちの勝手な願望である。この作品はこの作品として独立した一篇として読まれるべきである。この作品は、構成としてよく練られ、抑制された文体で十分読ませるものがあった。

 掲示板小説という草原さんのご提案はおもしろいと早速反応、群系本誌の論文でない調子の書き方があってもいいかと、遠慮なく書き連ねた次第です。
 

ザ・ピーナッツのこと

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年 8月 6日(日)21時15分8秒
編集済
      新しいiPadに代えてから、以前のiPad miniの、倍、いや三倍アクセスしているだろうか。手元にあって操作し得る限り、いろいろ検索したり、google earth でどこかを見たりしている。むろんこの掲示板なども日に三~四回はアクセスしているだろうか。しかし、iPadの魅力はその操作性であり、場所も、見るときの体位・態勢もかまわない、その自由さにあるのだろう、だからデスクトップパソコンのように、机に向かってなくてもいいのである。これは、真に情報革命というべきだろう。デスクトップがどんなに性能がよくなり、クロック周波数が高くなり、HDDなどの記憶容量が飛躍的に増大しても、きちんと跪座して机に向かう態勢でなければならないのなら、その性能は画餅のようなものだろう。
    だいぶ以前はウォークマン、ちょっと前はiPod(iPadではない)、によってわれらの思考・感受性はどれだけ伸びやかさを得たことだろう(不肖、当方はiPodのおかげでモーツァルト論を書けた。携帯して、何度も何度もその協奏曲を聴いたものである)。いま、そうしたわれらの関心・触手はどこに向かうか、クラッシックではない、好きな童謡でもない、われらがものごころ付いて以来なじんだポップス・歌謡曲にその関心は向くのである。テレビから流れていたそれらの曲は、しかしのちのフォークやGSのように当時夢中になっていたのではない、むしろ食事時のデザートのように、そのとき、楽しんだに過ぎない。しかし、あれから四〇年、半世紀近くの時が流れて、いま目睫にみるのは、そうした彼ら・彼女らの姿、とその歌、である。

   この間、you tube で何度、そうした曲を聴いたであろう。当方が好感を持っているのは、スパーク三人娘、と言われる、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、だ。彼女らの軽妙な会話、歌・ポップスへの向き合い、そんなものは全部当方にはないから、余計好きになった。特に中尾のあの楽天的な感じは、素敵なお姉さま、である。伊東ゆかりの、いくつになっても褪せない、楚々とした感じも好き、園まりは当時、大学生からの支持ナンバーワン、だった。ほんとのお姉さまだった。
   彼女らを含めた和製ポップスは、当時小学生だった身共などにも、そのメロディーは染み付いた。やはり心に残っているのは九重祐三子、坂本九、そしてパラキンこと、パラダイスキングなどだが、あ、そうそう、キングでおもいだしたが、キングトーンズも欠かすことが出来ない。「グッド・ナイト・ベイビー」,「オンリー・ユウ」などは自然口ずさんでいたものだった。あ、そういえば江利チエミもゆかしいひとだった。初代三人娘といっても、彼女だけ愁わしげなところがあった。「テネシーワルツ」などの傷痕の歌劇をなぜ、サザエさんが歌ったのか。(個人的には、チエミの「チャチャチャ」が好きだった。?「何でもかんでもチャチャチャ、ちゃちゃちゃはすばらしい」って曲。しかし面妖な曲ではあった)。


    前説が長くなったが、そのなかでも、われわれの世代に圧倒的影響をあたえたのは、ザ・ピーナッツ、この稀有の双子の姉妹だった。

    ザ・ピーナッツ、今更に彼女らに関心が向いたのは、この数年のあいだに、このふたりがあいついでにこの世からいなくなったからであろう。最近のアイドルなどにも相次いだ悲報だが、そうしたときに残ったわれわれをセンチにさせるものが彼女らにはあったから、であろう、そういうしかない。それをセンチとか感傷に過ぎない、と大人は言うだろう。ままよ、感傷であろうが、われわれをいま振り返らせる力、そのエネルギーに注意されるのである。最近の都議選やら、安倍改造内閣にわれわれの心を振起させる何があったかー。

    ザ・ピーナッツ、この二人を聞いていて今更に感心するのは、その声量もさることながら、ふたりの音声がまったくぶれないことだ。ほとんどひとりの人間がヴブラートをきかせているのではないかと思うほど、その歌声が見事に一致していること、それも持ち歌が数曲程度ならわかるが、ピーナッツが歌った曲は相当数である。先の投稿で掲げたものを数えても78曲もあった(ドーナツ版の裏面も入れると156曲!)、ふたりがそうとう息のあったデユオであったとしても、これは並みのことではない。中には英語などの原曲もある。その単語の一つ一つをメロディーに合わせて歌うなど、凡手にはとてもできまい。いくら歌が好きとはいえ、そこには血反吐を吐くほどの練習・努力があったろう。しかし本番の歌ではそういうところをみじんもみせない。天才のゆえんだろう。ー

https://www.youtube.com/watch?v=Foi-uOPG_3c

 

ザ・ピーナッツ、のこと 予備知識篇

 投稿者:管理人 iPad  投稿日:2017年 8月 6日(日)20時44分16秒
編集済
  ザ・ピーナッツ

姉 伊藤エミ(本名、澤田[2] 日出代(さわだ ひでよ)(旧姓、伊藤)1941年4月1日 - 2012年6月15日)、妹 伊藤ユミ(本名、伊藤 月子(いとう つきこ)1941年4月1日 - 2016年5月18日[3])。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ。ただしすぐに転居し、子供-学生時代は同県名古屋市で過ごす。

所属事務所はデビューより引退まで16年間一貫して渡辺プロダクションに、所属レコード会社は各社の争奪戦となり、ビクターレコード[4]と契約寸前まで達したが逆転され1959年4月2日にキングレコードと契約した。

発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する[5]。
                                                  以上、Wikipediaより   以下も。


    ピーナッツの歌った曲
シングル 編集
シングルで発表した主要な楽曲のみを記述。

可愛い花(デビュー曲)/南京豆売り(1959年4月)
キサス・キサス/チャッキリ・チャ・チャ・チャ(1959年6月)
情熱の花(歌詞は2種類存在している、オリジナルはカテリーナ・ヴァレンテ(英語版))/米山さんから(1959年9月)
乙女の祈り/ばってん、ばってん、ばってんてん(1960年2月)
悲しき16才(オリジナルはキャシー・リンデン)/心の窓にともし灯を(1960年4月)
月影のナポリ(森山加代子との競作、オリジナルはイタリアの歌手ミーナ・マッツィーニ)/白鳥の恋(1960年7月)
パパはママにイカレてる/マイ・ホーム・タウン(ダニー飯田とパラダイスキングとの競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。またダニー飯田とパラダイスキング版は題名が「恋のホームタウン」である)(1960年10月)
ジングル・ベル/サンタクロースがやってくる(1960年10月)
清しこの夜/別れのワルツ(1960年10月)
ルナ・ナポリターナ(坂本九、西田佐知子、松島トモ子との競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。また坂本九版は題名が「夢のナポリターナ」、松島トモ子版は「夢のナポレターナ」である)/バイアの小道(1960年12月)
17歳よさようなら/二人はしあわせ(1961年3月)
しあわせがいっぱい/マッダレーナおばあさん(1961年5月)
インファントの娘(東宝映画「モスラ」挿入歌。劇中歌唱バージョンとは、曲の構成が異なる)/草原情歌(1961年7月)
スク・スク(ダニー飯田とパラダイスキングとの競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。またパラキン版は題名が「パラキンのスクスク」である)/カカオの瞳(1961年8月)
今池音頭/お城音頭(当時は名古屋限定発売)(1961年8月)
あれは15の夏祭り/スク・スク・ドール(1961年8月)
ペピト/ヘロー・メリー・ルー(1961年9月)
コーヒー・ルンバ(西田佐知子との競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない)/シンデレラ(1962年1月)
イエロー・バード/急がば廻れ(1962年1月)
いつも心に太陽を/山小屋の太郎さん(1962年3月)
ふりむかないで(後にWink、松雪泰子がカバーする。またハニー・ナイツの同タイトルの曲とは全く別のものである。ザ・ピーナッツ初のオリジナルヒット曲)/アテネの恋唄(1962年3月)
君去りし夜/あなたなんかもういや(1962年4月)
夕焼けのトランペット/ローマの恋(すぎやまこういち初のザ・ピーナッツソング作曲)(1962年5月)
私と私/幸福のシッポ(1962年6月)
モスコーの夜は更けて/初恋のところ(1962年7月)
イエスサリー/グッド・ラック・チャーム(1962年8月)
さいはての慕情/ジョニー・エンジェル(1962年9月)
手編みの靴下/二人の高原(1962年12月)
レモンのキッス/恋のジューク・ボックス(森山加代子、ベニ・シスターズとの競作)(1962年12月)
若い季節(NHK放送の同タイトルのテレビドラマ主題歌であった)/わたしの心はうわのそら(1963年1月)
祇園小唄/深川くずし(1963年1月)
夜霧に泣くブルース/トンボラ(1963年3月)
恋のバカンス(後に田中美奈子、W(ダブルユー) がカバーする)/チャオ(1963年4月)
舞妓はん音頭/うちら祇園の舞妓はん(1963年5月)
東京たそがれ/こっちを向いて(1963年11月)
悲しきカンガルー(ダニー飯田とパラダイスキングとの競作)/ノン・ムッシュ(1964年1月)
キャンディームーン/ドミニク(1964年4月)
ジューン・ブライド/ほほにかかる涙(1964年5月)
青空の笑顔/ポエトリー(1964年9月)
ウナ・セラ・ディ東京(和田弘とマヒナスターズ、西田佐知子、坂本スミ子との競作。『東京たそがれ』というシングルを再アレンジ・改題して発売)/知らなかった(1964年9月)
赤いダイヤ(藤田まこと)/好きになっちゃっちゃった(共演:藤田まこと)(1964年9月)
マイ・ラブ/ブーベの恋人(1964年11月)
二人の恋人は?/スーヴェニール・東京(1965年3月)
かえしておくれ今すぐに(未解決であった、吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人に向けての歌であった)/ドンナ・ドンナ(岸洋子との競作)(1965年3月)
あなたの胸に/私を愛して(1965年7月)
かわいい小鳥/ブルーレディーに紅バラを(1965年8月)
乙女の涙/明日になれば(1965年12月)
愛は永遠に/花のささやき(1966年5月)
シュガー・キャンディー/スパニッシュ・フリー(1966年8月)
ローマの雨/銀色の道(ダークダックスとの競作)(1966年10月)
東京ブルー・レイン/しあわせの花を摘もう(1967年5月)
恋のフーガ(後に小柳ゆき、W(ダブルユー)、GO!GO!7188がカバーする)/離れないで(1967年8月)
恋のオフェリア/愛のフィナーレ(1968年2月)
恋のロンド/愛への祈り(1968年6月)
ガラスの城/たった一度の夢(1968年9月)
悲しきタンゴ/愛しい人にさよならを(1969年3月)
哀愁のヴァレンティーノ/夕陽に消えた恋(1969年7月)
野いちご摘んで/ついて行きたい(1969年9月)
男と女の世界/しあわせの誓い(1970年3月)
東京の女(『とうきょうのひと』沢田研二作曲。後に椎名林檎がカバーする)/愛が終ったとき(1970年7月)
大阪の女/青白いバラ(1970年9月)
なんの気なしに/北国の恋(1971年5月)
サンフランシスコの女/ロンリー香港(1971年10月)
リオの女/恋のカーニバル(1972年3月)
さよならは突然に/夜行列車(1972年9月)
指輪のあとに/最終便(1973年2月)
情熱の砂漠/あの時、もし(1973年7月)
気になる噂/ひとり暮し(1974年1月)
愛のゆくえ/さよならは微笑んで(1974年4月)
お別れですあなた/季節めぐり(1974年9月)
浮気なあいつ/よこがお(1975年3月)
 

個人情報保護の目的

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2017年 8月 6日(日)18時06分1秒
編集済
  条文と解説を読めば、オヤジさんの対応は的外れだとわかりますが、病院の一般職員で勉強し理解している人は少ないですから、永野さんがお怒りになった対応をしてしまうこともあるのでしょう。

入院していた大学病院では、ここの対応はきちんとしていました。
病院に問い合わせがあった場合、入院の有無や入院している病棟を伝えるようにするのか伝えないようにするのか、事前に確認がありました。もちろん、入院後の変更も問題なし。
要するに、本人の意志を尊重するということですが、オウムがシラを切るような対応をされると、不審感が先に立ってしまいますね。
 

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