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  1. パソコンクラッシュ(>_<)(6)
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ファッショ化?

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年12月 4日(月)21時34分52秒
編集済
  >~そもそも、道場破りのつもりか何か知らないが、

2012年から、この板にはお世話になっていて、ずいぶん草原「先輩」には「かわいがられ」ましたが、なんで今更道場破りなんかしなければならないのでしょう。
 道場破りをするような柄ではありませんし、そこまで思い上がってはおりません。
 わたくしにできることは○○○破りくらいです。


>相撲の世界では「かわいがる」とか、いいますね。

 遣い方まちがってませんか?

 先輩力士が後輩に対して暴力振るうという意味ですが、この掲示板で起こっているとすれば、K氏のOに対する執拗な嫌がらせ、いたぶり、暴力的人格攻撃だと思いますが、

 相撲の世界では、致死事件が起こってから意味が変わって、先輩や親方が新弟子のためにちゃんこを作ってあげる、部屋の掃除をしてあげることが「かわいがる」になったようです。


> 天皇や國體護持を言うのならば、三島でなくて他の論者を引用してもよい。

 繰り返しますが、命日にちなんで、三島の憲法論をちょっと振りむいてみただけの異邦人です。


>影響をうけた言説を、内的に融合させて、じっくりと発酵させた自分独自の主張を語るというより、 三島の発言に倣い、それを引いた発言が多い。

 なんでわたくしにばかりこんなに厳しいのか、ご自分でも怪しげな武道家と外人と胡散臭い男の出てくるネット番組や、四国の左傾夫婦のやりとりをそのまま引用されているではありませんか。
 内的に融合、じっくり発酵、自分独自の主張になっているとは思えませんが。


>①三島文学には違和感を感じた

 違和感、とは申しておりません。
「馴染めず」と書きました。
 武者小路のような自然主義的文体に慣れてましたので、慣れるのに時間がかかっただけで、「鏡子の家」や「禁色」は楽しめましたし、「志賀寺上人の戀」という短編が鮮烈な印象がありますし、「豊饒の海」はこれくらい大掛かりな小説は他にはなく、戦後の最大傑作だとわたくしは思っております。

 草原さんが言われるように、村上春樹などとはまるで次元が異なっております。


>■要するに、大堀さんの三島論は、ノーベル賞候補文学者としての三島の世間的評価を、
政治的主張に"借用"しているわけであって、 言い換えれば、文学オタクを黙らせる手段化、しているのではないか。(安倍晋三の天皇の権威利用によく似ている)

 どうしてここまで、まさに「極論」されるのか、被害妄想に近いと思いますが、まったく理解できません。

 「文学オタクを黙らせる手段化」とはなんでしょうか?

 むしろ、「愛国発言を黙らせる、封じ込める手段化」をされていると思うのですが、

 そういえば、マスコミは最近「ファッショ化」が進んでいて、

 反安倍報道が横並びしているようです。

 リベラルな意見が封じ込められると思いきや、「報道しない自由」を盾に取って保守的主張を封じ込めているようなのであります。

 加計学園問題でも、前川元文部事務次官の主張と認可を求める加戸愛媛県知事の主張では圧倒的に報道の時間に偏りがありました。

 この板でも、わたくしのちょっとした主張がこれだけ執拗に論難されるのは、そういうファッショ化の表われかもしれないと危惧致します。
 
 

群系会報のお原稿は20日くらいまでに延期

 投稿者:管理人 iPad 826  投稿日:2017年12月 4日(月)20時53分8秒
      6日に39号の発送を控え、一方では、群系会報のお原稿をお願いしているところですが、今回はどういうわけか、入稿が甚だ少なく、現在までに、二つだけです。私事になりますが、13日に入院・手術がある(一泊2日)ので、それ以前に、発送まで済ましておきたいと思っていましたが、39号をお手元にし、しばらくしてからの発行でもいいでしょうか(要するに、もう少し〆切も発行も遅らせる)。ま、年内の会報発行にしましょうか。
    ま、そうしましょう。また、39号が着いてしばらくした時点で、会報の件、連絡します。
                     ◯
    ところで、最近のこれら掲示板は、後での訂正・削除が効かなくなっていますね。一番下の「自分の投稿の編集」に、自分の投稿原稿が見当たらなくなることが最近ままあります。投稿してまだそんなに時が経っていないのに、ですね。
 

今いるの、文学の土俵だって、知ってました?

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年12月 3日(日)08時52分46秒
編集済
  >不信も何も、わたくしは文学の基本がわかっていないというコンプレックスがある人間で、
楯の会の三島の方に断然惹かれる人間ですから、三島の文学を語らない、語れないのは必然で
これまでのこの板への書き込みもほとんどが情勢論、政治論に終始してきましたことからも、
理解いただいていると思っておりました。
                                            (大堀氏)

>ですから、そもそも文学でなく、憲法論を今回も最初に書き込んで、皆さんのご意見を伺えたらいいと
思いましたものを、「文学を語れ」と痛いところを突かれて、無理やり文学の土俵に引きずり出されて
逃げようとするところをまた捕まえられて、執拗に「文学」「ブンガクッ!」と言われますので、
そろそろ嫌気がさして、「文学を語ることがそんなに偉いか!」と、反発も感じているところです。                                                                      (大堀氏)


               *


~そもそも、道場破りのつもりか何か知らないが、
わざわざ「文学の土俵」にやってきて、大見得を切って、どこかで教わった得意の技をかけようと思ったら、
肩透かしをくわされ、土俵際に追い詰められ、
「相撲が偉いか!」「柔道がなんぼのもんじゃ!」みたいな泣き言をいうこと自体が、おかしいのです。
相撲の世界では「かわいがる」とか、いいますね。


■つまり、私が言いたいのは、何ゆえに、それほど三島にこだわるのかという疑問ですね。
何も天皇や國體護持を言うのならば、三島でなくて他の論者を引用してもよい。

以前、大堀さんは、三島をはじめ、谷口雅春ら、四人の著作家を挙げたと思うのですが、
その中でも三島に対する言及が非常に多い。
その四人から影響をうけた言説を、内的に融合させて、じっくりと発酵させた自分独自の主張を語るというより、
三島の発言に倣い、それを引いた発言が多い。

仮にそうだとしても、文学者としての三島や、その作品世界に惹かれ、
その結果として、憲法問題や天皇観にも目を開かれた……というのなら、私にも話がわかるわけです。

~ところが、貴兄の場合は、

>「わたくしは、一人の文学者が生命を賭して投げかけた「問題提起」に対して、憲法改正が現実味を帯びて
論じられる中で、余りに上滑りの犯罪的な浅薄さにあることを自分も含めて反省しなければならないと思っています。」

>「歴史や伝統の重みや国家とは何か、守るべきものは何か、浮薄な現実に流されて考えることを放棄し、
考えることをタブーとしてきたような戦後の日本人に、一人の文学者が体を張って訴えたことは
大きな意味があるとわたくは昨日改めて思った次第であります。」

などと、「文学者・三島由紀夫」を、繰り返し、強調しながらも、

①三島文学には違和感を感じた
②三島の天皇観や憲法観は、共鳴する

という。


■それこそ、「三島を語ることがそんなに偉いか!」と、反発も感じているところ……になってしまうです。
スジが違うだろうと。
あるいは、単なるヒロイズムだろうと。

三島という表現者・行動者の持っている矛盾
(それ自体は色々な問題があるわけで、論じるに値するものだと思います。私は村上春樹が三島を越えているとは、とうてい思えません)
を見据えて、大堀さんが「自分の言葉と自分の思考」で、語るというのならば、面白い。
しかし…。



■要するに、大堀さんの三島論は、ノーベル賞候補文学者としての三島の世間的評価を、
政治的主張に"借用"しているわけであって、
言い換えれば、文学オタクを黙らせる手段化、しているのではないか。
(安倍晋三の天皇の権威利用によく似ている)

別な角度から言えば、結局、どこかの団体や組織に属したときに、外から"移植"された三島熱なのでしょう。
互いに論をぶつけ合っている最中に、「先輩に私はそう教わりました」などと真顔で言ってくる論者は、初めて見ましたよ。

しかし、自分の暗中模索の中での読書や思索によって出あった三島論でなければ、
あまり内発性も説得力も感じられないと思うのです。


              *


■ただし、
以下のところの問題(①②)を凝視して深めていけば、
何か大堀さんなりの独自の面白いものが出来るかもしれません。

>私は「文化防衛論」も「問題提起(日本国憲法)」も本気で書かれていると思いますので、
 澁澤龍彦のように「アリバイ工作」などとは思えません。①

>三島の考え方や行動は、松陰や西郷のように日本の歴史を貫くコアな部分に沿うもので、
 後世を変革しうる力を持っているとわたくしは信じております。②



 

極論人

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年12月 3日(日)03時56分36秒
  興味深いテープのご紹介ありがとうございます。

>もう一つ奥の"そもそも論"をいいますと、三島由紀夫は何よりも文学者でしょう。
 それ以外の何なんですか?

 人間には様々な顔があって、鴎外は軍医でしたし、漱石は教師でした。

三島ほど多面的、マルチな活動をした作家は珍しく、はじめ、大蔵官僚になりましたし、電車のホームから転落したので作家との二股はあきらめて、「病名が確定された入院患者のように」文学者として専心するようになりますが、俳優をやり、映画にも数本出て、演劇、歌、ホディビル、ボクシング、剣道(八段)、空手、楯の会隊長、「何よりも文学者」というのは確かですが、それ以外に様々なことを本気で取り組み、『豊饒の海』の二巻「奔馬」を書いたころから、愛国熱が強まって、文人であるより、武人として鎮西八郎源為朝を理想としてドラマティックに死ぬことを思い描いて頭の中のイメージがついに現実として結実してしまってああいうことになったのだとわたくしは理解しています。

 三島自身、自分の文学と行動を両方理会してくれる人は稀であろうと言っていますが、以前「群系」に書きましたようにわたくしは、三島のartificialな文学には馴染めず、どちらかというと晩年の評論や随筆をよく読みました。

 でありますから、草原さんとは三島へのアプローチが違っております。

>~「ほんとうにこの人は、"楯の会の三島由紀夫"ではなく、三島文学に魅力を感じているのだろうか」という不信感です。

 不信も何も、わたくしは文学の基本がわかっていないというコンプレックスがある人間で、楯の会の三島の方に断然惹かれる人間ですから、三島の文学を語らない、語れないのは必然でこれまでのこの板への書き込みもほとんどが情勢論、政治論に終始してきましたことからも、理解いただいていると思っておりました。

 ですから、そもそも文学でなく、憲法論を今回も最初に書き込んで、皆さんのご意見を伺えたらいいと思いましたものを、「文学を語れ」と痛いところを突かれて、無理やり文学の土俵に引きずり出されて逃げようとするところをまた捕まえられて、執拗に「文学」「ブンガクッ!」と言われますので、そろそろ嫌気がさして、「文学を語ることがそんなに偉いか!」と、反発も感じているところです。

 三島は政治を嫌っていましたから、愛国的「行動」も広い意味での文学だと思います。

 三島は「なにより文学者」だから、耽美的な小説が彼の本領でそこにこそ三島の核があるはずだからそこをスルーのは邪道だと決めつけられますが、

 スルーするつもりはなく、作品、行動すべてが三島という人間の表れで、余りに多面的であるので入り口もたくさんあり、その捉え方も多岐に分かれ、食い違いが起こってくるのではないかと思います。

 私は「文化防衛論」も「問題提起(日本国憲法)」も本気で書かれていると思いますので、澁澤龍彦のように「アリバイ工作」などとは思えません。

 三島の考え方や行動は、松陰や西郷のように日本の歴史を貫くコアな部分に沿うもので、後世を変革しうる力を持っているとわたくしは信じております。

 その点他の作家とはまったく異なると思っています。

「文芸同人誌の掲示板であるから文学を語るのは当然だろう」と言われればその通りです。

場違いなことを書いてしまったとも思いますが、

「なにより文学者」である三島が書いた憲法論であることは確かでありますし、同じ自殺した作家でも、芥川や太宰や川端とはその方法もまるで違っていたことも事実で、特異であったことは同意いただけると思います。


 

短いけれども重要な肉声

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年12月 3日(日)01時53分55秒
編集済
  【三島由紀夫の未発表テープ見つかる、命を絶つ9か月前の肉声】
https://www.youtube.com/watch?v=cZ9SZMbhFTY

■死ぬ九カ月前。
なかなか興味深いテープですね。TBSのお蔵の中にあったとか。
三島由紀夫はこの中で、二つの重要な言葉を語っています。

  ①自分の小説の欠点は、構成が劇的過ぎること
  ②死の位置がいつのまにか、肉体の外から入り込んできた


①は三島が自作についてすら、冷徹な批評家であったことを示している…
ともとれるし、劇的でなさすぎる日本の小説への居直りともとれる。
と同時に、それらもまた自分の作品と同様、西欧流の「大河小説」でもないことへの皮肉でもある。

②で出てくる「死の位置が外から入り込んで来た」というのは、
ややオカルト的な響きもないではない。


どうも、現実の生の世界でも、伏線を張りたがる人ですね。

~参考までに。

 

大堀さんにとって、三島由紀夫の小説は、ほんとうのことを言って、面白いんですか? 

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年12月 1日(金)20時07分45秒
編集済
  >そもそも論をいいますと、わたくしは、三島の憲法論を振り返るつもりで投稿して、それが憲法論議に資する部分があると考えたのですが、どうしても、文学、しかも耽美的、芸術至上主義へと話をもっていかれたいようで、わたくしの意図とはどんどんかけ離れ、引きずられて、

■しかし、もう一つ奥の"そもそも論"をいいますと、三島由紀夫は何よりも文学者でしょう。
 それ以外の何なんですか?


               *


>わたしも「戦慄的な性的恍惚の世界」に惹かれますが、三島は作品と現実とは截然と切り離して、
客があっても平然と自慰に耽るような、非常識人ではありませんでした。

■なんでこういう極論を、言うですかな~~(笑)。
これって、"非常識人"の典型的な譬え、なんですか?
面白いですね、大堀さんて。

わたしは三島の「面妖」な部分を、ネガティブなものとして否定しているわけではなく
(むしろ、谷崎や、鏡花や、上田秋成や、サドや、バタイユや、
ジャン・ジュネや、澁澤龍彦や、沼正三に通じる要素をこそ、三島の魅力だと思っているわけですが)
その部分に対して、大堀さんは、不感症というか、音痴というか、
まあ、スルーされているかのように思われたので、コメントをしたまでです。

~「ほんとうにこの人は、"楯の会の三島由紀夫"ではなく、三島文学に魅力を感じているのだろうか」
という不信感です。

そういう人が、三島の政治的行動や、政治的発言のみを推奨して、
自分の天皇観の補強のために引用されているような気がして、妙な違和感を感じたわけです。

私には、大堀さんの三島観は、あまりに「公人」的であり、
硬直し過ぎているように思われます。

                *

>漱石は「則天去私」などとカッコイイことをいいながら、女装癖があった、
あんな変態文学者の書くことなど研究するのもバカバカしいとか、女装癖のあった変態オヤジの漱石こそ
本性で明治帝の葬送の日の憂いを帯びた肖像の漱石など外面を装っているに過ぎない、
ということと同義ではないかと思います。

■これもまた極論ですな。
たとえ漱石が女装を趣味としていたとしても、それは漱石の文学の本質ではないでしょうが、
三島のエロティシズムや特異な美学は、創作衝動の核に近いものでしょう。
「同義ではないかと思います」というほどの説得性はない。

それに「変態」を否定したら、三島以前に、谷崎文学などはどうなるんですかね。
『みずうみ』や『眠れる美女』の川端は、どうなっちゃうんですか。
こういう論法には、なんだか常識人のリゴリズムしか感じられないんですけど。
別に私は、正論と邪論・曲論というような社会通念的な二元論で語っているわけではありません。

>「則天去私」などとカッコイイことをいいながら、女装癖があった、あんな変態文学者の書くことなど
研究するのもバカバカしいとか

■だいたいこんな言葉が出てくること自体が、私には〈?〉であります。


 

旧パソコンのHDDを蘇らす。

 投稿者:管理人 iPad 398  投稿日:2017年12月 1日(金)17時48分21秒
編集済
    群系39号の発送の段取りも済んで、多少時間が出来たので、パソコンの調整、さらに中断していた群系ホームページ作成にかかりつつあります。
   このところ、この掲示板投稿も、群系執筆者との連絡もほとんどiPadで済ませていましたが、発送先などはデスクトップの方に今までのがあるので(Excelなど)、仕方なく机に向かってスィッチオンしたら、なんと起動したではありませんか。実はこれ、前にも書いたかもしれませんが、dellに電話して、案内の人の言う通りにやったら、今までうんともすんともだったものが、スムーズに今まで通り働くのでした。そこで問題なのは、デスクトップが壊れたのを見越して購入したノートパソコンです。これはHP製の高級機で、税金も含めて14万以上もしたのでした(現金即決払い済み)。ま、これで群系ホームページも作ろうと思って、あえていいものを購入したのですが、宝の持ち腐れ状態です。ネットの引き取りの会社を検索して、幾らで現金化できるか検索してみると、なんと3万円でした。先月購入したばかりのうす型スタイリッシュなものが、これではと思って、いままだ自分のところにあります。

  iPadは便利で、さらに検索、dellのデスクトップ(Windows10)の前のデスクトップ、まあ五年以上前の、HP、すなわちヒューレットパッカードのデスクトップパソコン(Windows Vista)も、この際なおらないか、いろいろ調べると、中の記憶装置、つまりHDDを取り出して、外付けHDDを介して、新しいPC、つまり、先のdellに転送するという方法が書かれているサイトがありました。無論、旧のPCが起動しなくても、HDDは大丈夫という前提ですが。
   そのための、接続ライン、USBなどや外付けHDDなどの購入が必要となりますが、PCの組み立ては以前にやったことがあるので、この際挑戦してみようかと、思いなりました。PCの専門家の出前出張を頼む手もあるのですが、やはり相当費用がjかかるだろうし、この際、Windows10の勉強も兼ねて、やってみようと思います。
   まえのHPデスクトップのHDDが復旧、使用できれば、群系ホームページ作成のネックになっている、アドレスの問題や、二つのホームページというもんだいがなくなり、いままでのを更新すればいいようになります。

   ところで、くだんのノートパソコンは、HP社製の、HP ENVY 13 というやつです。13インチ薄型、特に画面の縁(ベゼル)が極力薄い(画面が大きくなる)もので、カッコもいいものです。欲しい方は、半額でお譲りしたく思っています。以下のHPのサイトのうち、下にある方のモデルです。core i5 搭載の、117,000円に、wordとExcelがインストール、さらに、マカフィーだったか、ウイルスソフトも入っています。だから14万になったのですが、半分の7万円でいかがでしょうか。小型 ・軽量タイプでもあります。

http://jp.ext.hp.com/notebooks/personal/envy_13_ad000/

 

バタイユではなくプラトン

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年12月 1日(金)11時48分15秒
編集済
   そもそも論をいいますと、わたくしは、三島の憲法論を振り返るつもりで投稿して、それが憲法論議に資する部分があると考えたのですが、どうしても、文学、しかも耽美的、芸術至上主義へと話をもっていかれたいようで、わたくしの意図とはどんどんかけ離れ、引きずられて、

▽あの異常な「血」への嗜好と、偏執的で克明な描写
▽エロスとタナトスを地でいくような、バタイユのあの虚無的な忘我の思想
▽恍惚の中で死が生を貪り食うような肉感的世界
▽エロティシズムそのものが自己目的化した、未来のない夜の裏町のニヒリスティックで戦慄的な性的恍惚の世界

 これこそ三島の本性で、「行動」とか「楯の会」とかは

▽その味付けとなったことでしょう。というか、主義や観念と、ホモセクシュアルな性関係は、不可分であることが望ましい――と三島自身は、思っていたんじゃないですかね。

 澁澤龍彦が三島の死を「エロチシズムの極致」と言い、行動はアリバイ工作に過ぎないと断定していました。

 おそらく草原さんも同様なお考えでないかと思います。

 そう考えれば、「文化防衛論」とか「問題提起」も単に表向きの体裁を整えるための「工作」に過ぎず、まじめに考える方がバカバカしいということになります。

 漱石は「則天去私」などとカッコイイことをいいながら、女装癖があった、あんな変態文学者の書くことなど研究するのもバカバカしいとか、女装癖のあった変態オヤジの漱石こそ本性で明治帝の葬送の日の憂いを帯びた肖像の漱石など外面を装っているに過ぎない、ということと同義ではないかと思います。

 どんな正論を言っても書いてきた作品がバックにあってあれこれ言われるのは文学者の宿命で致し方ないと思いますが、三島なりに真実を求めて至高の生き方を模索して、達したのが「義の為に死する」というスタイルで、当人としては真面目に、本気で取り組んだことですから、文学をそこへねじ込んで、どうこう言ってもいいですが、正論まで押し流してしまったら残念なことではないかと思います。

 わたしも「戦慄的な性的恍惚の世界」に惹かれますが、三島は作品と現実とは截然と切り離して、来客があっても平然と自慰に耽るような、非常識人ではありませんでした。


▽夭折への憧憬はナルシズムであって、すなわち美的なエゴイズム、エゴチズムであって、
他者のための自己犠牲とは、まったく関係ないでしょう。

 それはそうだと思います。
 それは三島の個人的な願望でエゴですが、その方法に「自己犠牲」を希求したということです。

▽この三島の「朕の為に死ね」という至高のエロスとやらを、できることなら、すべての日本国民は共有すべきだというのが、大堀さんの主張なのでしょうか。

 少なくとも防衛の任にあたる人々は共有すべきだと思いますが、正当に理解されるとは思われない言葉ですから、それはムリだと思います。
 しかし、特攻兵士の出撃前のあの信じられない清々しい様子はおそらく「至高のエロース」を実感していたと思われます。


 引用されました「カプリチオ」所載の堂本氏と田中氏との対談は、目がくらんで全文は読めませんでしたが、最後にオスカー・ワイルドの「幸福な王子」のことが述べられていました。
 オスカー・ワイルドこそは肉的快楽の美から精神的な美に目覚めた人で、

対談の結びは、

▽日本人は物質の近代化には、みごとに成功したけれど、果して魂の近代化に到達することができるだろうか、と三島由紀夫は言っていました。科学文明は、魂の問題を置き去りにして突走り、今、徐々に、その復讐を受けつつあるのかもしれません。

でしたので、

三島も耽美主義から、精神的な美に目覚めた人であることを肯定されていたのではないかと思いますが、ちがいますか?
 

プラトンではなくバタイユ

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年11月30日(木)20時20分6秒
編集済
  >三島は天皇という絶対者を見出してここにエロースを感じ、「朕の為に死ね」という
絶対者からの命令に従うことを至高のエロースという風にとらえたのだとわたくしは理解しております。

■大堀さんは、「朕のために死ね」という言葉に、"至高のエロース"を感じるのでしょうか。
わたしは、さ~っぱり、感じませんがね。
そもそも、絶対者は、現象世界には現れませんし。
(断っておきますが、私は一応、天皇制存続論者です。宗教性はまったくない天皇機関説ですが)

この三島の「朕の為に死ね」という至高のエロスとやらを、
できることなら、
すべての日本国民は共有すべきだというのが、大堀さんの主張なのでしょうか。


               *

>自己犠牲というのは、「友の為に死ぬ。これより大なる愛はなし」ということで、
むしろアガペーだと思うのですが、なんでセックスと混同されやすいエロースを三島は使ったのかよくわかりません。

■どうして三島のいうエロティシズムが、アガペーに限られるんですか??
そもそも、大堀さんの三島観が正しいとするなら、
エロスではなく、アガペーという言葉をこそ、三島は多用したはずではないですか。
三島は別に、セックスとエロスとを"仕分け"なんかしていないんじゃないですか。

確かに戦時中には、そういう「大いなる愛」や「自己犠牲」や、「祖国愛」はあったでしょうし、
日本の男たちは、妻や子、老母や老父、故郷の人々のために、戦地へ赴いたのでしょう。
あるいはヒロイックな軍人同士のエピソードなど、戦場から伝わって来るそんな逸話に、三島は憧憬を感じることはあったでしょう。
しかし、彼が言っているのは、いくらなんでも、そういう「愛」だけではないでしょう(笑)
あの異常な「血」への嗜好と、偏執的で克明な描写は、アガペーでしょうか。
むしろ、別のもの……ではないのですか。


三島が言っているのは、
ビーナスやキューピットや天使のいるプラトン的なエロスのイディアではなくて、
むしろ、バタイユ経由の暗く冷たい即物的エロティシズムですよ。
「エロティシズムとは、死に至るまでの生の高揚である」という、
まさに、エロスとタナトスを地でいくような、バタイユのあの虚無的な忘我の思想。

ここでは、大堀さんがいうような生の価値と死の価値との二者択一的な二元論ではなく、
己自身を蝋燭の焔のように蕩尽しつくす自己破壊的な意志として、生と死とは、連続している。
しかも、自然と社会と親類一同に温かく祝福されるような"明るい家族計画"の子作り……などとは無縁の、
エロティシズムそのものが自己目的化した、未来のない夜の裏町のニヒリスティックで戦慄的な性的恍惚の世界。
(→『マダム・エトワルダ』)
あるいは、しばしばサディズムや、拷問や、グランギニョールを思わせる残酷な臓物的世界のエロティシズム。(→『眼球譚』)
しかも、三島の場合は、そこに自作自演のナルシズムと、露出趣味とが重なっている。
http://livedoor.blogimg.jp/asongotoh/imgs/e/3/e39c8883.jpg


「聖セバスチャンの殉教」を三島が真似た上の写真とよく似た清朝期の処刑写真
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3107/lengtche.gif
美しい自己犠牲やアガペーだけでは、なぜ三島やバタイユが、
こんな罰当たりな写真(清朝末・寸刻みの刑/G・バタイユ「エロスの涙」収録)に
異様に興味を持つのかは、説明できない。


               *

>夭折に憧れていた三島は焦っていたようで、西郷が49歳でしたから、45歳はぎりぎり限界だと考えていた ようです。
 ああするしかなかったというのが、美を追究した三島の生き方だと思います。

■ここは、無茶苦茶ですね。
夭折への憧憬はナルシズムであって、すなわち美的なエゴイズム、エゴチズムであって、
他者のための自己犠牲とは、まったく関係ないでしょう。
「天」を相手にした西郷の死のほうが、むしろ大堀さんのいう「アガペー」に近いのでは。

               *


■どうも、大堀さんの「国士的な三島観」は、
その文学の核の〈面妖〉な部分を、あえて見ないようにしているのではないか。
しかし、三島文学から、肉体的エロス(アガペーではなく)と、
身体的ナルシズム(あるいはその陰画としてのコンプレックス)をとったら、あと、何が残るんですか。
もちろん、あのいささか金属臭の強すぎるような豊饒で華麗な言語表現や、構成力の才能以外。

■三島はゲイですから、G・バタイユのようにパリの夜の街を彷徨い歩き、娼婦を買って梅毒をうつされ、
あげくの果てに脳が冒され、精神崩壊に到るというパターンではなかったにしろ、
彼のいうエロティシズムも、恍惚の中で死が生を貪り食うような肉感的世界であり、
大義や、至誠は、しばしばある境界線を超えた時、価値のシーソーは逆転し、その味付けとなったことでしょう。
というか、主義や観念と、ホモセクシュアルな性関係は、不可分であることが望ましい――と三島自身は、思っていたんじゃないですかね。

                *



少し読みにくいかも知れませんが、昔のインタビューを張っておきます。

【三島由起夫とアプレゲールの悪童たち(一九九八年八月十七日/鎌倉】
 カプリチオ10号
http://kapri.la.coocan.jp/mishima.htm
~堂本正樹氏と田中美代子氏による三島由紀夫~



 

至高の愛=エロース

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年11月30日(木)12時21分58秒
編集済
   エロスというのは、セックスではなく愛ということで、この愛にもアガペーとかフィリアとか微妙に異なるニュアンスの言葉があるのですが、満たされないものを希求するというのがエロースで、三島は天皇という絶対者を見出してここにエロースを感じ、「朕の為に死ね」という絶対者からの命令に従うことを至高のエロースという風にとらえたのだとわたくしは理解しております。

 三島と石原慎太郎が、人間として、男として最も価値ある生き方は何だと問うて、お互い紙に書いて、せーのと見せ合ったら二人とも「自己犠牲」と書いてあったので、意気投合したと後年慎太郎が語っていました。

 自己犠牲というのは、「友の為に死ぬ。これより大なる愛はなし」ということで、むしろアガペーだと思うのですが、なんでセックスと混同されやすいエロースを三島は使ったのかよくわかりません。

 2年前、わたくしは宮城県の南三陸町を訪れましたが、防災無線でぎりぎりまで避難を呼びかけて自らは津波に呑み込まれてしまった遠藤未希さん(24)はじめ、人を救いながら自らは死んでしまった人の話をいくつか耳にしました。

 ここには確かに美があります。

 自ら助かることを最優先する「津波てんでんこ」(津波のときは何をおいてもおのおのとにかく逃げろ)という教えがあの地方にはあるのですが、それはそれで正しいのですが、とっさの場面で、人の救出を優先して自らの命を後にして犠牲となってしまった人の話には涙を禁じ得ませんし、そこに人間として最も高貴な美的生き方が確かにあると思います。

 三島は、作品の中に、そして俳優となったりホディビルをやったりして、実生活の中に美を実現していって、究極の美は「友の為に死する」「自己犠牲」「絶対者の要請に従って死する」ことだと思い至ったのではないかとわたくしは理解しております。

 ところが戦後は、「生きること」が至上価値で、醜悪になっても生きることがとにかく大事、命あっての物種で、安田講堂に立てこもった学生の中には死ぬものがいなかった、捕まってから裸になって抵抗している、これがわからないと三島はテープの中で述べていましたが、要するに「生の論理」で、「死」ということが絶対に忌避される。
 自己犠牲など犬死くらいしか思われないというのが、戦後の価値観で、政治はその論理の上に立って、欺瞞と偽善を重ねて醜悪にすべてを乗り切ろうとしていることに三島は我慢ができなかったと思います。

 夭折に憧れていた三島は焦っていたようで、西郷が49歳でしたから、45歳はぎりぎり限界だと考えていたようです。
 ああするしかなかったというのが、美を追究した三島の生き方だと思います。

 政治に首を突っ込めば泥沼だとテープの中で言っていましたが、同じく「自己犠牲」を価値と思っていた慎太郎は政治家になり、代議士、知事となり、暴走老人といわれ、老体をさらしていますが、あれは三島には耐えられなかったと思います。

 エロースと死についてはそのように理解しております。

 今一つのお尋ねは、なぜ安倍を支持するのかということですが、何度も申しておりますように国家観、歴史観が一致しているからで、政治に首を突っ込んで泥沼の中に身を浸して、妥協につぐ妥協、欺瞞、偽善の中で理想も何も薄まって、隅に追いやられ、ほとんど吹き飛んでしまいそうですが、
期待するとすればもはや安倍が最後で、これを逸すれば、もはや永遠に憲法は変わらず、日本はアメリカの属国として固定され、日本の主体など求めるべくもなく、他国に呑まれて消えてしまうかもしれないと思うからです。

 草原さんのアベ批判には反論しないことに致しましたが、九条に三項を加えるだけでも、日本人の主体を発揮して、なんとか國體を具現した安定した日本を後世に伝えていきたいと考えておりますので、安倍に期待するしかありません。

 あのインタビューは事件の1週間前のものですが、古林尚氏も軍隊経験がある人で、三島の作品には通暁しているのですが、「わからない」を連発していました。

 現身の天皇ではなく、ゾルレンとしての天皇を信ずるということは、もはや信仰の域のことですから、知的理解の及ばないところで、えいッと水溜まりを飛び越えないと向こう側には行けず、いつまで経ってもわからない、見えない景色なんだと思います。


 

三島由紀夫 最後の言葉

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年11月29日(水)21時20分28秒
編集済
  ■大堀さんが想定しているらしいこの板の閲覧者が、別に三島由紀夫が気に食わないとか、
三島文学が気に食わないとかは、まったくないと思いますよ。

また、私の場合、個人的には「右翼・反動・ファシストの大堀自体が気に食わない」ということもありません。
ある程度のナショナリズムは必要だと思っています。
ただ、過剰なまでのナショナリズムは、結局は、自己破壊衝動へと雪崩れ込んでしまう。

それはそうとしても(つまり、一方では戦勝国の作った戦後体制への批判があり、大堀氏の信念体系がどうであるにせよ)、
なぜ、あの、"安倍ごとき"を、民族派だと信じて、支持できるのか――なのです。
いまの安倍マフィア一味は、ただの利権右翼にしか見えません。
三島由紀夫や、頭山満に座標軸を置いて、その視座で、
安倍を"台所包丁"で切って捨てる、というのなら、まだわかります。

以前、安倍晋三について、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのか」、
などと貴兄になじられましたが、そのときは、そんなことはない……ぐらいの反応でした。
いまじゃ、ほんとに、憎しみを感じています。

http://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs

                *


■せっかくですから、この際、三島の肉声を聴いてみるのもいいかも知れません。
この古林尚インタビューのテープ、新潮社で出しているものですね。
タイトルは違っていたような。

【【三島由紀夫】日本思想の神髄 】
https://www.youtube.com/watch?v=HMLilA4Rtww

■三島は、戦後日本という相対主義的な大衆消費社会の中で「絶対性」の必要を語る。
三島の美学的神学(?)の中では、その「絶対性」の対応物は、天皇……ということになる。
これは、日本人としての三島由紀夫なりの"ニヒリズムの超克"ということなのでしょう。
バタイユに親近感を持っている三島は、その絶対性は、当然、「エロティシズム/死」と不可分である。

しかし、ここのところは、大堀さんの言葉からは出てこない。
~これでは三島を語ったことには、ならないのではないか。
大堀さんの語る三島由紀夫は、つねに「義の人」であり、「憂国の人」であり、
そこにはデーモンも、エロスもない。

しかし、三島文学からこの後半部分をとってしまったら、あと何が残る?
白馬に乗った軍服姿の天皇?





 

三島事件の年

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2017年11月29日(水)18時32分30秒
編集済
  大阪万博が終わり、しばらくした頃のことでしたね。

下校の定期船に乗る時、「三島由紀夫が割腹自殺したらしいぞ」と聞いたのですが、どこか違う世界での出来事といった印象でした。(演劇に近い印象でしょうか)

どの家も戦死者を出していましたから、理解できないというわけではなかったのですが、三島の行動は、何か大きな錯覚にとらわれた結末だったのではなかろうか、といったところでした。(中学一年生の素朴な感想)

大阪万博の夏、親子くらい年上の従兄弟夫婦の家に二週間。
貝塚駅から南海線で海沿いに北上。難波で乗り換え、北千里で降りたら、会場の入り口。月の石について質問しました。地球だとかんらん岩じゃない。それがわかったということ。地球だけが特別なものではないということ。

印象に残ったのは太陽の塔でした。背中は黒い太陽、足元には太古の太陽。BGM「生命の賛歌」のイメージは(旋律や音律は忘れてしまいましたが)今もよく覚えています。
 

荻野さんへ

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年11月29日(水)18時15分49秒
編集済
  再掲してくださってありがとうございます。

 この板の読者の大半の方はアナクロニズムな三島の「行動」などは唾棄すべきものだと思っていらっしゃるでしょうから、わたくしの三島についての書き込み、いや右翼・反動・ファシストの大堀自体が気に食わないでしょうから、不快な思いをされることは覚悟で書きました。

 憲法を論議する必要もないと言われる方は別ですが、見直すべきだという議論も高まってはいると思いますから、文学者である三島が憲法について語っていることを振り返ることは無意味ではないと思いましたので、命日に際して、私なりに、理解していたことを述べたまでです。
 自分の言葉になっていないのは、紹介のつもりで書いたからで、三島論を展開するつもりはなかったからであります。

 無意味だと思われる方はスルーしてくださいとお断りしたはずです。

 然るを、荻野さんは半分ブチ切れた調子で即座に書き込みをされましたので、どうお返事しようかと思案していましたところ、
翌日板を開くと、管理人様のフォローされるような三島の行動への衝撃を綴った書き込みがあって、荻野さんのは消されていましたので、驚くと同時にホッとしたというか、肩透かしを食ったというか、勝利感のようなものも少しありました。

 そうしたところ今度は、他板「カプリチオ」の板亭も兼ねている草原さんが、荻野さん援護、大堀挑発の短い書き込みをされて、

草原さんらしいと思っていたところ、

荻野さんが消したものを復元されましたので、またご立派なことだと思い、張り合いが戻ったと喜んでいるような次第であります。

 ①自分の言葉で三島を語れ

 でありますから、憲法論が盛り上がる中で、文学者としての三島が憲法について何を言っていたかを振り返るつもりで書きましたので、紹介する内容ですから、自分の言葉になっていなかったと思います。
 引用や要約が主ですから、自分の言葉が抑えられるのは自然だと思います。

 ②三島の文学を語れ

 三島は文学と行動を截然と分けておりました。
最後の「檄」は三島らしからぬ悪文だという人がいますが、あれは行動者として書いているからであんなところに変なメタファーやイロニーなど使ったら、腰が砕けてしまいます。
 でありますから、憲法論を振り返ろうとするところに三島が文学者であるからと言って、文学を語らなければならないという論理にはムリがあります。

  三島は文人であることを否定して武人であることを志したのでありますから、そこに文学をねじ込んで語れというのはムリです。

 作品を読んでいれば、熱心な読者なら「あ、この人は死ぬな」ということは予感できたらしいです。

 三島ファンの少年が訪ねてきて、単刀直入に「先生はいつ死ぬのですか」と聞いて三島は絶句したというエピソードが残っていますが、文学から語ることができるのはそれだけで、あの行動と文学を結び付けて語ることはどれだけの意味があるのか、おそらく文学からアプローチしても玉ねぎの皮をむくように結局何も出てこないと思います。
「『禁色』を書いたあの三島が、…信じられない」という感想を述べた知識人がいましたが、文学と行動は別。
文学論は別として語るのが筋だとわたくしは思います。

以前「群系」20号と21号に三島について書きました。

21号は「暴力性」があり大江健三郎を批判して、削除したくなる内容なので、20号を貼り付けます。
あともう一遍もweb「風」に書いたものも貼り付けておきますので、よろしければお読みください。

http://kaze.in.coocan.jp/oohori03.html

 http://kaze.in.coocan.jp/kaze02.html

 わたくしが思いますに、國體についての理解がないところでは、スタートから食い違って折り合いがつかず、お互いいがみ合うことしかありえないと思います。
 左翼の源流といわれる中江兆民と右翼の源流といわれる頭山満が折り合えるばかりか、仲がよかったのは、國體については理解が一致していたからであります。

>”國体”護持(さてこれがサッパリ判らないので困っていますが)(荻野さん)

 自らのアイデンティーを突き詰めていけば、必ず日本人であること、そして日本という長い歴史をもった国の始原に思い至り、この國體ということに行く着くはずでありますが、学校では神話も教育されませんし、「アナクロニズム」というレッテルが貼られて一蹴されるのがオチですから。

 お互いいがみ合うしか仕方ないかもしれませんが、
 「暴力性」があってもかまいませんから、草原さんのように挑発し続けて削除されることのないようにお願い致します。
 

真冬のガーベラ

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年11月29日(水)10時56分4秒
  五月頃に義母が買ってきてくれたガーベラ。温帯・亜熱帯に咲く花ですが温かい地域では秋深くなっても咲くそうです。にしてもこの寒さ。

花が散ってから半年、ほおっておいたら昨日一輪の開花しているのを見つけました。

う~む。
 

(再掲) 大堀さんへ

 投稿者:荻野央  投稿日:2017年11月29日(水)10時35分34秒
編集済
  削除した理由は、わたしの投稿文にいささか”暴力性”があったり、独善的な判断が入っているかもしれないと感じたからです。(草原さんがそうでもないよ、と言われたので、もう一度・・・)

”憂国”の観点では、その根本のところでは、そんなに大堀さんとわたしは変わってはいないと思いますが、その後の展開については去年来この板で現代政治の発言をわたしは書いてきたし、大堀さんは”國体”護持(さてこれがサッパリ判らないので困っていますが)を踏まえての思想的な発言との差異があるわけです。現政権に対して「あなたがたこそが国難だ!」というブラックなヤジと、まあいくらか問題があろうとも現政権しかない、とした結論にいたるところです。

それはさておいて、大堀さんには三島文学について語っていただきたいと思います。三島が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をしたとき、わたしは19歳でした。つまりライブで見聞したわけで、なんとも嫌な感触に包まれたことを覚えています。楯の会の、あの無表情な茶色の軍服を着てキーキーと意味の判らない三島の演説は、悲しいものに目に映ったことです。(当時の自衛隊員が、やめろと怒号していたのを覚えています)
まさに、「時代錯誤」!!

この憂国の文士の論考を、ぜひ大堀さんにお願いしたい。三島の政治思想は要りません。彼にとって「戦後は単に空白にしか過ぎない」とインタビューに応えていました。ただまあ、それだけではなかろうと思うからです。

どうでしょうか??

▲(削除した投稿)
「三島の割腹事件は当時わたしは日吉の学舎で聴きました。馬鹿か、と率直に感じたことです。一挙に時間が過去にさかのぼり、慌てて「豊饒の海」を買って読みました。いい思い出ですとはいえない忌まわしい記憶です。大堀さんは、まずもって三島文学に言及すべきです。彼の一連の政治的な発言と行動に、「自分の言葉」で解析しましょう。他者の言説を引用するだけではほぼ意味がありません。つまり貴方の説得性に欠けています。
右翼であるとかそうでないとかの議論ではない。大堀さんのoriginalな議論が無いとただの「放談」に堕する危難がありはしませんか?。
 

(無題)

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年11月28日(火)19時20分15秒
編集済
  あれっ、
荻野さん、コメント消しちゃったんですか。
せっかく、大堀さんに対する的確な指摘だったのに。

~確か、

①自分の言葉と考えで書け。
②三島由紀夫の政治思想だけではなく、三島文学についてどう思うのか。
その辺りが大堀コメントにはない、とか。

私も以前から、そう思っておりました。
別に、消さなくても良かったのに。

 

狐の手帖(刊行書目)

 投稿者:狐の孫娘  投稿日:2017年11月27日(月)23時22分59秒
  詩歌部門。

歌集:『アドニス頌』
   『火の泉』
   『塚本邦雄論集』(共著)

詩集:『シオンの娘』
   『ラマ・タブタブ』
   『火の舞踏』
   『万華鏡』
   『戦後詩大系』(共著)

   『現代詩の鑑賞』(共著)
   『現代詩の解釈と鑑賞事典』(共著)

紀行部門。

紀行:『金沢文学散歩道』(共著)
   『加賀能登文学散歩道』(共著)
   『金沢文学散歩』
   『鎌倉文学散歩』
   『坂東三十三カ所巡り』
   『秩父三十四カ所巡り』
   『霊場の事典』(共著)

評論・評伝部門。

評論:『渡辺淳一作品にみるヒロインたちの生きかた』(共著)
   『ふるさと文学探訪ーー鏡花・秋声・犀星』(共著)

評伝:『愛の狩人 室生犀星』
   『「日本百名山」の背景ーー深田久弥・二つの愛』
 

三島事件のショック

 投稿者:管理人 iPad 875  投稿日:2017年11月27日(月)11時08分19秒
編集済
     三島由紀夫の自決は11月25日でしたね、あれから47年も経つのですか。でも、あの時小生はちょうど20歳、多感な年でしたから、あの衝撃は大きなものでした。ちょうど大学へ通学しようと、埼玉から亀戸駅の乗り換えのときでしたか、駅スタンドに「三島由紀夫が自決」とか、大きな見出しの記事が見えました。でもこれは夕刊フジのことで、何かこの新聞はいつもおどろしい見出しで読者の注目を集めているものでしたから、この記事もガセネタというか、何かあまり信用できず、一般紙の夕刊を見てみようというくらいの気持ちでした(当時はまだ、日刊ゲンダイは発行されていませんでした)。
   ところが大学に着いてみると、そのことで大騒ぎで、「死んだ、死んだ!」と史学科のヤツが大声で触れ回っていて、当方もことの重大さがわかり、その日の夕方からのテレビ、またそれ以降のニュース、解説に首ったけでした。当方はしそうてきなことより、ああいう自決をしたこと、また介錯した彼の首が朝日の一面横に掲載されていたことなど、状況に非常にショックを受けたものでした。
   ショックのほとぼりが冷めかけたころから、この自決をどうみるか、どう評価すべきか、に関心が集まりました。評論家や作家などの意見は二つに別れました。あの行動に同情的な意見を言うもの、反対にまったく評価しないものー。後者には共産党・民青の連中で、あまりに簡単に、反動だ、右翼だ、と切り捨てていました。当方はその頃から彼らに近い考えを持っていましたが、それでも、あまりに簡単に切って捨てるやり方に不満を感じていました。ひとりの人間が、それも高名な作家が一命を賭して訴えたのだから、もう少しその内面に入って考えるべきではないか、と。
   しかし、小生のこの感じ方は青二才の認識で、世の大人はもっと簡単な認識でした。その典型は、中曽根康弘氏の発言でした。当時、防衛庁長官でしたか、のちに「不沈空母」発言もした、大方が見る所の国家主義者然とした氏の発言は、三島の盾の会を、「宝塚みたいだ」と言ってのけたのでした。そのファッションを言ったものでしたが、そのように、世の大人はテンから三島たちの行動をまともなものとみなしていなかったのですね。
   若いみぎりの小生は、三島の市ヶ谷自衛隊での演説を暗記し、「諸君、なぜ立たないのか、武士ではないのか」と言う文句を道歩く中で繰り返ししたりしていました(だけれどそれは、ちょうど同じ頃のタイガースの歌の文句、「君だけが」を熱唱するのと同じ、精神でしたのでしょう。一言、熱しやすい気性でした)。
   それでも問題を正しく認識したい気持ちはあり、この間ずうっとある作家の発言をまっていました。それは大江健三郎のことでしたが、三島に対抗できる高名な知性と当時認識していたからでした。ところが、待ってても、この人の発言は聞かれない。がやっとそれを聞くことができるときがきました。多分朝日か何かの記事で見たと思うのですが、当時大江は日本にはいず、海外に滞在していたのでした。それも欧米ではなく、アジアの、貧しい一角、たしかインドかネパールあたりにいたようでした。その発言は要旨以下のようでした。ー
「その時私は、海の向こうから聞こえてくるハラキリをする日本の作家の絶叫を聞いていた。武士道を自衛隊の前で演説すると言うこのアナクロニズム、戦後民主主義を頭から否定するこの高名な作家の行動に腹立たしい思いであった」ー
    あ、そうかという気持ちがしました。やみくもに否定するするのではなく、自らの戦後的な文学活動から、大江氏は三島を許容できない、営々と築いてきた戦後民主主義に真っ向から立ちはだかるものだと認識しているのだな、と合点しました。

   三島由紀夫の政治活動は、その彼の文学活動と不即不離でしょうが、政治活動の方は誤解されやすい。なにせ外野にうるさい、不純な要素がいっぱいですから。三島の憂国の気持ちはわかる感じもしますが、世間のそういった分子、街に街宣車を繰り出し、ラウドスピーカーで怒鳴り散らす連中には、愛国も憂国の情も感じられない。ただのチンピラとしか思われないのです。
   左翼にしても、国際反戦デーの新宿騒乱も褒められたものではありませんが、そういう雑音を除いた、いわゆる至上の気持ちならわからないものでもない。しかし、愛国とは何か。三島も毛嫌いした「昭和元禄」から半世紀、平成の御代に愛国はどういうレゾンデートルを持つものでしょうか。
   三島由紀夫の文学といえば、「仮面の告白」や特に「金閣寺」にはその才能を感じたものでしたが、晩年の「豊饒の海」などには、彼の貴族趣味、金キラの美意識は 了解しましたが、やはり時代との疎隔というか、一種 砂上楼閣のような感じがしました。美に殉ずる主人公もわかるけど、現実の三島の割腹自決の方が、大きなインパクトがありました。

    愛国とは、この国の今、というより伝統・文化を寿ぐことではないか。さすれば、今廃れつつある、文学、万葉や古今集などの世界に身を浸したらいいのではないでしょうか。
 

三島・憲法

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年11月26日(日)11時12分34秒
   昨日は三島由紀夫が市ヶ谷で自決してから47年目の日にあたり、わたくしの会社では例年の如く有志が集って慰霊祭を行ったのでありますが、憲法改正も選挙の争点となるに及んでいよいよ現実味を帯びてきた中、三島が最晩年、憲法に対してどのような考えをもっていたかを振り返ることは無意味なことではないと思われます。
(いや無意味だ、と思われる方はシカトしていただいて結構です)

 三島がああいう行動に及ぶきっかけになったのは、自決の前年の十月二十一日(学徒出陣の日)、国際反戦デーでの騒乱を目撃したことでした。

全国で大規模なデモが繰り広げられ(社・共両党・総評、全国600ヶ所で統一行動、86万人参加。反日共系学生、各地でゲリラ活動、機動隊と衝突)、新宿の騒乱では騒乱罪が適用され、検挙者は東京だけで1221名に及んだのですが、三島はアルタ・スタジオの向こうにある大ガード辺りでこれを見ていたようです。

 三島はこの大騒乱が警察力では抑えきれなくなり、自衛隊による治安出動に至ることを期待していました。
そうなれば、戦う自衛隊は、もはや「戦力なき軍隊」とは言えなくなり、憲法改正が不可避となり、自衛隊は晴れて国軍として認知されることを期待したのでありました。

 彼の組織する楯の会は、自衛隊が治安出動するまでの「空白」を埋めるべく死を覚悟して行動することを考えていたようです。

 それ以前は、非正規軍による間接侵略が主流になるこれからの戦争に備えてイギリス、スウェーデン、ノルウェーの民兵組織、フランスの民兵構想などを参考にして、「祖国防衛隊」という民兵組織を組織することを目指したのでありますが、政財界の人から完全に無視されました。

そこで楯の会を組織して自衛隊の出動までの空白をうめる組織たらんことを目指したのでありますが、これも、圧倒的な警察力によって、10・21のデモが収束されてしまうのを見て、自分たちの出番はなくなり、もはや憲法は変わらないと痛感したといいます。

 自民党は敢えて憲法改正などという火中の栗を拾わずとも、警察力だけで乗り切る自信を得、「左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ」、「自ら護憲を標榜することの利点を得た」と認識するに至ります。

自民党は「最大の護憲勢力」となり、左には護憲を言って黙らせ、右の過激派には現憲法でもこれだけの危機収拾能力があることを思い知らせ、アメリカなど外国からの軍事的要請には、九条を盾に拒否することができるという、護憲の強固な構造が出来上がってしまったと三島は嘆いて、かくなる上は、精神的なクーデターしかないというところに至ったようです。

 つまり、戦後の偽善の大本が第九条であり、自民党はこれを欺瞞的に大いに政治利用するに至ったというわけです。

 ※

最晩年の三島の憲法に対する考えは「問題提起(日本国憲法)」(昭和45年)を読めばよく分かりますが、

まず、天皇については、「歴史、伝統、文化の連続性と、国の永遠性を記念し保障する象徴行為である祭祀が」「天皇の個人的行事となり、国と切り離されてゐる」ことが最も問題であるとして、歴史や伝統と関りないならば大統領でいいし、世俗君主とは祭祀の一点で区別されるのであるから、第二十条の「信教の自由」の規定から神道を除外すべきであると言って、象徴としての天皇の祭祀を国家と結びつけることを求めています。

つまり天皇の神聖性、明治憲法では「神聖にして不可侵」と書かれてましたが、これが保障されねば第七条七項の「栄誉授与」の根拠も出てこないし、
また政治的無答責は神聖性を内包しているゆえのもので、人間であることはつまり政治的責任をもっていることで、それがなければ、名誉棄損の法的保護しか受けえないという、論理的詐欺を憲法は犯しているといいます。

さらに第九条については、その改廃をそれ自体独立して考えては、アメリカなどの思うツボに陥り、日本が独立国家として、日本の本然の姿を開顕する結果にならぬと言っています。
三島の規定では、
「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に建軍される」
として、
「時間的空間的」「主体的に」に防衛できる軍隊には、自衛隊は育ちえないのが、九条の下にある現状だと訴えています。

 つまり忠誠の対象が、「未現実の人類共通の理想」になっており、「何を守るのか」を明らかにしないまま、自衛隊が外国の要請で動く「魂の死んだ巨大な武器庫」となっていることを憂いています。

 わたくしは、一人の文学者が生命を賭して投げかけた「問題提起」に対して、憲法改正が現実味を帯びて論じられる中で、余りに上滑りの犯罪的な浅薄さにあることを自分も含めて反省しなければならないと思っています。

 歴史や伝統の重みや国家とは何か、守るべきものは何か、浮薄な現実に流されて考えることを放棄し、考えることをタブーとしてきたような戦後の日本人に、一人の文学者が体を張って訴えたことは大きな意味があるとわたくは昨日改めて思った次第であります。
 

小便小僧

 投稿者:鎌田良知  投稿日:2017年11月23日(木)14時28分36秒
  男子用のトイレというのは、異形のトイレなのかもしれません。
見聞宝永記に小便小僧が登場します。道元の正法眼蔵が元々の出処になるそうですが、詳しいことは知りません。

余談:PET-CT検査にて。「立ち小便はしないでください。小用も座って足してください。周囲に放射能が飛び散ることがありますから。」といった趣旨の説明と掲示。なるほど。
 

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