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「肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一する」という思想の虎の巻

 投稿者:草原克芳  投稿日:2017年 3月21日(火)00時22分25秒
  通報 編集済
  ■日本会議の実体は、それ自体で見るとなかなか見えにくいようですが、
その前身である「生長の家」の思想を調べてみると、案外、世界観は見えてくるようです。
「鼻っから否定するのは止めるべき」だと大堀氏がいうので、
少し調べてみると、すぐ検索に引っかかってきますね。

【衆議院議員・稲田朋美氏の国家観・政治思想】
http://sei4ch1ou.seesaa.net/article/421281552.html

神社庁を枠組みとした神道のみならず、仏教系をも包含する理由もこの流れでわかるし
(「天皇→天之御中主神→大日如来/毘盧遮那仏」のシンクレティズム)
その権威を、最終的には「天皇」に収斂させる習合的な世界観構造になっているのも見えてくる。
これはかつて、大乗仏教の経典創作において、歴史的なゴータマ・シッダルタ/釈迦牟尼仏を、
宇宙大の偏在的な久遠仏や、ヒンズー教と混淆したような大生命的存在へと変容・放射させてしまった神話的想像力と、
ほぼ同じパターンがとられているようです。
かなり長いが、以下に、引用しておきます。


-----------------------------------------------------------------

~「私は、谷口雅春先生の教えをずっと自分の生き方の根本において参りました」(稲田朋美)~

【生長の家創始者・谷口雅春氏の教え】

>(1)国家は吾々の最高理念である。数字に先立って『数』が存在するがごとく、理念はすべての形あるものに先行して存在する最高の存在であり、生命(いのち)の生命である。国家はその理念のうちの最高なるものである。個生命はこの最高理念のために、『生命の生命』のために、一切をなげうって奉仕しなければならぬ。否、奉仕することそのことが喜びであり、それが個生命なる小さな理念的存在が最高の理念にまで包摂せられ向上し行く最後唯一の道である。銃後の親戚知友に送られて征途に旅立つ軍人の歓呼こそは、見送る人も、見送られる人も、それは個生命が最高の理念に包摂し向上する刹那の生命の凱歌であり、鬨(とき)の声である。
(谷口雅春『明窓浄机』草創篇284-285頁「昭和12年 天皇は中心理念に在す」)

■国家概念に向けての「個体生命」の否定が語られています。



>(2)戦争の倫理的意義 谷口雅春
私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられた場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければならないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争というものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれがあるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練るところの公案となるのである。
多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。
しかも同時に、肉体の『無』を理屈でなしに実証するところの行事である。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したところの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。

■戦争を「魂の修養の場」として見ています。
人間個人は、完全に客体化、道具化され、自律した存在とは見ていないようです。
したがって、精神の自由や、主体的思考は、ここではどうでもよいものであるらしい。
~つまりこれは、国民を〈量〉として扱い、命令に従順なるべき存在であることを強制するという、
〈人間を客体化・道具化する思想〉でしょう。
少なくとも、カントの説いたような、"自己が自己に対して立法し、それを実践する"という《格律》を持った近代的個人ではない。
また、"他者それ自体を目的主体として見るべきであって、決して功利的利用のための道具としては見てはならない"という、対等で自由な、対話的相互関係でもない。
要するに、あいかわらずの前近代的な「主人と奴隷/強者と弱者/命令者と手駒」の二元論的関係です。



>『爆弾を抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。
また、その命令者が教祖という個人である。
しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。
肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。
戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。

■こう見てくると、谷口雅春的観念論「肉体、物質、ほんらい無し」思想の帰着するところが、
「軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。
肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。」という、
戦前のファシズムにとっては、大変に都合のよい思想であり、
これは一見、伝統的な家族道徳を説いているような「教育勅語」のコア部分とも、重なってきます。


                 *

■これが、稲田朋美や、おそらく大堀氏が言っている価値観のネタ元ですね。
また、先日の防衛大卒業式の「軍人勅諭」まがいの安倍の訓示の背景も見えてきます。

個人的には、
京都学派+文学界グループによる昭和17年の「近代の超克」座談会で語られてきた「無」「空」の思想と、
これらの戦前の超国家主義思想・宗教とが、どうかかわっているのか、興味を覚えます。
日本浪漫派の保田與重郎の思想などとも、かなりオーバーラップしてきそうです。


 
 
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